エンテツと街を歩こうin北九州。アートな若戸大橋の楽しみ方…共に在る輝きを見よ。
恋愛小説より恋愛が先にあった。だけど恋愛小説ができると、人びとは恋愛小説のような恋愛を願うようになった。さらに恋愛小説がゴキブリのように増えると、いったいどのゴキブリが正しくおいしいのかを論じる評論が盛んになり、人びとは評論にみちびかれ恋愛小説を選び、その恋愛小説のような恋愛を願うようになった。そのようにして、恋愛小説より先にあったはずの恋愛は忘れられ、メディアがふりまく恋愛小説や評論に恋愛がふりまわされることになった。いまや恋愛は、メディアのハウツーに導かれるほどになってしまった。いったい、あの「場所」にあるはずの、自分の肉体で感じるべき「恋」や「愛」は、どこへ行ってしまったのか。
というたとえを出して、これは味覚についても、たいがいのことについて言えることなんだけど、もう一度、「場所」にかえる観光のススメが第二話なのだ。
もちろん「場所」だってメディアではある。こうして写真をみれば、それがよくわかる。つまり写真というメディアの以前に「場所」というメディアが存在していることを、写真というメディアは教えてくれる。視覚的ではない文章は、たいがい、たとえば恋愛小説のように、「場所」から人びとをひきはなしてしまう。
もっとも存在の原初的なメディアである「場所」にかえろう。とくに活字メディアやテレビなどによって、脳に注入された諸々から自由になり「場所」にかえろう。若戸大橋の一部がある景色を眺めながらね。
で、わが尊敬する原口剛さんは、バイトのコンビニでの商品の棚出し棚入れ作業が素早いだけじゃなく、『こころのたねとして』(ココルーム文庫)に、こう書いている。
「場所というメディアに特有の性質は、共に在ることを可能にし、また共に在るという地点から出発するしかない、というところにある」
そんなわけで、鉄の若戸大橋と共に在る「場所」を画像にしてみると、ようするに生活の場においては、たいがい共に在るのだ。人びとはもちろん、新も旧も、工業文明も非工業文明も、メディアによって観念的に敵対関係や二者択一関係のように語られている、なにもかもが、共に在る。だから、観念的な価値観や「まちづくり標語」や「まちづくり憲章」といった尺度を用いずに、「共に在るという地点から出発するしかない」というところにたつことだ。共に在る在り方を、そこから見つけられるはずだし、そうしたいとおもう。
まずは、よいか悪いかではなく、生活の場に共に在る、その輝きを考えてみようという話しなのだが、じつは、これから出かけなくてはならないから、画像だけアップしときます。
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