「生活を豊かにする」ということ。
ケラリーノ・サンドロヴィッチさんのブログ「日々是嫌日」の2008年08月12日「オリンピックに関わらない生活。」に、近年の自分の「稽古以外は台本のことばかり考えている生活」のことが書いてあって、最後にこうある。……「ただ、生活のことを考えずに生活し過ぎました。それはもう、明らかに。ということは以前も書いたと思う。 生活をしなければならない。金云々ではなく、生活をもっと豊かにすれば、豊かな芝居が作れるはずだ。わかんないけど。」
生活を豊かにする、って、たしかに何をやっているにしても大切だとは思うけど、どういうことかなあ。と考える。
おれのばあい。さしあたり、朝起きたら一杯の酒を呑みながら、今日は何を食べるか考えることだろうか。朝酒やりながら、好きな女と今度はいつ会えるかとか考えるのも、豊かな気分になれそうだが、しかし、さしあたりそんなことを考えても相手をしてくれる女がいるわけじゃないから現実的ではなく、やはり食う飲むのことになるか。
食べるものが決まれば、買い物も決まる。でも、食べるものが決まらなくても、買い物に出れば食べるものは決まるから、となると、今日は何時ごろ買い物に出るかなあ、どこへ買い物に行くかとか、あるいは出かける日は、今日はあそこへ行くから、ヨシッあそこで飲もうとか、あそこで食べようとか、そういうことをウダウダ考えるあたりから「生活をもっと豊かにする」ことは始まるのだろうか。あと、毎日、決まった時間に、好きなコースを散歩できるなんて、ずいぶん豊かなことのような気がする。
先日行った王子の大衆酒場「山田屋」は、「常連席」というのがある。
それは、自然に決まってきたのだけど、向かい合って、片側に10人以上は座れる長いテーブルだ。毎日来て、座る場所まで決まっているひとたちがいる。それを知らない、ほかの客がそこに座ろうとすると、店の人が「そこは毎日来る人がいるからあけといて」というぐらいのものだ。
その常連席を見ながら呑むというのが、みごとな「生活劇」を見ているようでおもしろいのだが、たいがいの常連は、あまり長くは呑んでいない。その飲み方が、またカッコイイ。
山田屋は、生ビールなどいくつかの飲み物以外は、自分でケースから出して席に持ってくるようになっている。常連は、決まった出入り口から入り(出入り口が二カ所ある)、決まったコースを歩いてケースのところへ行き、決まった飲み物を取り出し席に着く、そのとき周りの常連とそれなりの日々の挨拶をかわし、そのタイミングで店の人がそばに来て、注文を聞き、といったぐあいの一連の動きがあり、たいがいは言葉少なに無言劇のようにすすむ。そこに、ある種の「生活のリズム」や「生活の表情」が見られる。
彼らは、きっと朝起きたときから、あるいは、前夜、ここを出たときから、そのときを楽しみに生きているかんじで、それを見ていると、とても「豊かな芝居」を見ている思いがする。
というようなことを考えた。
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