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2008/11/23

生活の中の絵あるいは美術または芸術。

Desk_saeki_kabe2008/11/22「高校生から取材のち『雲のうえ』きよしとこの夜。」に書いた、高校1年生くんと話して思いついたことがあったので忘れないうちにメモ。

たいがい初めて職業を選ぶときは「生き方」を考えている。たとえ明確に意識していなくても、「どう生きるか」を考えている。職業に就くまえに生きてきたし、生きるために職業を選ばなくてはならないからだろう。職業以前に「生き方」があった。

ところが、いったん職業に就いてしまうと、「生き方」や「どう生きるか」ではなく、職業のために、職業だから、ってことになり、ときには「生き方」や「どう生きるか」は犠牲になり、どうでもよくなってしまう。そんなことが多いような気がした。

話はかわる。『四月と十月』に「画廊の外の展覧会」を連載している言水ヘリオさんは、最新10月号では「浜田賢治さん」のタイトルで書いている。それは、言水さんが「この展覧会以後、私の美術に対する考え方は少し変った」という、「二〇〇二年十一月一日から七日まで、かうなやという神田神保町の小さな古美術店で」浜田謙治さんの作品の展示を見てのことだ。

「会場に足を踏み入れると、店としてはあり得ないくらい雑然としている。ここでは展覧会を行うことなどないのである。でもまあ古書店や古美術店にはこの手のお店は珍しくもないか。展示されている作品は、もともと散らかっていた店の、商品の隙間みたいなところに収まっている。全然目立たないし、こんなに展覧会らしくない展示は見たことがない」

言水さんの「言水制作室」は、神田神保町の裏通りにある。おれが1960年代前半にアルバイトで勤めていた御徒町の裏通りにあった事務所を思い出させる、ほとんど似たつくりの木造の古い建物の2階だ。その6畳ほどの言水制作室も雑然としているが、そこでときどき言水さんがコレはと思うひとの展覧会をやる。何度か拝見したが、そのために部屋を片づけるわけでなく、いつもの雑然とした仕事場に作品が展示され、ときにはその中で言水さんはデスクに向かって仕事をしていて、おれが行くと酒瓶を出して一緒に茶碗酒を飲んだりする。で、そこにまた別のひとが来て、そういう景色の中の絵を見る、ことによると一緒に一杯やる。そういう展覧会なのだ。

そのとき言水さんから聞いた、いわば持論というべきものが、この「浜田賢治さん」に述べられている。

「普段の生活空間において美術の作品というものを考えてみると、そのための一室を設けるなんていう特例はあれ、せいぜいが居間とか客間とか玄関あるいはトイレなどがその居場所としてあてがわれるわけである。展覧会で売れたとしても、そのような場所に置かれるのが作品の行く末である」「美術館に売れたなら、収納庫で温度・湿度も管理され大事に保管される。ではこれが、作品にとって最も幸せな居場所なのだろうか? 多分そうだろう」

ようするに、よく展覧会が行われる、美術館やギャラリーなどの空間は、きわめて特殊な「装置」なのだ。

「散らかった部屋の中の小さな美術。自分にとって美術は、買ってきて特別扱いするものではなく、見ようとして発見するものである。もっともこの「見る」という言葉も視覚に限って使用せざるを得ないので、あるならば他の言葉を使いたい。人がいて、生活して、素材があって、そこで何が行われているのか。今、興味はむしろ「行い」というようなところに集中している」

ってことで、近頃は、言水さんは編集発行していた展覧会情報誌『etc.』も休刊して「行い」のほうをやっていたらしい。

日本の美術あるいは芸術というものは「床の間」の飾りものだった。そこは生活から隔絶された空間であり、そこにうやうやしく飾り拝むように鑑賞するものだった。その延長線上に、美術館やギャラリーがあったといえそうな気がするが、とにかく、言水さんの持論には、「生活の中の料理」を主張した江原恵さんの持論に一脈通じるところもあり、すぐさま共感した。

美術も芸術も、料理だってめしだって、気どるんじゃねえ。ってことだな。

そういや、このあいだ言水さんと、チョイとちかごろ周辺で話題の某飲食店の話になった。そのとき、彼は、その洒落た店について、「いい店でおいしいけど、わたしのように旺盛に食べて飲みたいものにとっては、ちょっと高くつくから」てなことを言った。まったく同感。彼は、食べ物の話になると、目の色が変る。

画像は、おれの「行い」の仕事場にある、印刷複製の佐伯祐三さんの絵だ。タイトルは「壁」。1989年11月、というと、19年前か、横浜のそごう美術館で開催の『佐伯祐三とエコール・ド・パリの仲間たち展』で買った。現物の絵の前で、初めてビビビビビビビッと身体に電流が流れたので、買ったのだが、たしか500円ぐらいだった。その後、転々としながらも、捨てる気にならず、持ち歩いている。そして、いつもこんなぐあいに生活の場所にある。おれにとっては、印刷複製かどうかなんか、どうでもよい。これが、こうやってパソコンを打っている斜め前にあるだけで、よいのだ。

もしかすると、おれが選ぶ飲食店は、この絵をテキトウに置いて、旺盛に食べかつ飲むのが似合っている店なのかもしれない。できたら言水さんと、この絵を持って、そういう店に入り、テーブルのわきでもテキトウなところに置いて飲む「行い」をやるなんて、楽しそうだと思う。

それはともかく、佐伯祐三さんは早死にされたが、いつも街角に立って対象に向かい合って描きつづけ、そのために生命を縮めたといわれる。街角の、どうってことない素材=日常から創造するのは、大変なんだなあ。

あっ、絵の下右隣は、上野駅地下にあった食堂グラミが閉店のときにもらった、カレーライスのサンプルです。

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コメント

浜田賢治さま

はじめまして。ご本人様からのコメントで、うろたえながらよろこび恐縮しています。
この文章、粗雑なところもありますし、また我田引水で浜田さんの紹介については「手抜き」状態と思いますが、よろしければいかようにもお使いください。光栄であります。

とり急ぎ。


投稿: エンテツ | 2008/11/28 08:21

遠藤哲夫様 はじめまして浜田賢治と申します。実は「私的な記録」Ⅶ、Ⅷを私費出版しまして、「四月と十月」についての号は、後日言水さんに1冊進呈します。
本日、遠藤様にお願いがありメールしました。それは11月23日の遠藤様のブログを、もしもご承諾いただけるのでしたら「私的な記録」Ⅸに原文のまま載せさせて頂きたく存じます。お考えをお聞かせいただけば幸いです。浜田賢治拝

投稿: 浜田賢治 | 2008/11/27 20:52

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