エンテツと街を歩こうin北九州。アートな若戸大橋の楽しみ方…フツウの生活のありがたさ。
「アートな若戸大橋の楽しみ方」だが、まえがき、能書きのようなものが長すぎた。今回で最後にしよう。
自分も関わっていることだが、ちかごろ「文化」だの「芸術」だのというまちや連中が増えているけど、うっとうしい。ロクなものでないとおもうことが、たびたびある。
それにくらべたら、今回、たまたまフラフラすることになった、若戸大橋のたもとになる戸畑駅の北側と洞海湾をはさんで向かい合う若松側周辺は、ゆったりとした時間が流れるところで、いま「文化」だの「芸術」だのといわれるものから、まことに縁遠い。かつての石炭や鉄の時代の繁栄とコンニチの落剥が話題になるらしい地域だけど、ここには別の「アート」(「文化」だの「芸術」だのをまとめてこういってしまうが)な暮らしがあるのじゃあんまいかとおもって、あえて、「アートな若戸大橋の楽しみ方」とした。
よーするに、「文化」だ「芸術」だのと騒ぐのは、「クリエイティブ・クラス」といった連中が「クラス」といわれるほど増えてしまった、ひとつのセツナイ情報社会あんど消費社会のアリサマでもあるのだけど、「アート」だのといって、やたら人を集めたり、衆目を集めたりしなくてはならない。そこでは演出という干渉が、日常のことになっている。まちを歩けば、クリエイターやアーチストといったひとたちが一役買った演出という干渉が、あふれている。イベントが多い、イベント性の高い街である。
ウルサイんだよ、ほっといてくれ、てめえらが好きでやっていることを、「まちづくり」だのなんだとのといって、街の空間を占領し、おれたちに押し付けないでくれ、「アート」でもなんでもない、単なる騒音や落書きとおなじだ。と、いいたくなるほどだ。
コワイのは、そういいながら、日々の、そういう喧騒に巻き込まれ、自分を見失うことだろう。そんな不安もある。だからね、そんないまどきの「アート」なまちづくりとは縁がなさそうな街を歩くと、失われたものごとを見つけ、とても癒される。そこにある「フツウの生活のありがたさ」をしみじみ感じる。
そもそも地元の人には「ポンポン船」と時代がかった呼び方で親しまれている、若戸の渡船だが、まったく装飾性イベント性のない生活の実用である。100円払って、これに乗れば、にぎやかな街を埋めつくす文化的野望や芸術的野望から自由になれる。そこに自転車をかかえて乗っている人びとは、ワレワレのように写真を撮ることもなく、ただじっと船の外を眺めている。日常の中で、なにもせず、静かにじっと景色をながめる時間、これも「アート」に追い立てられるあわただしい生活が失ったことではないだろうか。
見よ、堤防の突端で、居眠りな感じで、のんびり釣りをするひと。独創的な時間の過ごし方だ。彼こそナマのアーチストではないかとおもう。ナマの暮らしで、こんな時間をつくりだすアーチストは、すばらしい。
あるいは、銭湯「中将湯」も、すばらしい街角アートフルなカラーだけど、その向こうには若戸大橋が見え、そして、銭湯の先隣の建物の前ではオヤジがイスに腰掛けている。銭湯のあとの、夕涼みだろうか。彼は、それが生活の日課であるのか、そうでないにしても、すでに数え切れないほど、そこでそのように時間をすごしてきたにちがいない。その間に、道路や建物のようすも変わったであろうが、彼は、そこに座り続けてきたと想像できる姿だ。それが彼にとって「まちで生きる」ことであり、欠かせない一つのようにおもえた。釣り人も夕涼み人も、派手なパフォーマンスをしているわけじゃないし、アーチストではないかもしれないが、まちがいなく、わがまちのアートな存在なのだ。
渡船に乗る前に立ち寄った戸畑の「海岸食堂」のおばさんも、そこで下着姿でめしをくっていた赤銅色のオヤジも、「話芸は芸術」なんていっている連中より、はるかに巧みな即席の会話をする。若松の有名な、ぎょうざの「鉄なべ」。ぎょうざを焼く鉄なべごと出てくる、そのぎょうざがすごくうまいのはもちろん、働く重み、生きる重みまで味わえる。そもそも一日に、何個だったか、千数百個だったかな? 客席のそばで、小さくちぎった粉の練り玉を棒でのばしては、それでアンを包み、ぎょうざをつくる作業の繰り返し。そういう日々を生きてきた、ぎょうざアーチストおばちゃんは、ぎょうざを焼きながら、働くひとに厳しい言葉を放ったりしながら、カメラをかまえるおれに何回かポーズをとってくれた。プリントを送る約束をしてきた。いい交流。
働く重み、生きる重み、だからこその、釣りや夕涼みの味わいがある、食べる楽しみがある。そんな暮らしが、2008/09/11「エンテツと街を歩こうin北九州。アートな若戸大橋の楽しみ方…力強さのヒミツ。」に書いたように、実用の大橋の姿である若戸大橋のたもとにある。大橋も渡船も暮らしも、そのように共に在って、続いている。
過剰な演出の少ない、フツウの生活の景色を味わいながら、それを大切にし、自分の姿を見失わないように生きたい、なーんて、おもうのだった。そして大橋が見える角打ちで、いい心地になるのだった。
こんな散歩ができる街があるって、いいとおもう。
消費にまみれた文化や芸術のアカを洗い落とすと、じつにすがすがしい風呂上りのような気分になれる。
イベントやイベント性にあまりふりまわされない、フツウの生活のよさが、もっと評価される文化や芸術がほしい。
北九州市には、フツウの生活が胸張って呼吸している地域がたくさんあるようにおもう。
コツコツ働く暮らしをわきにおいて、「文化」だ「芸術」だという連中がのさばるようになった社会やまちは衰退しても仕方ないかな。生きる重みも働く重みも見据えられないような、自分たちがはしゃぐだけの文化だの芸術のまちづくりや食には、未来はないさ。
2008/09/12エンテツと街を歩こうin北九州。アートな若戸大橋の楽しみ方…共に在る輝きを見よ。
2008/09/11
エンテツと街を歩こうin北九州。アートな若戸大橋の楽しみ方…力強さのヒミツ。
2008/09/10
エンテツと街を歩こう in 北九州。
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