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2008/11/24

たとえば、リンゴの食べ方。

前に何度か、「輪郭」と「芯」について書いたと思う。モノゴトをとらえるとき、味わったりするとき、「輪郭」でとらえるのか「芯」でとらえるのか、「輪郭がはっきりした味」というような表現もある。話の中では「輪郭」と「芯」が混乱しやすい。それにモノゴトは「輪郭」と「芯」だけではない。

リンゴの輪郭つまり表層には皮がある。その下に果肉があって、真ん中に芯がある。芯の中には種がある。芯は、背骨のようなもので、見えない部分でリンゴのカタチの骨格をなしているともいえる。

リンゴの品定めをやるときは、たいがいリンゴを手にとって外側を眺める。リンゴを、どう回転させるかは、ともかくとして、手で動かす。目線の位置は変らない。光線も変らない。そのように外側を眺めて品定めをする。

だけど、店頭などではやれないが、ほかにも方法がある。テーブルの上に置いて、そのまわりをまわって外側を眺める方法がある。目線の位置も光線も、変えられるし変る。

とりあえず表層のことだが、前者は、あくまでも自分ひとりの目線であり、後者は、自分とちがう位置から見た他人の目線を想像することができるだろう。

リンゴを料理に置き換えてみる。料理を味わう場面だ。十人十色というから、厳密には、十人が別々の味覚で味わっているはずだ。ちがう位置からリンゴを見るように、ちがう味わいを得ているはずだ。とうぜん、評価は、それぞれちがってよいはずだ。

10人がリンゴを囲んで絵を描けば、全員がまったくちがう表層の絵を描くだろうことは、ほぼまちがいない。仮にリンゴをカメラで撮影すれば、そのちがいは明確だ。だけど、味覚のばあい、けっこう同じ味を「うまい」という例はめずらしくない。おでんは、ゼッタイかつおと昆布の合わせだしがイチバンというひとが少なからずいるように。

つまり何人いても、1人でリンゴを見て描いているのと同じ現象がおきる。このナゼは、おもしろいのだが、きょうは、そのことではない。

食べればなくなる味覚のばあい、1人で十人十色を、それぞれ想像するのは大変だから、もう少し絞ってみる。

まず自分の位置、つまり自分が好む味覚は、フツウはわかっている。それは確実だろうが、そこから先は、また分かれる。おれのばあい、自分の味覚(自分が好む味覚)のほかに、東京=中央の味覚、それは標準語みたいなものだな、それと地域=地元の味覚を基準にする。

地域=地元の味覚は場所によって異なるし、飲食店によっては東京=中央の味覚で地元の味覚は無いにおなじこともある。とにかく、その3つのファクターでとらえようとする。つまりリンゴの外側を、まず3か所から眺めるようなことをする。このばあい、難しいのは、初めて行った地域=地元の味覚の傾向を把握することだ。

イチオウ、自分の味覚を基準に、どれぐらいの距離や近さがあるか、それから東京=中央の味覚を基準に、どれぐらいの距離や近さがあるか、という目安を持つ。これは比較的やりやすい。つまり、同じ料理を、おれが作るならどうする、それから、この味覚をこのまま東京へ持っていって売れるか、売るために手直しが必要なら、どこをどう直すか、てなことを考える。

その味覚が、なぜそこにそのようにあるかは、すぐに把握できなくても、そういう目安で大雑把にバクゼンとした整理が可能であり、安直に「うまい」「まずい」を決め込まないことがカンジンだと、おれは思っている。

もちろん、これは食べ物のことで、飲食店の評価のことではない。それから、東京=中央の味覚に近いほど「うまい」ということでもない(そのように形成されたマーケットはあるけど)。また、これはまだ「輪郭」のことで、果肉や芯や種のことは含まれていない。まずは、店頭でリンゴを選ぶときのように、この表層の輪郭から入り、かなり大雑把なグルーピングをやっておく。

いくつか似たような質問があるので、書いてみました。とさ。

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