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2008/11/19

もう一度。

たぶん、このブログの最近の山口瞳さんの引用を見てだろう、中原蒼二さんがブログ「吹ク風ト、流ルル水ト」の、2008.11.18 Tuesday「行きつけの店って…」で、こんなことを書いている。

 山口瞳のよい読者ではないことぐらい自分でもよぉーく解っているが、突拍子もないことを書く。
 江分利満氏や「わが町」「血族」の作家と、最晩年に『行きつけの店』を書いた作家に隔たりを感じてしまうのはおれだけか。
 そりゃ、おれだってこの本に出てくる店の数軒は行ったことがある。一軒は10回近くは通ったかもしれない。
 しかし、行ったことがあるといったって、心から落ち着いたことはないし、傍からみると緊張しているのがよくわかったろう。
 この作家が変節したなどとはいうまい。衰えたのだ、とおれは納得したいのだ。

ま、このことは、中原さんも「突拍子もないことを書く」といっている通り、今回おれがここで書いていることには内容的には、まったく関係ない「文学」のことであるらしい。そもそも、よい読者かどうかも関係ないし(その意味じゃ、おれは本も山口瞳さんもそんなに好きじゃない)、「わが町」「血族」と『行きつけの店』の比較など、おれは考えつきもしない。他人様の「変節」をとやかくいえるアタマもないし、もともと前にも書いたが首尾一貫だの、この道一筋なんか興味がない。そのていどのニンゲンが書いていることだと思ってもらえばよい。

でも、せっかくだから、ついでにチョイとふれておこう。かりに誰であろうと誰かさんが、その本に出てくるうちの1軒に10回近くは通って落ち着いたことがないにしても、「行きつけの店」というのは、それぞれのものであり、みんなにとって「よい店」「名店」であるとはいえない。じつにいやらしいほど特定の客と店の関係であったりするから、そういうところもたしか山口瞳さんは書いていたと思うが、誰かさんが落ち着かなかったのは、誰かさんが『行きつけの店』にするには相性が悪かったというだけで、よいのではないだろうか。何回行ったかも関係ないだろう。それを、作家の「衰え」にまでつなげて納得したいなら、それはそれでよいけど、こちらは引用の文章をオベンキョウしているだけなので、ま、ひとつの「教材」にすぎない。教材というのは、正しいから教材なのではなく、都合のよいように利用するものなんですよ。それで、そこから何が得られたか何か得られるかなのであって、それは教材に使われた作品の作家を、それだけで敬うひともいるけど、関係ないのだなあ。それとおなじですよ。「衰えた」って教材にはなる。嫌いな作家の作品だって教材になる。そういう「文学」の利用の仕方もある。

で、モンダイは、そういうことではない。2008/11/17「日常にかえる。」の続きになる。すでに5年前に「行きつけの店のある生活」を書いていたことも忘れていた木村衣有子さんは、トツジョおれのブログに「山口瞳」が登場したので、それを思い出したのだが、その文章の最後は、「買いものをしたことのない店について書くような無責任なやっつけ仕事もしてしまっている私にはいま、彼の姿勢が少しまぶしい。」なのだ。

前に書いたように、それはファックスで届いたのだけど、その部分の空欄に木村さんは、つまり買いものをしたことのない店について書くような無責任なやっつけ仕事は「ここ4年ほど、全くしておりません。おかげでビンボウになりました。でも気は楽です!」と書き込んであった。

「「やっつけ仕事」に悩んでいたときで「かけだしのときは(?)仕事は断るべきではない」という、誰に言われたか忘れましたが、無意味な精神論にとらわれていた時期だったと思われます」

2008/11/07「安直で惰性な「こだわり」の舞台あるいは舞台裏。」に、「ついでに。誰かさんに聞いた話だけどね。なるべく物事を正確に書くために、「名店」だの「逸品」だの「究極」だのといった、中身がアイマイな形容語句を使わないようにして飲食店や食べ物のことなど書こうものなら、たちまち編集者に「名店」だの「逸品」だのに直されることは、よくある。よくあるから、ちゃんと、そのへんの「編集意図」をあらかじめ「理解」して、「聖地」だの「至玉」だの「絶品」だの「厳選」だのという言葉をキラキラちりばめながら書くライターが、「よい文章を書く頭のよいライター」として重宝される。とか」と書いたのは、ジョーダンじゃないわけですね。何人かのひとに聞いた話だし、ま、おれも実際、10数年前の「駆け出し」のころは、渡した原稿とあがりが大分ちがっていてビックリしたことがあった。

そういう状態そして一方では「印籠語」が氾濫するなかでは、2008/11/13「「公正を期する」こと。表現と、それ以前の判断や思考。」に書いたように、山口瞳さんの『酒食生活』(角川春樹事務所、グルメ文庫)の「庄内のフランス料理」から引用したところなどは、ベンキョウになるというわけだ。

くりかえすが、まずは印籠をかざすようなことも、かざされた印籠をありがたがることも、やめよう、ということなのだ。つまり、対象を、よく観察する。相手が言ったことを、よく吟味する。山口瞳さんから引用した文章は、そこに関係する。

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