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2009/01/31

ぼうずコンニャクさん、怒りの幕の内弁当。

げhahahaha、ぐははははと笑った、「ぼうずコンニャクのうまいもん日記」1月21日「北陸本線特急はくたかで大友楼「能登和牛弁当」」…クリック地獄

こんなふうに怒っている、ぼうすコンニャクさん。

 やっと席についたら駅弁を売りに来た。
「何がありますか?」
 というと「ますのすし」に幕の内弁当だという。
 ボクは基本的に白いご飯が好きなので幕の内にする。
 値段1100円は高いなと思うが、幕の内的に豪華なんだろうと期待する。
 これが大失敗だったのだ。
 中をあけるとぜんぜん幕の内ではない。
 「はくたか」にのった初っぱなにイヤなことがあって、それでこれかよ。
 ますます不愉快になる。
 責任者出てこい。
 これは決して幕の内ではない。
 牛肉弁当とすべきだ。
 幕の内の基本は俵型に型押しした白いご飯に黒ごま、そこにちまちまとおかずというもの。

……まだまだ怒っているのだが。そうなのだ、この弁当は、どっちかといえばぶっかけめし弁当だ、「牛丼弁当」のようなものだ。

幕の内弁当は、芝居見物の芝居弁当から始まったといわれている。それは、『幕の内弁当の美学 日本的発想の原点』(榮久庵憲司著、朝日文庫2000年)にも、「芝居弁当の形式」に「食べやすい小型の握り飯に汁けのない数種類の副食物を添える形式をとっていた」とある。いまでは、ほとんどの幕の内弁当のめしに、俵型の押しがあるのは、俵に握ったにぎりめしの名残りだろう。幕の内弁当は、握りめしから発展した系譜と考えられる。

とにかく、めしと汁気のあるおかずが混ざってはならない、というのが、形式だけではなく料理としても、幕の内弁当の特徴であるはずだ。幕の内弁当と汁かけめしは、一つの器に一元化されている点は共通しているが、料理と結果であるめしの味覚は、まったくちがう。白いめしが食べたいとおもって幕の内を選んだぼうずコンニャクさんが、牛肉がめしの上にのっていて、タレ汁をかけて食べる牛丼弁当のようなものに怒ったのはトウゼンだ。

JRは、そもそも「JR」だの「びゅう」だのと、日本の言葉の伝統の破壊を気にしないでやっているところだ。「牛丼弁当」のようなものを「幕の内」だということなんか平気なのだろう。もっとも、国民食といわれるようになった黄色いカレーライスを汁かけめしとして認識できない状態なのだから、料理や伝統の見方そのものが、根本のところでイカレているのかもしれない。幕の内弁当まで、日本は迷走してますなあ。

『幕の内弁当の美学 日本的発想の原点』は、1980年にごま書房から刊行され、「日本文化論」として大変話題になった。全編にわたって、これでもかこれでもかと、さまざまな事象を幕の内弁当の美学につなげて、その強引さまでおもしろい。カンジンな一点は、「ほどよさ」の美学や発想だろう。とくにバブル以後、失われてきた、「ほどよさ」を考えてみるのもよいようにおもう。

この件については、きのう届いた『ミーツ・リージョナル』3月号(京阪神エルマガ社)の、あるコラムに関係するので、あとでまた書く。ミーツの特集は、「ラブ たまご」。めくるめくパーンクなたまごワールド。不況下の貧乏人も薄金持ちも見栄金持ちも楽しめる、たまご料理。じつにタイムリーだし、待っていたぜ、こういうの。という感じ。明日発売。書店で手にとってみればワカル。

きょうは『雲のうえ』10号(北九州市)も届いた。特集は「銘店巡礼」。食の「銘店」のことで、ま、どんな雑誌も一度はやる、やりたがる、人気がとれる無難なテーマ。はたして、「雲のうえ」らしさ、つまり「北九らしさ」はでたか? 「北九州における銘店とは」どういうものだろうか。大変興味深い。読んでから、後日紹介します。

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2009/01/30

はて、2月7日の「泥酔論」だが。

文学を志してはいないが作文するし文章を読む。料理人を志してはいないが料理は食べるし料理をする。

写真家を志してはいないが写真を撮る。画家を志してはいないが絵を描く。歌手を志してはいないが歌をうたう。

映画監督を志してはいないが映画を観る、ときにはビデオも撮る。俳優を志してはいないが芝居を観るし、ときには男や女を相手に片思いの一人芝居をやる。浪曲師を志してはいないが浪曲を聴くし、ときには便所でうなったりする。杜氏を志してはいないが酒を飲むし、ときには密造酒を作るひともいるだろう。

…そういうことは、いくらでもある。それがフツウではないか。

会社に入るひとは社長を志さなくてはいけないのか、といえば、そんなことはない。新入社員研修だって、社長になるための第一歩、というものじゃない。エリート以外は奴隷のように働く喜びを覚えさせられる。たいがいは、そういうことなのだ。

なのに、文学を志すように文学や言葉にふれ、料理人になるように料理を食べ作らなくてはいけない、というような権威やドグマが、けっこう横行している。これは滑稽というしかない。泥酔せずには、いられない。

滑稽といえば、あの麻生は、なぜ不人気の「給付金」(この名前からして納税者であり主権者である国民をなめている)にすがり、居直っていられるのか。そこにコンニチの日本のカギがありそうだ。泥酔すれば見えてくる滑稽な現代。金融危機だというが、株の売り買いをしているやつはいて、あいかわらず巨額が動いている。みんなが損をし苦しんでいるかのように、文学的につくられた「100年に一度の経済危機」をテコに何が進行しているのか。おれの経済危機は生まれてから続いている。

須田泰成さんのスローコメディファクトリー=スロコメ日記を見たら、2月7日トークライブ「泥酔論」が告知してあった。はて、どうするか考えるともなく考えた。なにも浮かばないが、アレコレ考えた。アレコレ、ソレコレ。たくさん考えておいて、酔いにまかせて暴発する。文学と料理に関する権威やドグマを、過激に笑いのめすか。

とにかく須田さんとの仕事で、短いイノチでおわりレアな逸品となった「エンテツの大衆食道」の鶯谷・信濃路編を見られるようにしよう。昼間から信濃路で泥酔しているおれの映像、編集製作がうまいから、これだけで笑える。

2月7日にちようび。ことし第1回目の新年会のつもりで、一緒に泥酔しましよう。

スロコメ日記…クリック地獄

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カレの味覚の居場所をめぐって。

もちろん、このタイトルは、3月7日シンポジウム「場所の力――歩きながら考える」で、五十嵐泰正さんとおれがやる「都市の隙間―<貧乏くささ>の居場所をめぐって」からのパクリ連想だ。

前のエントリーの「葬儀屋と保育園」については、イマイチ言葉が足りなかったような気がする。ようするに「葬り屋」と「育て屋」ではちがう。そんなことは、誰だって知っていそうなものだが、なんだか、近頃とくに「葬り屋」が「育て屋」のような顔をすることが少なくないような気がした。消えてゆくものに、「伝統」や「未来」をみているわけでもなく、懐古、追悼、追憶…などの、アートな素晴らしい墓標や記念碑(文章などもね)をつくる。それが上出来だったとしても、それは、「葬り屋」の仕事であって、「育て屋」をしているわけじゃない。それを、あたかも「育て屋」をしているがごとくふるまったり、自慢したり自己顕示するから、オカシイのだ。

おれは、ニュースを見て、警視庁に「少年育成課」があるのに、おどろいた。警察は「育成」が仕事なのか、警察が「育成」の仕事ができるのかと、いぶかったのだ。

ま、警察官が、どのような「育成」の技術や方法や知識を身につけているか知らないし、それが、教育委員会のような他の地方自治体の役所の「少年育成」とおなじなのかちがうのかも知らない。警察は「育て屋」の仕事ができるのか、そういう仕事をするところなのか。「育成」は看板であり「取り締まり」ではないのか、もし「育成」が看板どおりだとしても、警察が「育て屋」に手を出すのはよいことなのか、そうおもった。

井上ひさしさんが、何かに書いていた。彼は子どものころ、数か月ぐらい、岩手県の一関に住んだ。きょねんの夏、一関市の世嬉の一酒造さんを取材したときも、その話を聞いた。

で、井上少年は、本屋で盗みを働いて、その場で本屋のおばさんに見つかってしまう。おばさんはどうしたかというと、本を一冊盗まれることが本屋にとってどんなに大変なことかを話したのち、裏庭かどこかに連れて行って、まき割りをさせる。まき割りが終わったころ、おばさんは、その本(たしか国語の辞書だったと記憶する)を井上さんにあたえ、そのうえ、おカネも渡す。そのカネは、まき割り賃から、本代を引いたものだった。おばさんは、働けばカネがもらえて、カネを得れば、こうやって買えるのだ、そうするものだと、諭す。たしか、そんな話だった。

まさに「教え諭す」つまり、おばさんは「教諭」をしたのだ。

実際、ひとを教え諭すのは、簡単ではない。そのことに知恵をしぼっていなくては、その場面になってからでは、できることではない。

子供を信頼するだけではなく、子供はまちがったことをするものだとの覚悟がいる。教え諭すことを「生活の知恵」として日頃から考えていなくては、その場になって、大声出したり「体罰」したりという、自己の怒りまかせた行動になってしまうだろう。でなければ、警察にまかせることになる。

おれも、イザとなると、このおばさんのようにできるかどうか自信がない。本を読むより愛人を大事にしなさい、と諭しそうだ。あまり「健全な人間」になりたいとはおもわないし、自信はないが、子供も大人も、人はまちがいをおかしやすいものだから、教え諭すことが、「育てる」ことの基本になっていなくてはおかしいだろうとおもう。それでこそ、「罰」は生きるのだとおもう。

教え諭すことが前提になっていない、その方法も知識も考えられてないところで、「育成」をはかると、どうなるだろうか。

性善説だの性悪説だのを、わかったようにふりまわす前に考えなくてはならないこと。体罰がいいか悪いか以前に考えなくてはならないこと。野宿者に「怠け者」のレッテルを貼って排除すれば済むモンダイなのかということ。

これは、くえないものをうまく食べられるようにしてきた料理と似ているところがある。そうおもって、「カレの味覚の居場所」のタイトルをおもいついたが、きょうは、もうアタマもキーを打つ手もくたびれた。

未来をよくする知恵をしぼっていなければ、未来はよくならない。ありふれたものをおいしく食べる知恵をしぼっていなければ……。

ま、備忘のメモってことで。
24時を微妙にすぎてしまったな。

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2009/01/27

北九州市折尾の学生食堂の閉店と橋本食堂の休業。葬儀屋と保育園。

Orio_horikawa0074ナントナク、落ち着かない。でれでれ続いて締め切りのない仕事がある。終わったのか終わってないのかわからない。システムのメンテナンスのような、あるいは行方の知れぬ恋のような。

いろいろなニュースが飛び込んでくる。といっても新聞ネタではない、近辺ネタだ。クボシュンさんから電話があって、ブログネタになりそうな話が、たくさんあった。なかでも老化防止策として、「胸がときめくような恋をしたい」は、おもしろかった。胸がときめくような恋か、いいねえ~。だけど、よほど惚れないかぎり老化対策ぐらいじゃ恋なんかメンドウなだけだろう、それに、これぞとおもう女に冷たくされ相手にされなかったら、苦悩だろう。老いらくの失恋と苦悩は、たぶん、身にこたえて、イノチを縮めるぞ。…そういうことじゃない。けっきょく二人の話が行き着いたのは、前立腺の老化に関する諸モンダイと対処について、なのだった。こんな話をしたなんてブログに書くなヨといわれたから、カンジンなところだけ書いた。彼は職場の休憩時間中の携帯だった。

大阪のココルームから、3月7日のシンポジウム「場所の力」のチラシが届いた。欲しい方、配布していただける方、連絡ください。

さて、ほかに、いろいろあるが、これは、まちがいなく重大ニュースだ。

「吹ク風ト、流ルル水ト。」を見たら、北九州へ行ってきたらしく、こんなことが書いてあった。
http://ho-bo.jugem.jp/
2009.01.27 Tuesday

エンテツ 様

 折尾・堀川沿いの「学生食堂」おかみさんの高齢化で閉店。
 特チャン(特製チャンポン・200円)で名高い、「橋本食堂」の入口には「しば
 らく閉店」の貼り紙、どうやら高齢のご主人が亡くなられたようです。
 以前から、今にも崩れ落ちそうだった橋本食堂の屋根にも、雪が降り積もって
 いて、あらゆるものが往き過ぎていく…、そんな思いの折尾行でした。


学生食堂も橋本食堂も、おととしの『雲のうえ』5号で取材した。

学生食堂を一人でやっていたおばさんは、すでに、身体の具合が悪いといって、動きも何かをいたわるようにゆっくりだった。橋本食堂のご主人は元気そうだったが。

とにかく、画像を掲載する。

どちらの食堂も、北九州市八幡西区の折尾駅に近い、堀川(最初の画像)をはさんで、ほぼ向かい合っている位置にある。堀川は、奥地で産出する石炭を運ぶため掘削整理された川で、折尾と北九州だけではなく、日本の近代を語る、貴重な場所だとおもう。近代の産業と労働と生活の風景が凝縮しているところ。が、例によって、区画整理で、この景色は変えられようとしている。

