木村衣有子「大阪のぞき」WEB版 第四回「demokura」に襟を正す。
木村衣有子さんの「大阪のぞき」は、 京阪神エルマガジン社発行の『ミーツ・リージョナル』と、京阪神エルマガジン社Webサイトの両方に連載されている。
きのう、15日に掲載されたWEB版の第四回「demokura」を見て、「衝撃」を受けた。というと大げさだが、「襟を正し」、とりあえず3回ほど読み直した。まだ何回か読み返すことになると思っているが、あまりにもショックが大きくて、酒飲んで寝たのだけど、そのことをずっと考えながら寝ていたようだ。朝早く目が覚めてしまい、また考えちゃうから、ちょっと忘れないうちにメモしておく。
木村さんは、一見、「女の子」が好きそうなテーマを、「女の子」が好きそうな文章(それは、また日本で最も古い体質といえそうな「男文化」が支配する活字文化や出版文化に巣くう男たちが「女の子」に期待するイメージでもあるようだが)で、書いているようにみえる。
だけど木村さんは、「確たる」といえるかどうかはともかくとして、いまどきのそういう文章を書いて満足している「女の子」とちがって、「ヴィジョン」があって文章を書いている。ということを、何度も一緒に酒を飲み、小旅行をしたことがありながら、そういう話は、まったくしたことがなく、木村さんの書いているものから、そう感じていた。
そのことがより鮮明、そしてなんだか、これまでやや試行錯誤がありながら、一つふっきれた、飛躍したものを、この「demokura」の文章に感じた。それは、おそらく、いま、「ものを書く」ということにおいて、一番大切な何かを、木村さんは、つかんだというべきか、覚醒したというべきか、そういう「新境地」を感じさせる。「確たるヴィジョン」に一歩近づいたようにも感じる。
おれは、ときどきここに、からかうように書く「日本的私小説的」文学風土が「嫌い」だ。「嫌い」というのは感情的であり、肌に合わないということもあるけど、それだけじゃない。それは好んだわけでもないのに、この列島に生まれてしまい、好んだわけでもないのに、この列島の言葉を使うがゆえに自分につきまとう風土なのだ。
モンダイは、その風土を自ら克服するかどうかだろうけど、それは、大げさにいえば、近代をひきずりながら現代を生きるか、近代を超克しながら現代を生きるかということでもある。おれはまあイチオウ、あまりマジメに取り組んでいるわけじゃないけど、問題意識をもって克服しようと、たまーに考える。と、思っている。
簡単にいってしまえば、「日本的私小説的」文学風土というのは、けっきょく「私語り」「自分語り」になる。日本の「私小説」といわれるものが、すべてそういうわけじゃないけど、たいがい多く流通している文章というのは、文章の最後に、こんなことを書く私は、「とてもカワイイでしょ」とか「とてもよい趣味しているでしょ」とか「とてもオリコウでしょ」とか「とても人生やモノゴトがわかっているでしょ」とか「とても個性的でしょ」とか「とてもダメでドジな人間でしょ」とか、あるいは「とても文章が上手でしょ」とか「とても文学がわかっているでしょ」とか、そういう「私」をつけたすとナットクのいく文章なのだ。
自意識の「過剰」も少なくないが、なんてのかな、自意識と外界とのバランスが悪い。ようするに外界とのバランスをどうとるかの「ヴィジョン」がない。
そんなことを、たまーに考えているおれは、この木村さんの「demokura」の文章に、「現代」をみた思いがした。そこで「襟を正した」わけだ。
おれは、2008/04/15「そこに、なにが、どのようにあるか。なぜ、それが、そこにそのようにあるのか。」なんて書いているけど、とくに努力しているわけじゃなく、やはり、これではいかんかなあと、「襟を正した」わけだ。でも、スグ忘れて、酒を飲むだろうけど。こうやってメモしておけば、ちったあ自戒に役立つか。
とりあえず、そういうこと。
朝7時ちょいすぎに、こんなことを書いて、きょうは始まる。
飲食店ガイドも、このように書けるとよいなあ。
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