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2008/11/15

虚実皮膜の間で「行きつけの店のある生活」。

2008/11/13「「公正を期する」こと。表現と、それ以前の判断や思考。」で山口瞳さんの文章を引用した。すると、それを見た木村衣有子さんからファックスが入った。「私が今の仕事をはじめる前に『行きつけの店』なる本を熱心に読んだものでした。という話を5年前に書いたのを思い出し、よろしければ読んでいただきたく……」と。それは2003年7月発行、河出書房新社の『文藝別冊 山口瞳』に木村さんが寄稿したエッセイ「行きつけの店のある生活」だった。

俺は、おどろいた。というのも、引用した山口瞳さんの文章から、木村さんが『ミーツ・リージョナル』に連載の「大阪のぞき」を思い浮かべ、そのことを続けて後日書こうを思っていたからだ。

きのう。電話で木村さんと話しているうちに、木村さんが『文藝別冊 山口瞳』を貸してくれるとことになり、ま、それは飲む口実でもあるのだが、18時に、京浜東北線の北浦和駅で待ち合わせた。「志げる」へ行くためだ。

「志げる」は、オヤジたちで混んでいたが、二人がけのテーブルが一台だけ空いていた。湯豆腐、オッパイ炒め、レバ刺しなどを頼み飲みだす。生ビールのち燗酒。二合とっくりをたしか3本あけたあたりで21時過ぎ、出て、並びのバー「ワン・ステップ」へ。また生ビールを一杯やってから、ウイスキー。モルトウイスキーのメニューを「村上春樹的だね」とのたまいながら、別々の銘柄を二杯ずつ、水割りとソーダ割り。23時30分ごろか、それに近い時間に出て北浦和駅ホームで都内に帰る木村さんと別れる。文藝別冊を受けとり、それをネタにああだこうだ、某出版社のPR誌のツマラナイこと某氏がヘンにツマラナイ人間になったことなどネタにああだこうだオシャベリ。

てなことだったが、木村さんのその文章には、木村さんのデビュー作『京都カフェ案内』は山口瞳さんの『行きつけの店』を「参考文献」にしたとある。で、「10軒の店について知っていることよりも、好きな店が1軒あって、そこにいつでも行ける生活があることの方が贅沢だ。山口瞳は、小説家である以前に、まっとうな生活者なのだ」と書いた木村さんは、まだ20歳代だった。いま、いいトシこいた男が、あちこち食べ歩き飲み歩きして、その店の数を誇り、あの店へ行ったことがないようじゃホンモノの味を知らない、どこそこは名店だ、どこそこのなんとかは「絶品」だ、あの料理人は「名人」だなんて得意になっているのと大ちがいだ。ま、木村さんの「行きつけの店のある生活」については後日くわしくふれる。

じつは、2008/11/13の山口瞳さんの文章からの引用は、ちょうどよいところで終わらせたが、まだ続くのだ。もう一度、引用の最初のところだが、こうある。

 初孫が冷してあった。二級酒の小瓶(こびん)というのは、市販されていない酒であることを意味している。暑いので上衣(うわぎ)を脱いだ。
「上衣を脱いで、腕まくりをして、手掴(てづか)みで食べるのがうちのフランス料理です」
 佐藤さんが言った。彼は、こうも言った。
「料理というのは男が生命(いのち)をかけてもいいようなものです」
 その言葉は、おそらく、私が紀行文を書くことを知っていて、そのためのサービスだったのだろう。


この話は、ここで終わらない。山口瞳さんは、佐藤さんが、なぜそのようなことを言ったのかを考えている。あまり好きではない初孫を飲み、出てくるフランス料理を食べながら。そして、こう結ぶのだ。


「こんなところにこんなフランス料理の店があるのは不思議でしょう。私も不思議に思っているんです」
 と佐藤常務が言ったのは、これもサービス用か。たしかに、本当に不思議だ。生命をかけてもいいというのは、この土地に、この店にという意味だったと気づかされる。相当に頑固(がんこ)な人だ。


山口瞳さんは、「料理というのは男が生命(いのち)をかけてもいいようなものです」という佐藤さんの言葉を、「私が紀行文を書くことを知っていて、そのためのサービスだったのだろう」と思いながらも、その意味をこう考えた。

取材のときだけではなく、料理人は料理のほかに言葉や表情や態度で店の雰囲気や食べる雰囲気をサービスする。たとえば、「今朝、築地で仕入れてきました」といえば、客はよろこぶ。それはそれでよいのだが、「あの店は、毎日築地で仕入れるから」「うまい」「よい店だ」「名店」だ、てなことになると話は、ちがってくる。それに、これまであげた「印籠語」などは、雰囲気づくりとしては陳腐であり、すでに書いたように、そういう言葉を無造作につかう食品販売や飲食サービスあるいは食の話は、安直で惰性な腐敗の味わいがする。

ようするに、自分の頭の中にある「印籠語」の観念から出発するのではなく、そこにある物事や言葉から出発することじゃないかと思うのだが、なかなかそうはいかない。自分は何軒も食べ歩いている、うまい味を知っている、といった意識が先にたったりしがちだ。「まっとうな生活者」の感覚というのは、とくにメディアに関わる人間にとっては、簡単なことではないようだし、だからまた山口瞳さんはベンキョウになる。

チトきょうは忙しいので、大雑把にこれぐらいで。

関連
2008/11/11
「ゆるゆる大陸」「脱星印脱印籠語」とか。

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