Orio_hashimoto0092橋本食堂は、その区画整理に反対する文章を店の前に貼って営業していた。文面を正確に覚えていないが、「私たちの記憶が溜まっているところを奪うのか」というようなことが書いてあった。自分が生きる「場所の記憶」に対するおもいが感じられた。建物も、ここで生きぬき、老朽の道を歩んでいる風情だった。

『雲のうえ』では、橋本食堂について、本文中、こう書いている………

 『橋本食堂』は200円の「特製チャンポン」一本勝負。八幡西区折尾の学園門前町ともいうべき立地で、周辺には、東筑(とうちく)、折尾、自由ヶ丘、折尾愛真(あいしん)などの高校短大がある。そこの子供たちは、もう家族みたいなものだ。特製チャンポンのほかにも、ソフトクリームなど簡単な甘味もある。開店40年、あるじは黙々とチャンポンをつくる。その後姿に長年の一徹とやさしさを感じる。また会いたい、忘れられない、名物にしたいような背中だ。

………引用、おわり。

Orio_hasimoto011また、写真のキャプションには、こう書いている。「夏休み中でも、体育祭の準備や部活の子供たちで混みあっていた。卒業した先輩が後輩と連れだって来る。思い出になる場所なのだろう。その思い出には、あるじ夫婦がいるにちがいない。」

画像は橋本食堂の外観と、『雲のうえ』に掲載の齋藤圭吾さん撮影の写真。黙々とチャンポンをつくるあるじの後姿を、うまく撮っていてくれた。

学生食堂C&Dは、写真のキャプションに、こう書いている。
Orio_gakusei0075「橋本食堂と堀川をはさんでいる、同じ学園門前町だ。看板の下の赤いかすれた文字が「C&D」と読める。子供さんがつけたキャッチフレーズだそうで「チープ&デリシャス」の略。もう最高。中は、おれの記憶にある1960年代の学生食堂をほうふつとさせる。ひさしぶりに小麦粉の味がするカレーライス(350円)を食べた。」

Orio_gakusei0078

たくさんの食堂の閉店を見送ってきた。

すべてに始まりと終りがあり、「あらゆるものが往き過ぎていく」のだが、書き方はさまざまだろう。おれは、すでに何度も書いているように、そこに何がどのようにあるのか、その記憶を書きたい。懐かしく残念でも、懐かしがって残念がって、それで葬送を終えてしまうわけにはいかない。

「あらゆるものが往き過ぎていく」なかの、どこに「伝統」をみて、どこに「未来」をみるか。場所にふさわしい生活の原理や知恵などは、そこに成り立つ、ハズだとおもう。

「記録」は、葬送の墓石に刻むようなものと、保育園で未来のある子供たちに語るためのものでは、おおいにちがう。文章以前に、そのことがあるだろう。葬儀屋は保育園ではない、保育園は葬儀屋ではない。

たぶん、人間が生きていくためには、いつも黙って見つめてくれている存在が必要だ。このひとに見つめられている、とおもうだけで、なんだか安心だったり元気になる存在。「やさしさ」とはちがう「あたたかさ」というのは、そういう無言なものだとおもう。食べ物にしても、特別なものじゃないが、それを食べると、なんだかホッとするものがあるだろう。たいがいの食堂は、そういう食堂であるし、橋本食堂も学生食堂も、そんな食堂だった。

2011年11月12日、追記。
ここに書いた橋本食堂さんのご主人について、下のコメント欄に、亡くなられたのは奥様との情報をいただきました。とんだ間違いで、すみませんでした。お詫び申し上げます。

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2009/01/26

「リッチな朝食」のフシギ。

ちょっと前に、どこかのプロバイダーのサイトで、「朝めしを食べよう」特集をしていた。いろいろな朝食が紹介されていたのだけど、その中に、ちょっとリッチな朝食なら「洋風」で、ってなキャッチがついたものがあった。

そのことが気になっていたので、確認しようとおもって、「リッチ」「朝食」で検索した。その記事はみつからなかったが、ヒットした順番に見ていくと、なんと、最初からいつまでたっても「洋風」ばかり。それも、たいがい、女のブログか、女を意識した記事ばかり。

米のめしに納豆じゃ、リッチじゃないのか。
玉子かけまんまじゃ、リッチじゃないのか。
ねこまんまじゃ、リッチじゃないのか。

よくある女向けの食ネタをふりかえってみると、いわゆる「和風」についているキャッチは、「ヘルシー」が多いような気がする。

このステレオタイプは、なんだろうか。近年、女が日本を変えているとかで、男も女に気をつかい、おだてたり媚をうったり、「逆チョコ」なんてのまで登場した。ま、商売が大変だから不況でも衰えない性欲の男女ネタをからめたいし、男は女心をくすぐって、やりたい一心だろうけど。マニュアル通りに女をくどくと、釣れる女がいるから、またそのテのものが売れて繰り返されるのもうなずける。

女の進出なんていっても、「ミスなんとか」のように、しょせん男の手のひらの上でのこと。男のステレオタイプが反映する。男におだてられ舞い上がって「リッチ」だのといっている思考の中身は、ステレオタイプの男のように、じつに貧困そのもの。

が、しかし、そういうレベルのことなのか。
そうじゃなさそうだ。

最近知ったスウェーデンのじゃがいも料理を見ておもった。ベースはじゃがいもの千切りでも、混ぜるものやトッピングで、リッチあるいは非日常を演出している。ベースは、おなじ。

日本のばあい、ベースが、まったくちがってしまう。「洋風」にジャンプしちゃうのだな。そこにはなんの連続性もない。これは、女がバカか男がバカか、というレベルのことじゃなく、けっこう日本的な近代的なフシギではないだろうか。考えてみても、いいんじゃないだろうか。

「日本人ならコメ」という発想も、どこか無思考でおかしい。その裏返しとして、リッチにやるなら「洋風」って無思考につながる関係もありそうだ。

きのうのエントリーにも関係するが、このへんにもプリンシプルの不在を感じる。
日本のフシギであり難しさだ。

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2009/01/25

生活。

引っ越しをすると、「生活」が鮮明になる。「生活環境」が変るからだ。駅までの道順、買い物の道順…。たとえば買い物をする店。何軒か試しに買ってみて、近頃は、ほぼ固定した。値引きシールが何時ごろ貼られるかも覚えた。

ウチは新聞をとってないから、チラシを見比べて買い物することはできない。店に行ってから、今日は何が安くてよいかを知る。いちいち計算しながら買うことはしないが、同じ店で買い物をしていると、これでだいたい千五百円ぐらいだろうとか二千円ぐらいだろうという見当が、ほとんどはずれないようになる。つまり習慣的な判断ができるようになる。習慣的な判断は、道順の選択のように、たいして意識されることがない。それが、新しい生活環境に慣れたということなのだろう。

通いなれた生活のなかの酒場だったら、メニューを見ずに頼んでも、勘定の判断がつくだろう。まだ、ここに、そういう行きつけはないが。

習慣、広辞苑の第五版を見たら「日常の決まりきった行い」とある。ようするに、くりかえし行う日常の決まりきった行い、これが、生活ってもんだな。

ときには、ヨシッ今夜はフンパツして鯛のしゃぶしゃぶをやるかと二千数百円の鯛を買う(モチロン養殖)。そのときは習慣的な判断とはちがう「フンパツ」な判断をしている。そして、ちゃんと、その金額は超過になっている。

ひさしぶりに鯛をおろした。約35センチの鯛で、まな板からはみだす。やりにくい。でも、ひさしぶりにしては、うまくやれた。鯛をおろすのは習慣ではないが、何度かやったことがあり、包丁さえ切れれば、大過なくできる。自慢するほどのことじゃない。

ひとのイノチやココロにとっては、習慣的な判断が大事だとおもうが、仕事と趣味のかげで生活が軽視されがちできた近代日本では、非日常的なイベント的な、派手なこと、特別なこと、珍しいこと、新奇なことなどが注目され、習慣的な判断の基準は、あまり問われないし話題にならない。

不況になると、「倹約」が流行る。それはまあトウゼンのことなのかもしれないが、なんだかオカシイ。カネがあるなら贅沢をし、カネがないから倹約ということならば、生活のプリンシプルやポリシーってのは、どうなっているのかとおもう。

とかくカネを気にしないで買い物するのが、カッコイイ、出世というか成功というかの証しのようにおもわれている節もある。もちろん、見栄も関係する。所有するだけ所有し、占有するだけ占有し、蒐集するだけ蒐集する。数をやりたおす、ナンパも、飲み歩きも食べ歩きも、おなじ。消費主義が、それに輪をかける。そこには、優越感や自慢や自己顕示はあっても、生活のプリンシプルがない。

プリンシプルのないところ、処世術がものいう。倹約も、不況脱出までの処世術にすぎない。もう何度も繰り返してきた。おごった口は倹約できても、おごった気分と態度は、処世術ぐらいじゃ、なかなかあらたまらない。

『平成ノ歩キ方 4』(木村和久著、小学館)をパラパラ見た。「平成不況を吹き飛ばす」「不況よ、さらば」の言葉が腰巻にある。1994年の発行。風俗の仔細は変わっても、またくりかえしだ。とくに、おごれるテレビや出版などのギョーカイ人や周辺は、あいかわらずだねえ。

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孤立は孤独より孤独だけど、孤立も、いいだろう。

すっかり、スウェーデン料理のじゃがいもショックだ。千切りじゃなく、つぶしたほうが簡単にできそうなのに、千切りじゃなくてはいけないのか。と、考えながら、スーパーのなかを歩いていたら、おもわず、じゃがいもを買ってしまった。ウチにじゃがいもがあるというのに。それにしても、あの麻生が、なぜ居座っていられるのか、考えてみなよ。

知的泥酔と痴的泥酔について考えた。

コメントにあるけど、刃研ぎ堂さんが、リンクのバナーをつくってくださった。

「作るの大変だったので見てあげて下さい。」と。
http://www.toshima.ne.jp/~hatogido/link3.html

手の込んだ、大衆食堂的バナー、ありがとうございます。

刃研ぎ堂さん、築地で修業して、研ぎも料理もうまい。このあいだ、大宮の方のスーパーで同じ名前の刃研ぎが出るチラシが入っていたので、刃研ぎ堂さんに聞いたら、それは同じ名前を騙るニセモノだった。ニセモノが出るほど、その世界では名が知られている存在らしいと知った。

ああ、ひさしぶりにヨツパライ深夜便か。もう、午前2時か。どうも、イマイチ、おもしろくねえな。クソッタレ。

この時期、村上春樹にエルサレム賞とはね。

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2009/01/23

またまたスウェーデン料理。

右サイドのコメント欄は、スウェーデン料理で盛り上がっている。「ヤンセンの誘惑」やら名前は知らないがミートボールの料理だの、「スモーゴストルタ」だの。

そして左サイドバーのリンクにある「旅人文化ブログなんでも版」を見たら、まりりんもスウェーデン料理に巻き込まれていて、笑った。これがまた、まりりんも書いているが、なんとも不思議な見た目。不思議な食べ方。

2009.01.21「名前が覚えられないスウェーデン料理」
http://blog.tabibito-bunka.com/?eid=843903

「見た目、大変不思議ですねえ。」「私も手伝いましたが、1時間半、ひたすらジャガイモの皮むきと千切りを作ってました。。。ジャガイモジャガイモ。。とにかくジャガイモ。」「ということで、何回聞いても覚えられなかったこの料理の名前。なんだったかなあ。」

なんだかスウェーデン料理はおもしろい。じゃがいもを使い、大衆食的だし、不況に強そう。

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ようするに泥酔。

きのう、17時赤羽、木村女史と待ち合わせ。二軒はしご、生ビールのちチューハイのち燗酒。のち東十条。めざしたところが貸し切りだったので、ひさしぶりに信濃光の酒場。信濃光を燗で何杯目かに、トツジョ酔いが深まる。駅ホームで木村女史と別れたのを、うっすら覚えているだけで記憶喪失帰宅。

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2009/01/21

寒中見舞い葬式結婚「春の雲」。1909年生まれ、生誕100年。

長野県下諏訪のすみれ洋裁店から葉書大の封書が届いた。あけると、「寒中お見舞い申し上げます」の書に、一年前の寒中見舞いもそうだったがミシンでものを作っているひとらしく、紅白の糸を縫いつけたカード。そのカード、片面がドッキリ「わたしのお葬式」と。

清らかな秋晴れの空の下、地元の諏訪大社にて
私、松崎緑は無くなりました

すでにブログに書かれているが、結婚されたのだ。「わたしのお葬式」をひっくり返すと「わたしの結婚式」になる。

清らかな秋晴れの空の下、地元の諏訪大社にて
私、松崎緑は結婚式を挙げました

新しい名前は、最近のブログに書かれている。遅まきながら、おめでとうございます。

続続・すみれ日記 
http://sumire-yousaiten.blogspot.com/

Simosuwa_sumire_002

封書には、ほかに、昔の藁半紙の文庫本の1ページのようにデザインされた「徒歩10分の場所」という、すみれ洋裁店の道案内の文章が入っていた。「信州の小さな町、下諏訪の駅の改札口は一つしかありません。/その改札を抜けると、大きな御柱が駅正面の両側に門のように聳え立っています。」と始まる。

