山は力だ。北九州市「雲のうえ」8号「振り向けば、山」。
日本の海辺の町は、たいがいは、山辺の町でもある。海と山に挟まれて町がある。海のほうばかりをみて、海を埋めたて、山辺を離れるにしたがい、そのことを忘れやすい都市もあるが、歴史的地理的にみれば、その町の暮らしは、その町の山容に強い影響を受けている。たとえば、「山の手」という言葉の存在と、その風俗の存在にしても。それから、山から流れ出る川、そして入り江や湾。
昨年夏、北九州の取材で、市街地をくまなくといっていいほど移動したのだけど、ほぼ、どこからも山がみえた。門司区のように、山辺と海辺の境がないような町もあった。小倉は、紫川流域に発展したが紫川の源流地帯は他県でも他市でもなく北九州の山々だし、洞海湾の両側にも山がそびえていた。海辺から見たら、北九州は、山容のなかに位置する町なのだ。
そこで、かどうか、今回は編集委員のみなさんが、北九州の山々に登ったらしい。山、登山、自然、山の暮らし、山と街、そのあたりが舞台のようだ。
「ようだ」というのは、よく読んでいる時間がないから、パラパラ見たていど。
「山は力だ」というのは、おれが出た、中学か高校の校歌のなかにある。小学校は、「山は紫~」だった記憶があるから、中学か高校。「やま~、やまは力だ~」という出だしだけ覚えている。おれの故郷は山のなかで、海に向かって流れる川はあったが、海はなかった。山の力だけ見て育ったことになる。
北九州の人びとのばあい、どうだろうか。北九州の山々は、どのように北九州の個性と関わっているのだろうか。
ついでに。近頃の、「健康」や「癒し」のために山に登るという考えは、不健康で不健全な精神から生まれた、ゆがんだものだと思う。そこには、「山の力」という「他者」を想像する、あるいは感じる、あるいは感じようとする、感性や知性の働きがない。「健康」や「癒し」というのは、「自分」の意識のことであり、「自分かわいさ」の登山なのだ。じつに日本的私小説的登山の「思想」だ。とくに、遭難者が急増している中高年の登山に、それをみる。
画像は、昨年、7月19日、朝9時半ごろ。小倉南区上葛原の「柴山うどん」で食べたあと撮影。この山は、比較的どこからも見えた。電線にも負けない山の姿。牧野伊三夫さんに名前を聞いたが忘れた。「貫(ぬき)」711.6Mかもしれない。
きょうは、あれこれ、それこれ、大阪取材の段取りやら。口内炎は、傷口に唐辛子やアルコホルをすりこむような、キムチや酒による刺激療法のおかげで、かなりよくなった。
北九州市「雲のうえ」8号、案内はこちら…クリック地獄
そのむかし、いつも「アカシアの雨がやむとき」を口ずさんでいる女がいた。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント