やさしい、ていねい、洒脱もいいが、乱暴にも馴染んでほしい。
基本的に俺は育ちが悪い。むかしは、「百姓の次男坊の家系」といえば、それだけで貧しく育ちが悪いことを意味していたが、俺はまさにそれだ。
で、よーするに行儀も悪ければ、口も悪い。と、開き直っている。「やさしさ」なんてのは臆病のあらわれで、「ていねい」なんてひとの顔色をうかがっているだけ、なんて思っている。そもそも俺は心理カウンセラーなんかじゃねえんだから、イチイチ相手のココロの様子など気にしちゃいられない、とも思う。
てなことで、なんかあると、スグ思ったことを、まんま口に出してしまう。いや、まんまぐらいならよいのだが、イザとなると、なにしろ「奥ゆかしさ」や、サッと切り上げる「洒脱」なんざ知らないから、トコトン言ってしまう。そのうえ、これは育ちの悪さに関係なく、育ちの悪さを起因とする飛躍的ねじくれ性格なのか、辛らつすぎるクセがあるらしく、ミモフタモなくなるぐらい言ってしまう。
一方、自分はガキのころから、いろいろ言われて育っているから、悪口だろうがなんだろうが、何をどんなふうにいわれても平気だ。これぐらいなんだい、という思いがある。荒っぽいコミュニケーション人生ですね。
そのように無反省にコンニチまできた。すると、なんだか、いまどきは、やさしすぎるし、ていねいすぎやしまいかと思うことが、たびたびだ。そして、ちょっとのことで、ひとの言ったことを気にする。なんとも気詰まりだ。
若いヤンキーみたいな男が、仕事の最中に、ちょっと荒っぽい言い方をしたぐらいで、なんだその言い方は年配者に対する態度か、テナことになる。幸か不幸か、俺のまわりには、俺という年配者に対して口の効きかたも知らない若いやつらがいるせいか、なにもそんなことで目くじら立てることはねえだろうと思うようなことまで、イチイチ気にしている。
ま、いいや、もう書くのがめんどうだ、タイトルにあるように、荒っぽい会話に馴染むということがあってもよいんじゃないかと思う。心理カウンセラーと心理病者の会話みたいなのがフツウじゃ、かないません。なんか、「心地よいファシズム」に飼いならされた、ちょっとのミスやアヤマチもゆるさない「世相」を感じるのだ。
荒っぽい会話を楽しもう。そうだ、こんど、荒っぽい会話な飲み会というのをやるか。
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