そうだ、あの場所だ、あの看板だ、あの、一度行けば記憶に残る店だ。この文章、ただの道案内なのに、ただの道案内の文章じゃない。うーむ、素晴らしい。「道案内文学大賞」の大賞を贈りたい。力強く簡潔で芳醇にして爽やか、腰が据わっている。清酒にたとえるなら…って、そんな清酒があるか。

そして、もう一つ「案内」が入っていた。中綴じ四頁の小冊子。あまり文学してないおれは、初めての題、初めて著者。「春の雲」、「「善光寺平」より」とある。

「善光寺平」津村信夫著/國民圖書刊行會発行(一九四五年一二月)より抜粋、なのだ。

これは、「信州といふ國」への案内の導入部にあたるらしい。「信州の人々にとっては、「春」と云ふ言葉は、あなた方が考へるよりも、もつともつと深い味はひがあるのです。」「それはなぜかといふと、この信州といふ山國の冬がたいへん長いためなのです。」「長い冬は、また寒さもたいへんきびしいです。」

おれは越後の雪深い南魚沼の育ちだが、信州には、魚沼地方にはない厳しい寒さがある。ことに盆地の下諏訪あたりは、真冬にも何度か行った、「行った」というより「通った」のであり、山やスキーの帰りの「途中下車」のようなものだったが、凍った諏訪湖も見て、その厳しい寒さを味わった。

「春の雲」には、その諏訪湖畔に住まいがあった、島木赤彦さんの歌がある。

信濃路はいつ春にならむ夕づく日
入りてしまらく黄なる空のいろ

島木さんの代表的な歌の一つにあげられる。津村さんは「赤彦さんは、きつと静かな冬の一日、氷をはりつめた美しい湖のそばで、この歌をよまれたことでせう。」「この歌は、すべての信州の人の春を待つ気持をたいへんよく云いあらわしてゐると云ふことが出来ませう。」と書く。

20090116

通勤通学

天気 晴れ 気温 -1℃

この冬一番の寒さ。
ほっぺが痛い寒さ。
息を吸うと肺が凍りそうな寒さ。
歩いても歩いても温かくならない寒さ。

20090115

団塊の世代

天気 晴れ 気温 1℃

いよいよストーブが気温に追いつかない時期になる。全力で燃えてくれるけれど、なかなか暖まらない。

…とブログに書く旧松崎緑さんの気持でもあるだろう。冬の厳しさと春を待つ強い気持が、肉体の芯に蓄えられ、すみれ洋裁店の作品に実を結ぶ。のだと思う。

ところで、「春の雲」の奥付だが、発行日:二〇〇九年一月五日、発行所:クラウス、デザイン:笠原直樹、そして、「二〇〇九年(西暦)は、詩人・津村信夫生誕一〇〇周年です。」とある。

生誕100年といえば、いま出版文学業界では、松本清張と太宰治が華々しい。この二人が同じ年の生まれというのは意外だったが、おととし2007年の夏には偶然、1か月のうちに松本清張さんの生誕の地(北九州)と太宰治さんの生誕の地(青森県金木)を訪ねた。

それは、どうでもよい、この小冊子がなかったら、こんなに見事に、春を待つ雪国の人々の気持を書いた津村信夫さんのことは知らずに終わったかも知れない。

そして、父の生誕100年であることも、思い出した。松本清張や太宰治の生誕100年では思い出さなかったが、この津村信夫生誕100年では思い出したのだ。100年前、明治42年、1909年、父は南魚沼の雪深い地に生まれた。

この世には、あまりにも奇怪かつ不可解な、書くこと訴えることすらできない境遇に置かれることがある。永遠に春が来ない冬のようなものだ。それでも父は重い鉛色の空を呑み込んだまま、それから40年以上84歳まで生き、たぶん、春を見ないまま、春に死んだ。

津村信夫さんは、おれが生まれた翌年、1944年に亡くなられた。
日本が占領下におかれる前年。

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2009/01/20

サバ缶料理もサル料理も、行き着くところは汁かけめしか。スウェーデンの「国民食」。

きのうとおとといのエントリーのサバ缶料理とサル料理の続きというか補足というか。

「コンさんが、なんだか山形のほうの、うどんにサバ缶をつかう話をしていたが、忘れた」と書いたら、コンさんからメールがあった。「ひっぱりうどん」という名前で「山形にいた頃に同僚から教わり、よくやりました。うどんは、乾麺のほうが合います。生麺だとやわらかすぎてしまうのです」と。そして、サイトを検索してわかりやすいかなという二つを教えてくれた。

一つは、「関心空間~ひっぱりうどん~」
http://www.kanshin.com/keyword/318078
「ひっぱりうどんとは、山形の郷土料理。お鍋を囲んでうどんを茹で、ゆであがったうどんを皆でひっぱりだしながら納豆、生卵、葱、醤油をベースに鰹節とか鯖缶、鮭缶などを混ぜたタレにつけて食べる、冬のあったかメニュー」とあるのだが、このタレ、ゲロめしを連想させるではないか。いいぞいいぞ。

んで、もう一つ。コンさんが「見た目がゲロ飯(私は未挑戦)っぽいですが、これもまたうまいと思います」と推薦したのが「ユクフムの摘み草料理でエコロジー生活 料理を考えながら「残りご飯」から「家計」「環境問題」まで、いろいろです。」というブログの、 「引っ張りうどんから生まれた「サバ納豆ごはん」」なのだ。
http://www.i-apple.jp/yukufumu/2008/05/post_265.html
「山形のほうで特有のうどん食べ方で、サバの水煮缶と納豆を混ぜた物にうどんを絡めて食べる食べ方があるそうです。何度か、試しましたが。見た目は、良くないですが、なかなかクセになる味で美味しい食べ方なんです。

これは、ご飯にかけて食べても美味しいに違いないということで実際に試してみました。サバ缶の大きさもあるので二・三人分の納豆に水煮缶加えて混ぜ、付属のしょう油タレを加え、長ネギをちらします。ゴマなど加えてもいいかもしれません。良く練って、粘りけを引き出します。うどんの時にはめんつゆでもう少しのばしますが、あまり手を加えずに作りました。」

おおいにナットク。

「サバ缶サバイバル・プロジェクトの交流パーティー」では、ほかに、椎名誠さんが、『哀愁の町に霧が降るのだ』か何かに書いていた、サバ鍋(たしか、サバ缶とキャベツかハクサイなどの野菜だけの鍋だったと思う)も話題になっていたが、とにかく、それだって、最後はめしにかけて食べるとうまい。

ようするに、おれは、サバ缶料理は、汁かけめしにいたることを言いたいわけだ。

ザ大衆食「ゲロッ、週刊朝日、表紙は紀子さま。猫めし特集に、おれとゲロめしが、卵かけごはんや猫ひろし&小泉武夫と揃い踏み。」にも紹介してあるが、東京農大の小泉武夫さんは、アチコチでサバ缶をめしにぶっかけて食べるのが好物だと書いている。サバ水煮缶をめしのうえにぶっかけ、醤油をかけるだけ。…クリック地獄

そうそう、以前にサバカレーというのが流行った。あれだってサバ缶でやれるだろう。たぶんネギバターにカレー粉をたっぷり使うとよいかも知れない。これだって、めしにかけてサバカレー、汁かけめしだ。

そしてそして、サル肉料理だが、おととい書いたように、これはチンジャオロースーの牛肉細切りをサル肉細切りにした料理、といって差し支えない。これだって、なかなか濃い味付けで、めしにかけるとうまそうだなあと思ったものだ。ま、たいがいの中華は汁ごとめしにかけるとうまいのだな。

書き忘れたが、サル肉の味について。こういう初めて食べる肉の味は、お互いに共通して知っている肉の味と比較しながら話すことになる。つまり、ブタ、ウシ、トリとの比較だ。で、ま、だいたいのところ、肉の色もそうだが、ウシの肩あたりに近いかなということになった。硬さといい、オーストラリア産のウシの肩あたりか。

スウェーデン人のヤーンさんは、素っ気なく「これは筍の味ですよ」と言った。チンジャオロースーには、たっぷりの筍が入っていた。ヤーンさんは、クマの手の話になったときも(おなじ店で以前に食べたのだけど)、「あれはほとんどスパイスや薬味の味ですね」と、これまた素っ気ない。そしてクマの手を食べるときの、指を一本一本切り離す様子を、うれしそうに話した。

そのヤーンさんが、たいがいのスウェーデン料理は、そんなにうまいものじゃないけど、一つだけ好きでよく作り、日本人に作って食べさせてもよろこばれると教えてくれた料理。スウェーデンの「国民食」のようなものらしい。ヤーンさんは「国家料理」という言葉を使っていたが、「国民食」とちがうのかどうかは確かめてない。

ジャガイモとタマネギのスライスとアンチョビを段々に重ねる。味付けは塩コショウだけ。最後に生クリームをかけ、オーブンで焼く。確かに、うまそうだ。

帰り、おれとヤーンさんは新宿まで一緒だった。京王線からJRの乗換えに向かって歩きながら、ヤーンさんは、その料理のカンジンなところを話した。それが、二人とも終電に遅れないよう急いでいたし、酔っていたので正確に覚えていないのだが、とにかくオーブンで焼くときの温度と時間が大事で、たしか、150Wで40分か40数分と言ったのではないかと思う。「ゆっくり焼くのが大事です」と。


ここのところ、忙しいのかヒマなのか、毎日ヒマのようで、いつもヒマじゃないようなアリサマで、誘いがあるとのってしまうという状態。毎年恒例の「エンテツ年頭消息」、印刷してあって、毎日10枚ずつ宛名と一言を書けば10日で100枚出せる、という計算だけして、一枚も書かない日と数枚だけの日が続いて、なかなか終わらない。移転の知らせも一緒なので、はやく出したいのだが、飲酒が優先なもので…。

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2009/01/19

サバ缶の居場所。

きのうはスロコメ@下北沢のサケ缶イベント。正式公式オフィシャルな名称は、「サバ缶サバイバル・プロジェクトの交流パーティー」らしい。18時ちょうどぐらいに着く。

すでに、飲み人の会のタノさんやコンさんがいた。ヒマなのかヤル気まんまんなのか。行きますよメールをいただいていた、昨年11月に北九州から世田谷区三軒茶屋へ転勤になったばかりの角打ち文化研究会=角文研東京支部の支部長代理にして鎚絵の東京所長の大野さんも、すぐあらわれる。

「サバ缶サバイバル・プロジェクトの交流パーティー」と名前は立派だが、ひたすらぐずぐずサバ缶を食べながらオシャベリをし酒を飲むだけなのだ。といってもサバ缶そのままではない。ネギバターかハンガリー風に、お好みで料理してもらう。しかも、サバ缶を食べるのだから、サバを缶から出して料理をするなんていう野暮はしないで、缶のフタをパッカンとあけ、ネギバターかハンガリー風かによって調理された具をのせ、アルミホイルをかぶせ、缶のまま火にのせてあぶるのだ。なかなかスローなブギな作り方なのですね。

むかし登山のとき、携帯用ガスコンロで、おなじようなことをしましたね。とくに冬、八ヶ岳の稜線なんぞで一人、吹きまくる冷たい風を避け、自分の身体でコンロを抱えるように暖をとりながら、サバ缶を煮る。たいがい単独行だったから、誰もいない天と地のあいだに、いまおれとサバ缶がいる、おお、サバ缶よ、きみは我がイノチ、あったかいのを食べてあげるからねという感じで。もちろん下界にいるときも、石油ストーブの上にのせて、おなじことをやった。

タノさんは、醤油と酢だけで食べるのが好きだそうだ。コンさんが、なんだか山形のほうの、うどんにサバ缶をつかう話をしていたが、忘れた。もちろん、大野さんチの1世紀以上の糠床の糠をかけて煮れば「ぬか炊き」、まさに北九州の個性「ぬかさば」になる。

このトツジュ巻き起こった感じのサバ缶ムーブメントの震源は経堂にある。経堂系ドットコムの「経堂系グルメ日記」をご覧いただけば、すでに、まっとうな飲食店で、さまざまに調理されたサバ缶料理が提供されている。おおっ、インド人もサバ缶ムーブしている。…クリック地獄

すでに昨夜の様子もアップされているが、経堂のバンチキロウの店主・中村哲さんの閃きから始まったらしいのだが、昨夜は、そのサバイスト中村さんもいらしていた。バンチキロウの本店は宮古島のBarボックリーのチョッキで、そこからたまたま東京に来ていた砂田文生さんも一緒に。

素早いことに、日本サバ缶協会のロゴの原案もできていた。

えーと、シノさんが来て、瀬尾幸子さんも来た。もちろん経堂系や下北系のみなさん。瀬尾さんは、下北に近いから、すでに常連みたいなもの。お茶会の帰りとかで、ピンクな着物にピンクの割烹着を持っていて着用。絶好調の『おつまみ横丁』は、続の「もう一軒」とあわせて85万部に達したそうだ。もう100万部いくのは間違いないだろうと「ばんざーい」をやった。

