俺のメシ、俺の町のメシ。
「俺の町」はどこにあるかといえば、「俺のメシ」があるところだ。ここは、川崎では有名な大衆食堂あんど大衆酒場。ここに入ると、「おおっ、ここに、俺の町がある」と思ったりする。
ふだんウチにはテレビがないから見ることもないNHKの「のど自慢」なんぞを見ながら酒をくらっていると、なぜか、ぴったりはまる。そこで、もう何十年間も、そうしてきたみたいだ。
大衆食堂は、テレビが街頭に進出したときから、もっとも熱心なテレビのファンであり、しかもNHKのファンなのだ。が、しかし、俺の記憶では、民放キー局のほとんどが、それなりの時間で大衆食堂の番組を一度は組んだと思うが、NHKについては、その記憶がない。
記憶がないどころか、何度か話はあって、ロケハンまで付き合ったこともあるが、実現しなかった。そのワケは、いまここで問わない。
ただ、NHKは、そういうところであり、それはまた、コンニチの日本の、あるいは国の、正直な姿だとおもう。だから俺はNHKの職員を責める気はないから、そのことについては、一度このブログで書いたかもしれないが、あまり書かない。と、いいながら、また書いている。
このモンダイは、かつて江原恵さんが、1970年代中ごろに、NHKの「きょうの料理」のモンダイについて指摘した、そのことより根深いモンダイをはらんでいる。NHKは、江原さんが指摘したモンダイは、それをあらためたのだが。それについては、もっと根深いモンダイがあるのだ。それは、NHKに存在するようだが、じつは、そうではない。NHKは、その存在を反映しているにすぎない。だから根深いのだ。
この空間に、「俺の町、俺のメシ」をみるひとは、少数派だとおもう。どうして「大衆」が、そのように「少数派」になったのか。これは、けっこうオモシロイことなのだ。
そして、日本は、未来へのビジョンを失った。なるほど、「知的」でオシャレになったが、ビジョンもなければ、カクゴもない。
なーんてことは、どうでもよいのですよ。
俺の町のメシ。ここから、俺の未来へのビジョンと生きるカクゴが生まれるのだ。てめえらのことは、しらんよ。好きなように趣味に生き、おしゃれに、えらそうに、オシャベリしているがいいさ。
珍しいアンドンのメニューに、「鍋やき」700円があるのを見つけ、ここに書いてあるのだから「季節もの」ではないのかな、お店のひとに尋ねてみた。
「鍋やきうどん、夏でもだすの?」
「もちろんですよ、注文があればね」という答えがかえってきた。
そういうことなのである。
未来へ向かうビジョンとカクゴは、マスコミを中心とする華々しい舞台ではなく、こちらにあるのだ。ほんとうは、テレビが街頭に進出した時代から、その前からも、それは変わっていないのだが。
「俺の町、俺のメシ」を愛するひとたちは、むかしから、ここにいる。明日を生きるビジョンやカクゴは、そういうひとたちから生まれる。マスコミ周辺のエンテリの脳みそから生まれるのではない。「俺の町、俺のメシ」をもたずに、ビジョンもカクゴもクソもあるものか。
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