北九州、祭りのDNA。やさぐれもんの血が騒ぐ。
この三連休、きょねんは「雲のうえ」のロケハンで北九州にいた。ちょうど小倉祇園祭りのときで、到着した17日から毎夜、街角の祇園太鼓の練習の音が響き、祇園太鼓競演会を迎える前夜の20日は、「宵祭り」にあたるのだろうか、アーケードのある小倉の中心街も、屋台や山車、太鼓の音に人の群れで、はちきれんばかりだった。
おれと、編集委員の牧野伊三夫さんは、太鼓の音を聴きながら、何度か酒を飲んだのだが、クライマックスな20日の夜は、太鼓の音にじっとしていられず、酒場をテキトウに切り上げると、その群れの中をふらふらした。小倉生まれの牧野さんは、目をうるませ、祭りに身をまかせていた。そしてまた一軒の酒場に入った。そこには練習を終え、上半身裸のままの男たちもきて、一緒に飲んだ。
小倉祇園太鼓は、太鼓の大きさも、こけおどしような大きなものはないし、見た目は屋台や山車も、とくに飾りに凝った派手なものではない。しかし、太鼓のリズムも単調だけど、聴いているうちに、静かな水が小刻みにゆすられながら波立っていくように、肉体と血が騒ぎ出す。「祇園」という言葉のイメージとは、ややちがう、やさぐれ感がただよい、それが生々しく肉体をゆするような気がした。「祇園」でも、ここにはここの、DNAがある。何度か、そう思った。
北九州の祭りは、小倉祇園太鼓だけではなく、きのうあたりニュースになっていたと思うが、八幡西区の黒崎、そして戸畑の祭りが有名だ。
北九州では戸畑の祭りを熱く語るのを聞いた。その祭りを体験したことはないが、戸畑区と洞海湾をはさんで隣接する若松区の、その洞海湾に面して建つ、若築建設「わかちく史料館」を見学したとき、若松や戸畑にかぎらず、海と鉄と炭鉱と深い関係で発達した北九州の労働と生活に流れる、DNAを感じた。それが祭りの人びとに流れている。
「わかちく史料館」は、一民間企業のこの手のものでは、かなり優れたものだと思う。と、おれがいうのは、「学者」「研究者」的な意味ではない。おれは、小規模ながら、じつに深い感銘を受けた。
この史料館は、一企業の歴史を残したものだろうけど、経営サイドの資料だけではなく、企業の環境、そこにあった労働の生活にまでわたって、展示してあった。それは洞海湾の歴史であり、北九州の歴史であり、炭鉱の切羽で働く、あるいは海上で働く、生々しい労働の姿でもあった。文学的?な言い方になるかもしれないが、たくさんの「無法松」を想像した。
少ないが祭りの写真もあって、なかでも印象に残ったのが、海上を舞台にした祭りの、みるからに「荒くれもの」たちの男や女の姿だった。
「祭り」は、「ハレ」と「ケ」にわける民俗学者によって、「ハレ」に分類されることがほとんどだが、少なくとも、これら北九州の祭りは、そういう分類は不当であるような気がした。ここの祭りはちがう、もっと激しい労働の日常の延長なのだ、ここならではの労働と生活のDNAがある。そこに祭りが組み込まれているのだ。そう思いながら、資料を見た。おれは、北九州の息遣いに耳をかたむけ、その地のエビス信仰と、働き食う生活が、かなり深い関係にあるのではないかというヒントを得た。
そんなふうに、いろいろ考えた結果が、「雲のうえ」5号の「はたらく食堂」の文章に直接あらわれているところもあるが、血肉の部分を形成しているにちがいない。ここに立ち寄らなかったら、どうだっただろうかと考える。「食堂」のロケハンで、飲食店をかけまわるだけでなく、ここにおれを連れて行った編集委員の大谷道子さんは、やはり編集者として、ただならぬ「感」の持ち主だ。と、おれは思っている。
いま一年前の写真をみると、あらためて、そのことを思い出す。
掲載する最後の画像は、昨年のきょう21日19時20分ごろ撮影。小倉祇園太鼓競演会が終わって、会場の小倉城がある公園から、各町内に帰るところだ。この夜も、遅くまで祇園太鼓が鳴り響き、おれは牧野さんの中学同級生の飲み会についてゆき、泥酔した。翌日22日、午後、北九州空港から帰った。
「街的」にみれば、祭りのDNAが、まちをつくっているまちと、そうではないまちがあるような気がする。祭りのDNAも、さまざまなのだ。
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