おれは、酒を飲みながら、「サバ缶の居場所」を考えていた。もちろん、それは、3月7日のシンポジウム「場所の力――歩きながら考える」の「都市の隙間――<貧乏くささ>の居場所をめぐって」に関係する。サバ缶、貧乏くさいと思っているひとが、少なからずいるのではないか。「サバ缶の居場所」は、「貧乏くささの居場所」と大いに関係しそうだ。角打ちには、たいがいサバ缶があるしなあ。サバ缶のパーソナルヒストリーとパブリックヒストリー。

ってことで、きょうは、なんだかアワタダシイので、とりあえず、こんなところで。あとで書き足すかも知れない。

前夜はサルを食べ終電近くだったので、早めに21時半ごろ、瀬尾さんと大野さんとスロコメを出た。大野さんは茶沢通りを三茶まで歩けない距離じゃないから歩くと踏み切りで別れ、下北沢駅で瀬尾さんと別れ、帰った。帰りの電車のなかでは、前夜は「あえて異性である必要はない」が思考のテーマだったが、「サバ缶の居場所」について哲学的社会学的生活学的に高度に考えようと思ったが考えなかった。

スロコメ日記にも、おれが缶ごとしゃぶっている昨夜の様子がある…クリック地獄

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2009/01/18

サルを食べ、あえて異性である必要はないで終わる。

きのうはブログをアップして大急ぎ出かけた。京王線幡ヶ谷駅19時5分前という微妙な時間の待ち合わせ。早めに着いたので、このあいだ幡ヶ谷在住のスタイリッシュな才媛と幡ヶ谷ローカルな話で盛り上がったとき、彼女が大衆食堂の山幸園は閉店したといっていたから、イチオウ確認に西原商店街を流す。なるほど、たしかに、表札までなく完全に無人の佇まいになっていた。ついでに急いでもどり甲州街道を渡り、以前入ったことのある数店の飲み屋の存在を確認。六号通り商店街、おととし森林再生機構で行った、「ねばり屋」の存在を確認しようとするも、あったと思われる場所には見当たらず、駅にもどる。(1月21日追記=ネットで調べたら「ねばり屋」は健在のようでもある。場所を、おれがカンチガイしていた可能性もある。)

質問人形あらわれ、一人は風邪で脱落、ほかの二人は店を知っているからと先に行く。すぐにヤーンさんあらわれる。質問人形は忘れていたが、ヤーンさんとおれは顔を見て、初めてではなく遠太で飲んだことを思い出す。日本語の達者なスウェーデン人。ヤーンさんは、あれは4年前ぐらいだという。今朝調べたら確かに2004年の12月のことだった。そのときのメンバーを彼は全部おぼえていて、この三人のほかに、もう三人の名前をいう(小沢男さん、松木女さん、小瀧女さん)、オドロキの記憶。まずはビールで乾杯、料理は前菜という感じで、とりのローストで始まる。紹興酒を燗で頼む。というあたりで初対面の志村女さん。また乾杯。

Hatgaya_saru_004サルは、なんと、二皿目に出てきた。おお、イキナリか。みなサルは初めて。料理の仕方は、チンジャオロースーの牛肉をサル肉に変えた感じ。うーむ、これがサルの味か。ああでもない、こうでもない、あれこれ言い合いながら食べる。お店の人に聞くと、高知県のサルの腕の肉とのこと。

小動物を食べる話が暴発する。旺盛に食べ楽しく語るは、首が飛び血が滴る生々しさ、料理以前の、しめるところや解体のことまで。内澤旬子さんがいたら、どんなことになっていたか。えーと、登場した動物は、イノシシ、クマ、イヌ、ウマ、ウサギ、ヒツジ、日本のシカ、北欧のシカ、ラクダ、ダチョウ、トナカイ、カラス、スズメ、カエル、ヘビ、ニンゲンはどこの肉がイチバンうまいか……、それらを話で無残に食べながら、目の前の料理を食べ、酒をグイグイ飲む。

メニューはなく、ストップをかけるまで皿が出てくるシステム。で、覚えている限りでは、そのあと、黄ニラ炒め(黄ニラと自家製ベーコンを炒めたもの)、きぬ茸、上海蟹とまんじゅう、スッポン、シカ(シカ肉をナッツの衣で揚げ、バクチーと塩で食べる)、カジキが出てきたところでストップ。紹興酒は二本あいていた。話もなんだか自由奔放おもしろく、大満足の宴会だった。

もう時間がない最後のあたりで、唐突という感じで「同性モンダイ」になる。よく話が見えないうちに、「男はダメ」「あえて異性である必要はない」と女たちが過激なことを言い出す。そういえば、質問人形は、いつも、もう席を立たなくてはならない終わりごろのおれは酔いがまわったころに、大事な過激な発言をする。前にも、言ったと思うが、そういうおもしろい話は、おれがあまり酔わないうちに始めてちょうだいよ、おもしろいから。

とにかく、彼女たち、ヤーンさんも、「男はダメだ」という。それは彼らの周囲、30歳代ぐらいの同年代で、かつ日常の出版業界あたりの話が主なようなんだが、とにかく「男はダメ」。やさしいけど、というか、なんなんだろうか、甘いというか、臆病というか、悪党になれないから善人をやっているていどの、男なら手に入れやすい小役人的小権力的思考や行動から離れられないということなのか。

このあいだは出版業界ではない、一般の、いまそういう言い方があるか、いわゆる「キャリア・ウーマン」二人と飲んで、どちらも男がほっておかないだろう美才女なのだが、バツイチで、もう男なんかイラナイという感じだった。

日本の男は、そんなにダメなのだろうか。でも、結婚している男女もいるわけで、では、結婚している男は、みなダメな男ではないかというとそうでもないようだし。だから、そこに女のほうのモンダイもありそうだ。すべてを満たす男なんていないだろうから、テキトウにあきらめ、満たされないところは、結婚しても別の男で満たせばよいじゃないか。成りゆきでいいんじゃないの。と。

しかし、性的レベルのことになると、そうは単純にいかないだろし。それに知的レベルのことも含まれそうだ。「あえて異性である必要はない」ってことについては、もっと突っ込みたかったなあ。

でも、若い男たちに、なんとかなってもらわないとなあ、たしかに、なんてのかねえ、男は、男や女を意識しすぎるのかもねえ。女とみれば、ねちねち迫りスグやりたがったりとか。でなければウジウジ思案だったりとか。とにかく、よく「男はダメ」という話を聞くようになった。なんか恋愛対象とかセックス対象とか以前の、そして経済的にはともかく、人間的基本的なところで、男はダメと判定されているようだ。女から見ると「大人」じゃない男が多いという感じか。ま、女にもダメなやつはいるだろうし。しかし、そういう単純なことでもない、だからまあやっかいなこと。

女にボロクソに言われても、平気で立ち向かえるぐらいのコンジョウが、男には必要なようでもあるなあ。でも、鉄面皮みたいな男もいるなあ。ああ、めんどうくせえ。あえて異性じゃなくてもいいじゃないか。とにかく男も女も関心を示さない低反応の相手を追いかけていてもしようがないってことだ。とか、帰りの電車で、やや酩酊の頭で、フラフラ考えもしなかったのだった。

ヤーンさんと志村さんのラオス、メコンを渡る話、印象的だった。
料理がうまいというのも大事だが、一緒に食べるひとの会話が楽しいと、さらにうまくゴキゲンチャン。そんな夜だった。

Hatagaya_008帰り店の外に出てから、ご主人の料理人と立ち話、ラクダはコブしか輸入できないとのことだ。サルもクマも、「国産」の駆除もの。

つぎは、ラクダのコブを食べることに。

さて、きょうはきょうとて。

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2009/01/17

生活景としての富士山、あんど「場所の力」。

Fuji_007

上京してから、日常的な生活景としての富士山が見られるところに暮らすのは初めてだと気がついた。おれが上京したころには、都心の大部分の場所からは、その景色はなくなっていた。おれにとっては、ときたま高いビルや郊外を走る電車のなかから見える富士山は幻のように瞬間的なものであり、富士山は「観光景」「行楽景」のなかに存在した。

だけど、そういった東京のコンニチの表層をペッとはがして見ると、その下には富士山を日常的な生活景と見られる東京だか江戸だか武蔵だかという場所が存在した。

Fuji_009富士山を日常の生活の中の景色として共有していた人びとと、そうではないコンニチの人たちと、たぶん、ほかのものについても「共有」や「共に生きる生活」の感覚がちがうのではないだろうかと、ここで富士山を見ながら思う。いま、たとえば、いま銭湯につかりながら富士山の絵を見るひとには、共に富士山を見て暮らす場所に生きているという感覚はないだろう。だけど、むかしのひとには、あったにちがいない。

そういうことが「場所の力」には関係する。

「場所の力」ってなんじゃらほいブログに書いてちょうだい、というメールがあって、ゼヒとも書きたいが、きょうは時間がない。なにしろ、昨日の夜トツジョ質問人形お嬢から電話があって、今日は生まれて初めてサルを食べるのだ。「場所の力」より「サルの力」に気分は高揚している。サル、くうぞうーーーーーーー、サル、覚悟!

「場所の力」という言葉は、アメリカ人だったかな?ドロレス・ハイデンさんの『場所の力 パブリックヒストリーとしての都市景観』(後藤春彦、篠田裕見、佐藤俊郎訳、学芸出版社、2002年)からきている。

以前にちょっと紹介した、今回のシンポジウムのキモである本『こころのたねとして 記憶と社会をつなぐアートプロジェクト』(こたね制作委員会、ココルーム文庫)には、「第四章 場所の力」がある。「過程としての、場所の力」原口剛、「「対話の力」が「場所の力」を呼び覚ます―「場所の力」を引き出すデザインはいかにして可能か?」永橋為介、「映像の居場所について」櫻田和也、「「場所の力」とどうつきあうか」五十嵐泰正、というぐあいで、いずれも一般論ではなく、コンニチ的実践として語っていて、まあ、とてもすばらしい。

関連
2008/05/08
ぜひ読んで欲しい本です『こころのたねとして』。

2008/05/14
日々の生活こそ価値や信念を生み出す源泉である

2006/01/04「初仕事できず、「新・国際社会学」などを読んだりして」にチョイと書いたけど、「1980年代中ごろか後半、そういう「活性化」「街づくり」「地域おこし」ってのは、おかしいじゃないかと疑問をもった、暴走するプランナーおれとフクチャンは、新しいスタイルのイベントを開発しようと取り組んだ」おれは、それから晴れ晴れしないものを抱え苦悩に満ちたウンコをしながら考え続け、それなりに手がかりをつかんできたのだが、この本で、じつに晴れ晴れとした見通しを得た。

いま「活性化」「街づくり」「地域おこし」だのと、いろいろイベントがあるけど、人を集めイベントの売上げが上がれば成功というわけじゃない。一過性のイベントが、それまで続いてきた日常の大切な場所の可能性を破壊してしまうことはいくらでもある。古い常連のいる居酒屋の生活景が、テレビや情報誌を見てドッと一過的に押しかける客によって、破壊され変わってしまうようなことが、「活性化」「街づくり」「地域おこし」をタテマエに行われる例はめずらしくない。とくに近年は、地域に長く続いている祭りを、観光用の祭りとしてつくりかえたり、あるいは芸術な文化なイベントが盛んで注目を集めるけど、人が集まったメディアに載ったから成功なんて騒いでいると、とんでもないことになる。ってことを、おれとフクチャンは、1980年代に体験したのだった。

場所をシッカリ見据えなくてはな。

ってことで、とりあえず、オシマイ。

富士山の画像は、きのう、買い物の途中で撮影した。実際は、富士山は、もっと大きく感じる。ここではなく、ウチのほうにくだる坂では、道の真正面に、手前に低い山があるが、裾のほうから見えるから、さらに大きく見える。

Wamezo_tukinoyu昨年5月のわめぞ「第1回 月の湯古本まつり ~銭湯で古本浴~」で、「酒とつまみ」編集発行人の大竹聡さん×エンテツのトークライブ「酒とつまみと男と男」が行われた、目白の銭湯「月の湯」の浴場の富士山の絵と浴槽のなかの大竹さんとおれ。サキさんの撮影。

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2009/01/16

泥ねぎとファンタジー。

Doronegi_001うれしいことに、ここ東大宮には、泥ねぎを売っているスーパーがある。このスーパーはウチから一番近く、しかも、おれがかつてマーケティング屋稼業で知りえた情報では、それなりに信頼のおけるローカルスーパーだし、それは売場を見ても感じられる。なので、10月21日に引っ越してきてからは、ここをよく利用し、ねぎは泥ねぎを買っている。もう何回買ったか。いま、泥ねぎを売っているスーパーは「少数派」だろう。

埼玉県は、「深谷ねぎ」で知られる、根深=白ねぎの産地だが、ほかにも、ほうれん草や小松菜の生産量も多いほうだ。それに山東菜などが、このスーパーには並ぶ。とくに、ほうれん草と泥ねぎが、もう見るからによくて、こんなによいのが毎日楽に手に入るなんてうれしくて、この冬はタップリ食べている。

