「お好み焼型」と「たこ焼型」。
2008/08/29「大阪・庄内、お好み焼「パセミヤ」。」に、「「お好み焼」は、広く深い食べ物なのだと、あらためて感じ入った」と書いてから、あらためて気になっている。実際に、お好み焼は「広く深い」。どんどん焼、フライ、ちぢみ…ちがう名前だけど、おなじような料理が各地にあるし。
に対して、たこ焼は、「狭くて深い」といえるだろう。タイトで深いのだ。なにしろ、あの丸い型だけでも、タイトだ。となれば、お好み焼は、「ルーズで深い」といえる。
こういうふうにパターン分けして、そこにいろいろなことをあてはめてみる。たとえば、「お好み焼型」の料理と「たこ焼型」の料理。「お好み焼型」の人間と「たこ焼型」の人間。「お好み焼型」の情報と「たこ焼型」の情報。「お好み焼型」のブログと「たこ焼型」のブログ。…とか。
拙著『汁かけめし快食學』の解説を書いていただいた、日本コナモン協会会長の熊谷真菜さんは、卒論の「たこやき」が本になったのだけど、なぜ「お好み焼」ではなく、「たこやき」だったのか。また、2008/08/28「大阪、ダイビル140Bの「140B」」に登場の江弘毅さんの著書は『「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ 』であるのだけど、たこ焼屋は街の学校になりえないのか、とか、考えていたら、いろいろ連鎖的に妄想がわいた。
江さんが、「お好み焼き屋は街の学校だ」と書いたのには、それなりの必然があるのだけど、 かりに、一般的に考えてみるなら、たこ焼屋を学校にするか、お好み焼き屋を学校にするかで、ずいぶんちがいがでるような気がする。やはり街の学校としては、考えれば考えるほど、たこ焼屋は不向きではないかという気がしてくる。
もしかすると、江さん嫌いの方などは、あんがい、たこ焼屋を学校にしているのかもしれない。そういえば、江さんを嫌いなわけじゃないが、『「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ 』はよくわからないといっているひとが知り合いにいるけど、たこ焼型のような気がする。ねえ、あんた。
「お好み焼型」と「たこ焼型」は、情報社会においては、対立の関係ではない。だけど、情報社会以前の見方や思考をひきずっていると、対立の関係にみられるかもしれない。世間には、そういうことがよくある。ブログやなんかの、うすっぺらな表層的な「評論」めいたこと(とくに、いまどきの政治?政局?について書いていること)に、こういうことをあてはめてみると、けっこう笑える。げはははっは。
と、やっているうちに、けっこういろいろ片づいた。
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