もちろん、むいたねぎも売っている。むきねぎは、3本で198円。泥ねぎは、4本~6本入って同じ値段。本数が少ないものは太い。上の画像は4本入りで2本つかったあと撮影。むきねぎの倍の太さある。葉は切らずに丸ごとだ。重量は知らないが、コストパフォーマンスは、泥ねぎのほうが倍以上、よい感じだ。そもそも水分が蒸発してないから、タップリ水分の肉厚。泥がついていると劣化が遅いから日持ちがする。

ガキのころには、こんな数本なんていう単位ではない。たしか「一俵」という単位だったと思うが、炭俵のような大きさの束を買い置くのが普通だった。70年代から80年代、遊びや仕事で、クルマに乗せてもらって、熊谷や深谷あたりの国道17号を行くと、両側に売店が並んでねぎを売っていた。そこには、この「一俵」単位で束ねられたねぎが山積みになっていて、それをときどき買ってクルマのトランクに積み、帰ってから何人かでわけた。

Doronegi_005画像のねぎは、いずれも「JAくまがや」扱いの表示がある。が、合併で熊谷といっても広い。かつての妻沼町(めぬま)も今では、熊谷市。そのためか、合併しても「めぬまねぎ」の袋がたくさん残っていて使っているのかもしれない、二種類の包装がある。で、上の画像だが「泥ねぎ」ではなく「土付きねぎ」の表記だ。

なんか「泥」が嫌われている印象を受ける。しかし「土」では「泥」ほどの個性やインパクトも感じられないし、そもそも見れば「土付き」とわかるのだから、もっと商標になりそうな名前をつけたらよいと思うのだが、ま、そのために「ブランド」だの「付加価値」だのと高くなっては困るな。

ねぎを食べると風邪をひきにくいといわれる。たしかに、タップリ食べ続けていると、なんだか元気がつく感じがする。だからファンタジーと、話が転がるはずだったが、転がらない。つなげられそうなのだが、トツジョ今朝のことを思い出し文章が浮かばなくなったので、書くのがメンドウだからやめる。そういえば、きのうは泥ねぎと泥ごぼうと泥芋を煮てくったのだな。

とにかく、「泥」や「泥臭い」やつをキタナイ汚いと排除して、コギレイで気どったことになったのだな。

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2009/01/15

3月7日シンポジウム「場所の力――歩きながら考える」公式案内。

主催者から案内が届いたので転載します。

おれって、ナニゴトも誘いがあると後先考えずにホイホイのってしまう。おもしろそうなら、いいじゃないかと。んな、わけで、「歩きながら考える」どころか、もう走り出してから見たら、主催には大阪市立大学都市研究プラザの名前があるわ、司会者もパネラーのみなさんも30歳代の若い元気で気鋭なみなさんばかり。そんなところへ、前期高齢者入りしたトシの貧乏くさいおれが、恥をかきに登場しますんで、どーか、みなさん、笑いに来て楽しんでください。こころの散歩ですね。終わったら、酒も飲みましょう。そっちを楽しみに参加します。

それから、会場の高原記念館のようにオッシャレなチラシもできて、pdfファイルが送られてきたので、ゼヒご利用ください。カラーでパネラーの顔写真入りという豪華版。ザ大衆食のサイトにリンクがありますんで、ご覧なるだけでも、どうぞ。…クリック地獄
Oosaka_basyosinpo_2

では、以下、公式案内です。よろしく~。


シンポジウム「場所の力――歩きながら考える」

2007年7月、他者の記憶を聴き取り、朗読する舞台「こころのたねとして」が、フェスティバルゲートにおいて開催された。この試みは、2008年4月に文庫本『こころのたねとして――記憶と社会をつなぐアートプロジェクト』として書籍化され、いまもなお継続されている。これらの取り組みのなかで、次第に明らかになったことがある。他者のこころのなかにある記憶を引き出し表現するという営みは、「場所の力」を呼び覚ます試みにほかならない。そして、呼び覚まされた「場所の力」は、他者と共に生きるための手がかりとなることを、わたしたちは確信している。とはいえ、「場所の力」とは一体なにか、と問われたとき、そこに単一の答えがあるわけではない。その言葉の意味は、さまざまな定義に開かれた状況にあってこそ、多様な実践のなかで豊潤なものになっていくだろう。文庫本『こころのたねとして』においては、「場所の力」と題する章を設け、都市研究やプランニング、メディア研究といった、分野の異なる研究者と協働をおこない「場所」をめぐる考察を展開した。本シンポジウムは、さらに多様な立場の研究者/実践者との対話のなかで、場所の力をめぐる議論を社会化する試みである。
でもね。思考や実践というものは、目的地のない歩行のように、あちらこちら紆余曲折するものなのですよ。このシンポジウムもまた、そうでありたいと思います。いっしょに散歩に出かけましょう。

◇3月7日(土) 13:00〜18:00  入場無料
会場:大阪市立大学都市研究プラザ高原記念館
大阪市住吉区杉本3-3-13大阪市住吉区杉本3-3-138
tel.06-6605-2071
アクセス:JR阪和線杉本町駅から徒歩5分
地下鉄御堂筋線我孫子駅から徒歩20分

◇構成
1部  ドラマリーディングライブ「こころのたねとして」(13:00~14:00)
出演者

・SHINGO☆西成
・岩橋由梨
・上田假奈代

2部  シンポジウム「場所の力をめぐって」(14:30~18:00)
総合司会:原口剛
「対話が生み出す場所の力」パネラー:永橋為介×上田假奈代
「場所をつくる/メディアをつくる」パネラー:櫻田和也×成田圭祐
「都市の隙間――<貧乏くささ>の居場所をめぐって」パネラー:五十嵐泰正×遠藤哲夫

展示 「あしたの地図よ」 
釜ヶ崎「こどもの里」ワークショップにおけるこどもたちの作品展示

司会者・パネラーのプロフィール

五十嵐泰正(筑波大学専任講師/都市社会学)
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。東京・上野の商店街で社会学的な調査に取り組むかたわら、34年間暮らしてきた千葉県・柏でまちづくり団体にも関わる。主な仕事に、「都市における多様性をめぐるいくつかの断章」『年報社会学論集』第18号、「異郷に生きる アウェイの戦い」『現代思想』Vol.35-7(アンジェロ・イシ、洪貴義との鼎談)など。

岩橋由梨 (ドラマスペシャリスト・表現教育家)
演劇的手法を用いてコミュニケーションを体験していく「ドラマ」をベースに「コミュニケーション・アート」としてプログラムを独自に開発する。劇団ひまわりや玉川大学など様々な機関での講師を経て現在は日本各地で、身体、声などを用いユニークで楽しい五感を使うワークショップを展開する。

上田假奈代(NPO法人ココルーム代表、詩人, 大阪市立大学都市研究プラザ)
1969年生まれ。3歳より詩作、17歳から朗読をはじめる。1992年から全国でさまざまな人を対象に詩のワークショップや朗読活動を展開する。2003年新世界フェスティバルゲートでココルームをたちあげ「表現、自立、仕事、社会」をテーマに、分野を横断し社会的な問題にも取り組む。2008年1月から西成区山王でインフォッショップ・カフェ ココルームを運営。http://booksarch.exblog.jp/

遠藤哲夫(フリーライター、大衆食堂の詩人)
おれ、通称「エンテツ」。「大衆食堂の詩人」といわれる。1943年新潟県六日町(南魚沼市)生まれの田舎者。美食も粗食も贅沢も清貧もふみこえて、庶民の快食を追求。趣味、(元)登山、(現)貧乏生活。好物は味噌汁ぶっかけめし。世間では「フリーライター」といわれる不安定自由文筆労働者。埼玉県さいたま市見沼区在住。著書に『大衆食堂の研究』『汁かけめし快食學』など。http://homepage2.nifty.com/entetsu/

櫻田和也(大阪市立大学創造都市研究科博士課程、失業と芸術の社会学的研究)
NPO法人[remo]技術係。主な論文に「プレカリアート共謀ノート」『インパクション』151(インパクト出版会2006)、「プレカリアート:現代のプロレタリア階級」『共生社会研究』3(大阪市立大学共生社会研究会 2008)など。

SHINGO☆西成(Libra record / Libra West)
昭和の香りが色濃く残る大阪の労働者の街「西成」育ち。1996年活動開始。生まれ育った「西成」の現実を冷静な視点と自らの体験を通して表現する独自の世界観は聴く者の耳を確実に捉える。2007年、自身初となる待望のファーストアルバム「Sprout」リリース。本作は日本唯一のHIPHOP専門誌[THE SOURCE MAGAZINE JAPAN]では2007年のベストアーティスト部門一位に選出された。2008年4月にMSCのPRIMALと"鉄板BOYZ"なるユニットを結成し、混迷する飲食業界に熱々のコテを入れるべくSINGLE CD『鉄板BOYZ』をリリース。現在はセカンドアルバム製作中。http://nishinari.exblog.jp/

永橋為介(立命館大学産業社会学部准教授、コミュニティ・デザイン論)
1969年生まれ。1998年、京都大学大学院農学研究科博士課程修了、博士(農学)。カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、NPO法人コミュニティ・デザイン・センター副代表を経て2008年から現職。

成田圭祐(IRA)
1976年生まれ。国内外のカウンターカルチャー・社会運動から発信される情報、物、そして人が集まるインフォショップ「イレギュラー・リズム・アサイラム」を運営。ジン「EXPANSION OF LIFE」主宰。「アナキズム文献センター」運営委員。チラシ、ポスター、CDジャケットなどのデザインもよくするし、雑誌などに寄稿したりもときどきする。http://a.sanpal.co.jp/irregular/

原口剛(大阪市立大学都市研究プラザ/地理学、日本学術振興会特別研究員・神戸大学)
1976年千葉県生まれ、鹿児島育ち。2000年に大阪に移住して以降、釜ヶ崎の戦後史や野宿者の現状、都市論や社会・空間的排除論などについて研究をしている。2007年、大阪市立大学文学研究科博士課程修了、博士(文学)。論文に「「寄せ場」の生産過程における場所の構築と制度的実践」人文地理55(2),pp.121-143, 2003など。


主催
大阪市立大学都市研究プラザ/NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)


お問い合せ
NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)
cocoroom@kanayo-net.com
tel.&fax.06-6636-1612

当日お問い合わせ
大阪市立大学都市研究プラザ tel.06-6605-2071

地図
大阪市立大学都市研究プラザ 高原記念館
アクセス:JR阪和線杉本町駅から徒歩5分
地下鉄御堂筋線我孫子駅から徒歩20分

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2009/01/14

スロコメ@下北沢、18日はサケ缶イベント、2月7日は泥酔論。

なんとなく少し余裕な気分になった。なので、さきほど、スロコメ@下北沢の須田泰成さんと電話で、今年初めての新年の挨拶をし話をした。須田さんと話をしていると、なんでもコメディになってしまう。ギャハハハと笑いながら、前回は行けなかったサバ缶イベント、こんどの日曜日18日にあるというから、行くことにした。「日本サバ缶協会というNPOを作ろうという話になりました」だとさ。マジでもジョーダンでも、どうでもよいから、みなさんも時間があったらスロコメでサバ缶な飲みを一緒にやりましょうよ。18時ごろスタート。

んで、さらに、人気沸騰?話題沸騰?なおれのトークライブ「泥酔論」の今年1回目を、2月7日の土曜日にやることが決まりました。さらにまた泥酔を熱く語りながら泥酔する。はたして、どんなことになる。2月7日は泥酔教新年会のつもりで、みなさん全力で集まって飲みましょう。

詳しいことはスロコメ日記で。ほかにも、おもしろいファンキーパンクなイベントが盛りだくさん。ふらっと寄ってみてください。…クリック地獄

そして、1か月後の3月7日も土曜日なんだけど、大阪市立大学都市研究プラザ高原記念館ってところで開催されるシンポジウム「場所の力――歩きながら考える」 に参加します。野狐禅が大好きな原口剛さん(今年33歳になる)が総合司会の第2部「場所の力をめぐって」。
「対話が生み出す場所の力」パネラー:永橋為介×上田假奈代
「場所をつくる/メディアをつくる」パネラー:櫻田和也×成田圭祐
「都市の隙間――<貧乏くささ>の居場所をめぐって」パネラー:五十嵐泰正×遠藤哲夫
ってことで、なにやら、会場の高原記念館は、いまふうのオッシャレな建物だそうで、そこでおれ(今年66歳になる)と五十嵐さん(今年35歳になる)は、「<貧乏くささ>の居場所をめぐって」なんていうテーマを与えられて、はて、どのようなことをしゃべるのだろうか。入場無料。詳しいことは、近日中に、このブログに案内を書きます。この日は、ほかの予定は全て排除し、全力で高原記念館へ、よろしく~。

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2009/01/13

おおっ、神様~。「戦争前夜」なのか。戦争よりエロが好き。

おととい11日のエントリーに書いた、『戦後日本スタディーズ3 「80・90年代」』だが、五十嵐泰正さんの「グローバル化とパブリック・スペース――上野公園の九〇年代」を読むだけでもよいと思って買ってきた。もちろん、五十嵐さんの「上野公園」とくにそのまた西郷さんの銅像周辺という小さいところからグローバルな世界と日本の動きを語る著述は、五十嵐さんならではで、とてもダイナミックで、おもしろかった。

何度も西郷像の前は通っている。とくに戦後、おれは4歳ぐらいか、まだ占領中。あの周辺は、まさに「足の踏み場もないほど」浮浪者が一杯いて、なのに、そこでニギリメシを取り出して食べようとし、たちまちおれと同じトシぐらいの浮浪者の子どもに奪われたことは忘れられないで強く脳裏に残っている(あのときの彼の顔とボロをまとった姿は、いまでも絵に描けそうなほどシッカリ覚えている)。その西郷像の足元は、どういうところだったか、へえ~、そのような日本と世界の歴史があるとはねえ、と思ったのだが、文章の最後は、こうだ。

「「ネットカフェ難民」が流行語の一角を占めたことに象徴されるように、都市下層が潜在/偏在/孤立化する傾向が顕著な昨今だからこそ、西郷像の足元でケバブをつまみながら職住の情報を交換したイラン人たちを思い起こしながら、しっかりと考えてみる必要がある。」

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「イラン村」すら忘れそうだが、今年の正月2日は、その上野公園へ水族館劇場「さすらい姉妹」の芝居を観にいって、ついでに野宿者たちと「生きぬこう!」と新年の乾杯をやった。2009/01/03「上野公園共同炊事水族館劇場のち信濃路とやどカフェ泥酔。」に書いたが、ブルーのテント村があったはずの周囲は、ロープがはられ「立入禁止」のふだが下がっていた。

そのテント村が消えたイキサツについても五十嵐さんは書いている。上野の商店街の人たちの「単なる個人的な排除意識ではなく、激しい地域間競争という現実を前提にしているだけに、その思いは切実である」。ようするに地元商店街の人たちは、激しい地域間競争の時代に、上野公園に「秩序ある都市景観」を取り戻し「ほかの繁華街が持ち得ない資源として」活用したいという思いは切実なのだ。

ここでもまた五十嵐さんは、2008/12/12「気になる1995年と『オルタ』2008年11-12月号と五十嵐泰正さん。」に書いたように「観念や教条に走らず、事実確認をしっかり積み上げながら問題点や方向を整理している」。

「場」に対する人びとの思いはいろいろだ。とくにパブリック・スペースは、いろいろな人と人の思いが集まるところだ。その「場所の記憶」を掘り起こし積み上げながら「しっかりと考えてみる」。いま、「まちづくり」あるいは未来に向けて必要なのは、コレだろう。

で、まあ、『戦後日本スタディーズ3 「80・90年代」』は、五十嵐さんの玉のような文章もあれば、チョイとイマイチだねというのもあるのだが、編者を代表して小森陽一さんと成田龍一さんの連名による「はじめに」には、こんなことが書かれている。

「戦争前夜とも言えるいま、あらためて「戦後日本」を総体として捉え直し、一つひとつの事実を、二一世紀の視点から歴史化する営みが、これからを生き抜くうえで不可欠だ」

いいですか「戦争前夜とも言えるいま」ですぞ。

はあ、そういや「前夜」どころかブッシュが大統領になってからは戦争続きだ。日本はすでに「戦闘」はしてないが戦争には参加しているし、戦争やりたがっている連中が、たくさんいるようだしな。

おおっ、神様、やっぱり戦争か。神様は、けっこう戦争しまくっているし、人を殺すのを是とする宗教もあるし、激しく憎悪をかきたてるし。

そうそう、おれは、たいしたことはないが、「無神論者」だった。無心な男でもあるな。無心=思慮・分別のないこと。情趣を解する心のないこと。無風流。遠慮なく物をねだること。=広辞苑より

「神様」について、上手に語ったひとの記憶がないのだが、銀杏BOYZの峯田さんが、ブログの1月3日に「神様について」というタイトルで書いている。なかなか上手いなあ、やはり上手いなあ、と思ったから、忘れないようにリンクをはっておこう。…クリック地獄

ま、峯田さんはうまく書こうと思っているわけじゃなく、自然にこういうふうに書けるのだろうけど。神様について書くのは難しい。おれのばあい、すでに書いている幣立神社や諏訪大社や1月1日「初詣は画像で。」など、自然に拝みたくなる神社もあるし、伊勢神宮にも数回参拝しているが、近代になってからできた神社では、そこに立っても何もピンと感じないことが多い。てか、どうもピンと来ない神社は、たいがい近代になってから国策的にできたものがほとんどで、なんだか建物の造りからしてエラソウという感じで、素直な気分になれない。


新年早々からメンドウなことをやって、新年会もほとんどパスした。とっくに新年な気分はなく、新年会なんか、どうでもよい気分。みな、新年会をイチャイチャやっているのだろうか。あなたは、どうしてますか。

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2009/01/12

「東京現象」の行方。

前と、その前のエントリーに書いた「都鄙臨界地帯」のように、東京の地理的臨界は、目視しやすいところもある。が、目に見えにくいのが、文化的臨界だ。

1980年代以後の、「欲望循環」的バブリーな経済と両輪の消費主義の文化は、主に「東京」の「侵略」もしくは「蔓延」というカタチで進行した。といえるわけだけど、とくに文化的な面を掘り下げた代表的な著書というと、タイトルもズバリな『「東京」の侵略』(月刊アクロス編集室 編・著、PARCO出版)と『東京現象』(中野収著、リクルート出版)だろう。前者は何度かこのブログでもふれているが、1987年の発行、後者は1989年の発行だ。どちらも当時は話題の書だった。

もし、1980年ごろからあとの「欲望循環」的バブリーな経済が、「破産する人が増え」「最終的には国民の負担」となり行き詰まるとするなら(すでに行き詰まっているようだが)、その経済を背景やスポンサーとしていた消費主義の文化や「東京現象」の行方はどうなるか。そして、「東京現象」をモデルとしない生き方や文化を考えてみるとどうなるか。

もしかすると、文化的な臨界に、これからの望ましいモデルがありやしないか。だけど、文化的臨界は、どのへんにあるのだろうか。ってなことで、とくに「東京現象」の侵略もしくは蔓延について考え直してみるのもオモシロイ。

これは唐突のようだけど、大衆食堂とも関係ありそうだし、食と深い関係にありそうなのだ。
が、いまアワタダシイ、書いていられない。とりあえず、忘れないように、これだけメモした。

中野収さんが述べた「東京現象」とは、「消費するしかない時間と所得を手に入れた人々が、メディアとの相互作用で形成する特異な現象」のこと。実体よりメディアとの関係で人工的に存在する空間を浮遊する、まさにバブルな経済と文化のアリサマで、その空間は、どんどん市場や業界や趣味によって細分化を深める。グルメの世界が、どんどん単品化するように。それにしたがい、「地域」は解体され「東京現象」のどれかの「分野=市場」に組み込まれる。その「分野=市場」には、それぞれ「権威」となるリーダーがメディア的に「東京」に存在する。これが、実体経済からかけ離れた「欲望循環」を担い、実体の価値以上に価値あるような幻想を「創出」する「文化的」なセグメントあるいはエレメントとしての役割を果たす。細分化された分野の「専門家」や「評論家」が、一方ではマクロな経済の「欲望循環」を支える関係。「ミニ」「スモール」は、かつて、それだけで反体制非体制だったが、いまでは「欲望循環」をメディア的に支える体制の中枢になる。かつて反体制非体制だった「エコ」が、いまではメジャーになったように。

メディアの情報を頼りの食べ歩きや飲み歩き、ありふれた「厳選された素材」なども、この現象と無関係ではない。これは、もうジョークでありコメディだ、とみると、オモシロイ。

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2009/01/11

わめぞ、残飯本、再び東大宮-蓮田「都鄙臨界地帯」で農と食と暮らしグチャグチャを考える。

きのう強い寒風のなか池袋。ジュンク堂で五十嵐泰正さんが「グローバル化とパブリック・スペース――上野公園の九〇年代」というおもしろいことを書いている、『戦後日本スタディーズ3 「80・90年代」』(岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一[編著]、紀伊国屋書店)を買う。ぶらぶら歩いて古書往来座で、きのうきょう開催の「わめぞ外市」へ。往来座の往来に並んだ本棚の古本を見ていると、レジにいた武藤良子さんが近寄ってきて「梅酒かバーボンの湯割り飲みます?」と。最初は、まさかイキナリ酒をすすめられるとは思っていなかったので、聞きなおすとそういうことだった。バーボンの湯割りを頼む。これが、冬山のような寒さの往来で飲んだら、うまかった。いや、きっと、どこで飲んでもうまいのだろうが。すまん、「もう一杯!」と大竹聡さんの本のタイトルを言う。

で、その本棚に、『残ぱん東京』(佐竹俊充著、食糧問題研究所)があるじゃないか。これ発売されたころ読んで、また読んで確認したいことがあったのだ。サブタイトルというか表紙の惹句が「一千万都民の胃袋からはみ出た一二五〇億円の裏側」。1975年8月発行。初めてといってよいだろう、正面から残飯モンダイに挑んだ。著者はあとがきで言う。「たしかに「食糧自給」とか「食糧備蓄構想」とかの施策論は、一見前向きの響きをもつし訴求力がある。「節約は美徳」などと謳いあげてみたところで、消極的なイメージを免れないだろう。が、こと食糧に関する限り、もっと地道な思想があって然るべきではないか。人間一人一人の生きるための糧は、一人一人が自からの日常生活の中でとらえるべき問題とおもわれるからである」。

「捨てない哲学」をとなえて精神論的ではあるが、食糧問題研究所所長らしく、説得力のあるデータが背景になっている。まだ「消費文化」は話題になっても「消費主義」については意識されていなかった時代だから、精神論的になるのは、やむをえない。が、いま、状況は、もっと「進化」している。しかし、あいかわらず、以前にこのブログでも書いたが、「食糧自給」だけ論議になって、残飯モンダイは議論にならない片手落ち。「食育」だって、「ビジネスチャンス」のエサ。「使いまわし」の吉兆は閉業に追い込まれたが、「残す」ほうは問題にならない。そして、派手な消費主義が大手をふっている。

「不況」にも、かかわらず、派手な消費主義が大手をふっている背景には、また景気は「以前のようによくなる」という期待が見え隠れする。

だけど、昨年の11月がピークだったという「景気の拡大」の恩恵を実感したひとが、どれだけいるだろう。いまよりましだったかも知れないが、あのバブル崩壊後の「失われた10年」から続いてる「不況感」のなかで暮らしてきた人たちのほうが多いはずだ。500円玉一個のワンコイングルメ、それですら高すぎると牛丼チェーンなどがもてはやされたり。そして、なんだかもう「終わり」なのだ、いい時代はもうこない、これからは質素につつましくやらなくてはならない、なんていう声もある。

このゴタゴタの根本には、なにがあるのだろうか。いつから、何が終わり、何が始まっているのか。

なーんて、大論文のようになりそうだな。ま、きょうのところは、おととい9日の「東大宮-蓮田、東北本線「都鄙臨界地帯」と麦味噌」の続きな感じで書いておこう。

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東京都心から「家並み街並み」続きが押し寄せている、その波の一つの突端部分の画像だ。上の最初の画像は、そこがコンクリートで仕切られ、すぐ手前はすでに荒地と化し、その手前から田畑が広がる。

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最初の画像を撮影したのとほぼ同じ位置で、カメラを右にふって撮影したのが、上の画像。「東京」が押し寄せているさまが田畑の奥に見える。みな、比較的新しい家だ。おそらく建って2、3年以内だろう。右端に、このあたりの古い農家と思われる屋敷があり、その裏手には下の3番目の画像。「とれたて野菜自動販売装置」であるが、売れ残りで新鮮さはない。こんなに近くに住宅ができたのに、野菜の買い手はつかないらしい。

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下の4番目の画像は、ここから少し離れている。こちらのほうが東大宮駅に近い。すでにまわりじゅう住宅に囲まれているが、農家が耕す畑と貸し農園になっている畑がある。おれのウチは、ここではなく1950年代ぐらいに宅地になったところで、ウチなりの考えがあり中古の住宅付を買って更地に戻して建てた。つまり宅地の再利用で、それだと費用が余計にかかる。このへんの農地を宅地に転換したところに建てたら、おなじカネで、もっと広い敷地に建てられる。より大きな家を求め、こちらを選ぶのが人情だろう。

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かくのごとく、どんどん「東京」が押し寄せ広がっている。逆に、わかりやすく、農地は減っている。前に書いたように、農地の減少は農産品生産の減少を意味しない。だけど、生産方式の変更と、栽培種の変更はもたらす。そのことは、きょうは詳しくふれない。

モンダイは、なぜこんなに簡単に農地が宅地になり、家に消費されるのか。実体経済は、そんなによいはずじゃない。実体経済でいえば、論者によって多少時期が異なるが、遅くとも1980年前後でピークをこえたようだ。では、あとは、どうやって日本の経済は「成長」したのか。いや、誰も、「成長」したなんて言ってない。「低成長」である「不確実」であり「成熟」であり、もろもろなのだな。なのに、ほらほらグルメもそうだが、いいものなら人びとはカネをだす…と。

さかのぼれば、田中首相のアレだ、あの「列島改造」から土地ころがしが盛んになり、国策になり自治体まで不動産屋のようになり、、工業生産なんかどうであろうと、不動産屋と金融屋が手を組んで、んで、転がせ転がせ、まさに濡れ手で粟のバブル経済。それが浮かんだり沈んだり、もう20年から30年やっている。日本のばあい、ここに、農協さんと農協さんを通して農家のカネをかき集めた巨大資金を握る農林中金がいる。

そう、2008/12/07「農地消え、アートな農協栄える?」に、チョイとだけ書いた。そこには五十嵐泰正さんに、こんなコメントをいただいている。


深いですねぇ。根深いですねぇ。
いろんなシステムの無理が凝縮されちゃった風景のように、直感的に思います。
全然どうしたらいいかとかわかんないですが、サイアクなことを回避する、ぐらいなことはできたらいいんですけどね。いや、そんなこともかなり困難か。
ともかくも、いろいろ考えてみたい風景ですね。


「いろんなシステムの無理が凝縮されちゃった風景のように、直感的に思います」と。まったく、日本のいろんなシステムの無理が凝縮されている。たしかに、「サイアクなことを回避する、ぐらいなことはできたらいい」、そうしたい。どうしたらいいのだろう。

いまの「不況」、アメリカのサブプライムローンや新自由主義ばかり悪者あつかいだが、日本だって、住宅ローンは証券化されているし、それを熱心に買い込んでいるのが農林中金なのだ。農林中金は、もちろん、前に書いたようにアメリカのサブプライムローンにも手を出している。

このオカシイ構造、すぐ頭に入るだろうか。土地も持っている農家、そのカネを預かる農協、そのカネを集めて投資運用する農林中金が、農家の土地を宅地に転用した住宅のローンを証券化した商品を買い集める、だから地価は維持されたり上がったりで土地を持っている農家は売れば儲かる、売ったカネは農協が預かり、そのカネを集めて…って、この、まさに実体がともなわない自作自演デキレースのようなバブルな循環…。これは、もうコメディですね。

とにかく、この件については、とりあえず、この2008年07月25日の「サブプライム問題と証券化商品の関係 ~ 関係あるのか、ないのか? ~」から引用しよう。…クリック地獄
そこでは、日本の場合は「裏付資産とする住宅ローン債務者の平均年収が概ね600~700万円であり、米国で問題となった低所得者向けローンとは程遠いものである」と、まあ、これ例のリーマン破綻の前だけど、心配ないとおっしゃっているが、同時に、こうも述べている。「長期固定金利型住宅ローンのおかげでバブル期に比べ住宅取得コストは三分の一になった。住宅ローンは証券化されて農林中金などに売却されその資金でまた住宅ローンを貸し出すというサブプライムと同じことが日本で起こっている。これが地価を押し上げてきた。金利が正常化されるとこのシステムが行き詰まる。もともと低い金利に下げる余地がないので米国のように金利を下げて対応すると言うことも出来ない。破産する人が増えよう。最終的には国民の負担となる」

これ、つまり、「これが地価を押し上げてきた」ってことが大問題なのだ。実勢の経済を反映しない土地価格、飲食店もそうだが、その地価のために不要な付加価値をつけて商売しなくてはならない。その不要な付加価値のために、「逸品」だの「絶品」だの「究極」だの「名店」だの「達人」だのと、「星印」を印籠のごとくかざし御託をたれ、それをありがたがる消費主義が横行することになる。

このバブルな循環は「欲望循環」ともいうべきか、多くの消費者の欲望が深くからんでいるからこそ、「サイアクなことを回避する」政策は難しい。そこに、精神論がつけいりやすいのだが、精神論というのは、現実を嘆いたり悲憤慷慨ばかりで、自らどうすべきかが欠けやすい。それ以上に、未来の展望が見えない流行にふりまわされる。ブログ界を見渡してもわかるが、未来の展望のない流行をつくるのに、食っていくためだろう、熱心なひとも少なくない。結果、「欲望循環」の仕組みを動かしているほうは安泰だ。

「質素」「つましい暮らし」でも、解決しない。それは解決策ではなく、大多数の庶民は、そうならざるを得ない現実だ。昔から、そうだったが。チョイとバブリーなイイ思いをしたことがあるひとが、「質素」「つましい暮らし」を言うのではないだろうか。

日本の農家の農業経営が困難なのは、安い輸入農産物のせいだけではない。また、安い輸入農産物のせいにしていても、解決しない。

「安全・安心・健康」は、いまや、この「欲望循環」を支える消費主義の骨格になりそうだ。貸し農園など、そんなふうに見えないこともない。

ま、残飯モンダイあたりを考えてみるのも、何かの手がかりになるかも知れない。料理をやるなら後片付けもやるように、「うまいもの好き」なら食いっぱなしじゃなく、後も考えるべきだろう。

どのみち、このシステムは行き詰まり「破産する人が増えよう。最終的には国民の負担となる」のだ。メディアにのって浮ついた連中の言うことなどより、じっくり自分の暮らしと向かい合いながら考えよう。急いで結論を出す必要はない。出そうとすると傷を大きくする方向になるだろう。いまの状況、いま自分がいるところを、理解しておくことだ。

「一人一人が自からの日常生活の中でとらえるべき問題」

ちなみに、東北本線東大宮駅は1964年(昭和39年)3月 開業。東大宮の隣、大宮のあいだに土呂駅があるが、ここは、1983年(昭和58年)10月の 開業だ。この間に、日本は、コンニチにいたる大きな舵をきったといえるか。 ともかく、この間に、東大宮と土呂の周辺の農地は宅地化され、東京と「まち」続きになった。

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2009/01/09

東大宮-蓮田、東北本線「都鄙臨界地帯」と麦味噌。

「上野発の夜行列車 おりた時から~」という「津軽海峡冬景色」は、けっこう好きな歌だ。1977年(昭和52年)に石川さゆりが歌いヒットした。そのあと、おなじ年ではなかったかも知れないが、夏と冬、歌とは逆に、函館から青森へ、青函連絡船に乗った。夏のときは、たしか8月上旬で快晴だったが、冬は1月だったか2月だったか、函館を出港するときは空は暗く曇り雪がちらついていた、それが津軽海峡の真ん中へんを過ぎたあたりで急に暗闇から太陽の下へ出たように晴れた。北へ向かう、この歌の気分とは大分ちがったが、津軽海峡冬景色は印象に残った。

引っ越してきたここの最寄駅は、東北本線の東大宮駅だ。東京方面から来ると大宮駅から二つ目。この線路の先、北には青森があるんだなと思う。そして青函連絡線を思い出す。

そのことじゃない。

東大宮に越してきて、先日、いま宇都宮線と呼ばれることが多い東北本線東大宮駅から電車に乗って、一つ北の蓮田駅へ行った。そのとき、車窓から見える景色を眺め、このあたりは一つの、都(みやこ)と鄙(ひな)、つまり都会と田舎の地理的臨界になるのではないか、そういうふうに見るとおもしろいと思った。

つまり、東京都心のほうから電車で来ると、上野から東北本線を利用したにせよ、ほかの高崎線や京浜東北線や埼京線を利用し大宮で東北本線に乗り換えたにせよ、東大宮までの線路沿いは「まち」が切れることなく続いている。東京の「まち」続きなのだ。空き地があったにせよ小さく、建物に囲まれている。ところが、電車が東大宮駅を出て東大宮の「まち」を抜けると、蓮田駅に着くまでの間に、田畑が広がる。

そのことが気になったので、臨界を確かめたいと思い、東大宮から東北本線に沿うように北へ向かって歩いた。すると、それは、びっくりするほど明快に存在した。意外なことに、かなりキッパリと「まち」が切れ田畑に変るところがあった。

つまり、南北に走る東北本線とほぼ直角に線路をまたいで交叉し東西に走る、国道16号東大宮バイパスの南側(東大宮や東京方面)まで「まち」は続いているのに、16号の下を通り抜け北側(蓮田や青森方面)に出ると「まち」はパタッと消え、田畑が広がるのだ。けっこう過激に景色が変る。

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上の画像、16号の南側の歩道陸橋から撮影した。右端が西へ向かう16号車道陸橋で、この下を抜けて北側に出ると、唐突という感じで、下の画像になる。右端の建物の向こうに東北本線の列車。

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下の画像。北側の歩道陸橋をのぼり東北本線蓮田方面を見た。陸橋は上尾市になるが、田畑から先は蓮田市。東北本線の右側、画像右端奥の方角あたりに、有名な神亀酒造がある。先日、大竹聡さんが神亀へ行ってみたいと言っていたが、近々外観の撮影だけでもしてこよう。蓮田には、もう一つ有名な酒蔵がある。池袋で飲むときによく利用している「清龍」を直営する清龍酒造。画像真ん中へんに見える林の向こうの方角にあるはずだ。この二つの酒蔵が同じ蓮田市に、しかも線路をはさんで反対側にあるのは、なんだかコンニチのロカールな酒蔵の二つの違う対極的な生き方を象徴しているようで、おもしろい。首都近郊ならではかも知れない。

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次の画像は、上の画像の反対、16号の南側の歩道陸橋から撮影した東北本線の東大宮や東京方面。線路の右側に、1970年前後を代表するような郊外型大規模団地の尾山台団地がある。ここは上尾市になる。

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地理的「家並み街並み」的にみれば、このあたりで、東北本線の両側に続く「首都圏」が、東京方面から来れば終わり、青森方面から来れば始まる。と、考えることができそうだ。

東大宮は、さいたま市見沼区で、北側に上尾市と蓮田市、東側に元岩槻市のさいたま市と合併して岩槻区になった地域と隣接している。見沼と上尾については確かめてないが、岩槻と蓮田は、なんと、「麦味噌」地帯なのだ。

「なんと」と書いたのは、麦味噌は山梨県あたりから西が「常識」で、関東の麦味噌は、ほとんど知られてない。おれも「常識」を信じて調べもしなかったのだが、以前に料理研究家の瀬尾幸子さんに岩槻には麦味噌があると教えられ、その後、もしかするとと思い調べたら、蓮田も麦味噌があることがわかった。麦米二毛作地帯だし、「東京化」がゆっくりだったおかげかも知れない。

「臨界地帯」は、なんだかおもしろい、食文化的にもおもしろそうなのだ。そのことは、またいずれ。


今週中、といっても、今日はもう金曜日だが、やらねばならぬこと、片づきそうにないなあ。原稿は締め切りを守れるが、プランをまとめるのは、時間×仕事量のように、そうはなかなかうまくいかない。気分転換に、このようにブログを書いたり…酒を飲んだり…うふふふ。それにしても「芸術よりエロが好き」ってのは、いいと思うね。愛してるよ~。

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2009/01/07

旺盛に。

年初から仕事をしているのか飲んでいるのかゴチャゴチャ状態。デスクワークな仕事をしながら飲む食うだから太った。自分の身体を重く感じる。そして、案の一つが、どうしてもまとまらない。このままではスタートが遅れそう。イライラはしないが腹が減る。

しかし、なんだか「百年に一度」「未曾有」にふりまわされ精神が萎縮しすぎの悪循環じゃないかね。ただでさえ日本は高齢化して隠居隠遁趣味のような精神ばかりはびこって、若者までワケ知り顔で年寄りくさくなっている感じなのに。

もっと若者の旺盛な食欲の爆発など、さまざまな欲望の発揮こそ、みなが生きる力の源、時代を切り開く力の源だとおもうが、どうもねえ。だいたい、今回の「派遣切り」モンダイだって、犠牲者の多くは20代30代40代だよ。こういう人たちを抑圧するように使い捨て、すでに旺盛な力が枯れて説教くさいゴタクをならべているような年寄りや強欲にこだわる中高年がのさばっているところに、未来はないんじゃないの。抑制はやめ旺盛に、やろう。

ってなことを考えていると、なかなか案がまとまらないんだなあ。クソッタレ、酒がなくなったぞ~。

酒が足りない、午前1時のタワゴトでした。

年賀状は出さないが、毎年はがきで「エンテツ年頭消息」を出している2009年正月号の文を作成した。あとは印刷して宛名書きし出すだけ。それが、けっこう手間だが。引越したまま新住所の案内を出してないにもかかわらず、旧住所からの転送で、たくさんの年賀状をいただいている。どうも、ありがとうございました。

そうそう関係ないが酒で思い出したことを書いておこう。このブログやザ大衆食のサイトに書いた、埼玉県吉田町(いまは秩父市かな?)の「慶長」ブランドで知る人ぞ知る存在だった和久井酒造は廃業したようだ。年末、その前を通ったら戸は閉まっていたし、ネットで埼玉県酒造組合関係の情報を調べたら「廃業」の二文字。かつて、すでに閉鎖された和久井酒造のサイトには「万延元年(一八六〇年)越後之国中頸城郡下黒川村(現在の新潟県中頸城郡柿崎町)出身の初代伊之吉が創醸。」とあった。

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2009/01/06

ボクの今年の抱負。

「抱負」は、「負=マイナス」を「抱く」と書きます。いいでしょう。

まず、カネ……一文字千円以下の原稿は書かない、と言っていたボクだが、一文字十銭から原稿を書きます。場合によっては一銭以下、量り売りもします。裸にもなります。どんどん書く仕事をください。

つぎ、サケ……一升一万円以下の酒は飲まない、と言っていたボクだが、一升百円以下の酒でも飲みます。賞味期限消費期限にこだわりません、第5のビールも歓迎。どんどん飲ませてください。

さいご、オンナ……一泊十万円以下のラブホはいやだ、と言っていたボクだが、一泊千円以下でもいいです。コスプレもOK、麻生の真似もします、インポも改善します。どんどん一緒に寝てください。

いや、まだある、メシ……一食一万円以下の定食は食わない、と言っていたボクだが、一食十円以下でいいです。産地にこだわりません、偽装模造変造変質歓迎。どんどん食べさせてください。

まだあるな、センソウ……原子爆弾を使わないセンソウはやらないほうがよい、と言っていたボクだが、センソウはツバのかけあいぐらいでいいです。小便のかけあいでもいいです。どんどんセンソウしてください。

まだまだあるな、いや、やめて、おこう。

いじょ。

09年1月6日、午前1時。

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2009/01/05

ゆらぐ「カレーライス伝来説」。「カレーライスは汁かけめし」と言い切れない悲しさ。

ひさしぶりに、あてにならない『ウィキペディア(Wikipedia)』の「カレーライス」の項目を見た。…クリック地獄

またもや、書き換えられている。ま、この「ウィキペディア流」の仕組みは、簡単に書き換えられるというのが特徴であり、とりあえず根拠のないことでも書いておけるという「利便性」が「真実性」を上回るのだから、書き換えられるほどよいのかも知れない。

冒頭、この一行から始まる。「カレーライスは、米飯(ライス)にカレーソースを掛けた日本の料理である。」

つぎに「食材をさまざまなスパイスで味付ける習慣のインド料理がルーツである。明治時代の日本に、当時インドを植民地支配していたイギリスの料理として紹介され、その後日本で独自の進化をした。」とある。

そして「概要」の項目には、このようにある。引用………

カレーライスは、はじめ日本にイギリス料理として伝わったため、日本では長く洋食として扱われてきた。現在の日本のカレーは、この流れに基づいた欧風カレー、さらに1990年代以降急増した本格インド料理店のカレー、そしてこのふたつの流れをふまえて生まれたオリジナルカレーの3つに大別できる。洋食としてのカレーは、イギリス海軍のカレー粉を入れたシチューの影響が大きいという説がある。
(略)
なお、遠藤哲夫は著書『ぶっかけめしの悦楽』(文庫版改題『汁かけめし快食學』)で、日本においてこれほどまでにカレーライスが普及したのは、日本の伝統食である「ぶっかけ飯(汁かけ飯)」の系譜にカレーライスが位置づけられたためだと述べている。

………引用、おわり。

おおっ、ついに、おれの著書が、たったこれだけ登場した。ちょっと要約というか表現がおかしいが、きっとそのうちウィキペディア流にしたがい、さらに正確な記述がなされることだろう。

「洋食としてのカレーは、イギリス海軍のカレー粉を入れたシチューの影響が大きいという説がある」、あるいは「カレーライスが日本に普及するにあたって、大きな役割を果たしたと言われているのが大日本帝国海軍である」、また「大日本帝国陸軍がカレーライスの普及に貢献したという説もある」というぐあいに、「言われている」だの「説もある」だのと、ずいぶん自信のない書き方になっているのも、むしろ正確といえるだろう。

が、しかし、「カレーソース」の項目では、こう書いている。「日本初のレトルト食品であるボンカレーの発売当時のホーロー看板カレーライスのうち、飯の上にかける汁をカレーソースと呼ぶ。野菜や肉などを煮込んだ鍋に、カレー粉と小麦粉を油で炒めて少し焼き色をつけたもの(ルウ)を入れ、とろみが出るまでさらに煮るというのがオーソドックスな作り方である」

これは、正確に記述するなら、「オーソドックスな作り方である」の前に、「いまでは」を入れるべきだろう。そして、まさに、「いまではオーソドックスな作り方」が、なぜ、そうなったのかが、「米飯(ライス)にカレーソースを掛けた日本の料理」としてのカレーライスという料理、その歴史の核心なのではないか。そのことについて『汁かけめし快食學』では述べている。

しかし、なぜ、素直に、胸をはって、「カレーライスは日本の汁かけめし料理」と言い切れないのだろうか。そこが、またオモシロイところなのだな。やはり、日本の知性あるいは知識人たちは、中国や欧米やインドなどからしか、日本を見られないのだろうか。

2008/12/29「書評のメルマガに、津村喬『ひとり暮らし料理の技術』。」にも書いたが、津村喬さんの『ひとり暮らし料理の技術』では、「汁かけめしの歴史を無視し「カレーライス伝来」に偏向したカレーライスの歴史のデタラメが、また一つあきらかになる」のだ。そのことは、いずれここに書くだろう。津村さん、おれより、かなり決定的な言い切り方をしている。

まだまだ、これからが楽しみだ。だいたいね、いい気になって言ってしまうが、料理の歴史としての調べと、考察が足りないのだ。「カレーライス」というキーワードだけで資料を拾って書いたような「歴史」では、カレーライスの真実は明らかにならない。料理と料理の現場である生活の実態から出発することが必要だろう。

時を経過するほどボロがでるオボッチャマ太郎総理の言葉のように、年月がたつほど「カレーライス伝来説」を基軸にしたカレーライスの歴史はボロを出す。しかし、あんないいかげんな総理でも、いつまでも居座っていられるのだから、汁かけめしの歴史を無視した「カレーライス伝来説」もまだまだはびこっていられるかもな。

ま、まもなく午前1時だが、『ウィキペディア(Wikipedia)』の「カレーライス」の記述が、1000分の1ぐらいは正確になった祝杯をあげるとするか。

関連
ザ大衆食「汁かけめし(ぶっかけめし)とカレーライス・丼物」…クリック地獄

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2009/01/04

「行列は作らず」の「共同炊事」を考える。

Ueno_kyodosuiji009彼女の発見なのか、それとも誰かの発見を紹介したのかは覚えていないが、だいぶ前に、「人類は腰紐のようなものを着けて自然から文化に移行した」というようなことを上野千鶴子さんが述べた。そして、日本の女がパンツをはくのがフツウになったのは戦後の新しいことだというようなことを言った。

ま、とにかく、人間は「文化」というやつで他の動物と区別されるという考えは、わりと一般的だ。その意味では、腰紐だけじゃなく、料理をつくること、食事を楽しむことなども、あげられる。

拙著『汁かけめし快食學』では、『料理人』(ハリークレッシング著、一ノ瀬直二訳、ハヤカワ文庫)の最初の扉にある箴言を引用している。

人間とは料理をする動物である。
         <古い料理書>
人間とは食事を楽しむ動物である。
         <古い料理書>

石毛直道さんのばあいは、「人間は料理をする動物である」「人間は共食する動物である」という表現になるのだが、この二つの「テーゼ」を、とても気に入っていると、「抵抗食の会(仮)」の方が、『オルタ』08年11-12月号に書いている。

すでに2008/12/15「抵抗食。」に、ちょっとだけ書いたが、「コレクティブ・キッチン」という考えあるいは方法があるらしい。

ようするに、「家族や地域社会など人間の生活を固定していたコミュニティが不安定になって、個人はずっとバラバラになり、食べるために皆が一堂に会することは少なくなってきた」「ところがそんな常識を覆し、現代都市生活のど真ん中で、日常的に人びとが寄り合い、食べ物を集め、料理し、分け合って食べている人たちがいたのです」と、ヨーロッパの「グローバル・ジャスティス運動世代のアクティビストたちが、「コレクティブ・キッチン」と呼んでいる実践」を紹介している。

日本の食育論者が「弧食」を問題視し「食育基本法」を推進しようというのとは、かなり視点からしてちがう取り組みだ。いわば、消費主義によって消費する動物にされ、「文化」を失った「食」を、自らの「文化」としてとりもどそうという実践というか。

きのうのエントリーに書いた上野公園噴水前のもちつきや、そこにあった看板の、山谷センター前の「共同炊事」だが、これは、従来の「炊き出し」とは、やり方は似たようなものなのかも知れないが、めざすところや試み方がちがうようにおもわれた。

「みんなで作って、みんなで食べる、それが共同炊事」と看板にある。

おれは「行列を作らず」に考えさせられた。そこには「自律性」の尊重が含まれるだろう。そして食べるために並ぶ、あるいは並ばされる不自然を、あらためておもった。

すでにコミュニティの「崩壊」はいわれていることだが、食のばあい、ひとりだろうと、友人同士だろうと、家族だろうと、親族だろうと、「ともに作り、ともにわかちあう」精神が、消費主義にとってかわられていることが、大きいモンダイのような気がする。

「共同炊事」には、消費主義によって失われた、なにがしかの食の文化の可能性があるかもしれない。

2008/12/29「書評のメルマガに、津村喬『ひとり暮らし料理の技術』。」に関係するが、日本で、料理を生活の技術として考えるようになったのは、著作物としても新しいことで、石毛直道さんや江原恵さんの『庖丁文化論』が登場する1970年代以後だ。女のパンツの歴史より浅く、女のパンツほどの広がりもない。そのあたりに、生命と生活と料理や食事がお粗末にされる何かが、あるのかも知れない。

考えてみると、生命を科学として考えるようになったのも、日本のばあい、おなじていどの歴史だろう。生命も料理も文化も、観念的や文学的だった歴史のほうが、はるかに長い。のだな。

ちょっと、タイトルからはずれた。いつものことだ。

共同炊事、なんだか魅力的だ。山岳部を思い出すが、それがアタリマエではない大都会のど真ん中でやることに意義があるのだろうな。

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2009/01/03

上野公園共同炊事水族館劇場のち信濃路とやどカフェ泥酔。

Ueno_koen002_2あたたかい年始だ。とおもうのは、いつも高所寒冷地で年末年始をすごしていたからか。でも、あたたかいきのう、12時半ごろ上野公園噴水についた。2008/12/28「水族館劇場、年末年始公演へ。」に書いた「さすらい姉妹寄せ場興行」を観るためだ。

Ueno_sizokukan004_2そこと思われる場所には、すでに人だかりがあり、もちつきをやっていた。野宿者と支援のみなさん。すでに芝居衣装のひとも見える。ついたもちで雑煮を食べ、乾杯をし、そのあと芝居があると進行役らしいひとが、大声で告げていた。最後のウスがつきあがり、設置された数ヵ所のテーブルのところで、雑煮が配られる。

行列はつくらない、行列に並ばせない、そういうやりかたらしい。ワッと野宿者が雑煮を盛るひとを囲むが混乱はない。百名ぐらいか。いかにも飢えた感じで目の色が変っているひともいて、チョイとあぶないのではとおもったが、混乱にはいたらない。「おかわりはだめだよ、一人一杯だよ」「まだのひとはカップとハシをもらって」という声にみな従う。

腰がまがったジイサンが、おわり近くに来て、カップとハシはもらい、ひとがきの中に入ろうとするが入れない。ひとがきの中の誰かが気がついて、スッとあけるとそこだけパカッと割れたように道が開き、ジイサンは無事に雑煮にありついた。「きのうから何もたべてない」と、一人の野宿者がべつの野宿者にいっている。30歳代ぐらいの、野宿者になりたてのような、髪はボサボサだが、あまり草臥れていないコートを着て出勤帰りのままのようなかっこうの男が、紙カップまでかじりそうな勢いで食べている。

「テント村」があったはずの周囲は、ロープがはられ「立入禁止」のふだが下がっている。「午後3時から山谷センター前で共同炊事」の看板が立っていた。大マスコミが「派遣村」だけを大騒ぎしているのは、いかにもわざとらしい。経団連は高枕。文学(活字)は無力。

中原蒼二さんが、桃山邑さんとあらわれる。新年のあいさつ。紙コップがくばられ酒が注がれる。雑煮は遠慮したが乾杯は一緒にとおもい酒を注いでもらう。「生き抜こう」の乾杯。

芝居が始まる。みな熱演だ。舞台装置のない芝居、役者の力のみ。楽しんだ、なにもいうことなし。何度か拍手がわいた。最後に投げ銭。
Ueno_sizokukan017

山谷玉三郎さんが「釜ヶ崎人情」にあわせ一升瓶を持って踊ったが、去年の駒込大観音のときとくらべ、あまりにもやせてしまっているので、おどろいた。5月の駒込大観音に元気な姿を見せてほしい。
Ueno_sizokukan032

「釜ヶ崎人情」
http://jp.youtube.com/watch?v=9b_ecSqWtmA

おわって、中原さんと友人の浅野さんと、鶯谷の信濃路へ。ほぼ満席状態のにぎわい。女の客が多いなあ。生ビールのあとチュウハイ4杯ぐらい飲んだか。

のち、中野のやどカフェが新年会なので、お2人を誘ってむかう。着いたころには、すっかり酔いがまわっていた。澤畑ボスにひさしぶりにあい、トシクラさんもひさしぶり、それから最近はわりと一緒に飲んでいる感じの愛人6号まりりん。あまり覚えていない。中原さんたちと一緒に新宿までもどったのではないかとおもう。

とにかく泥酔帰宅のちまた飲んだ。

今年も、←左サイドバーにリンクのある、「旅人文化」と「やどやゲストハウス」も、よろしく~。

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2009/01/01

大衆食堂関係リンク

カテゴリー「大衆食堂」に関係するエントリーが増え、読みにくい状態になったので、リンクにまとめました。なお、ここには、大衆食堂のお店のレポートは含まれません。お店の一覧などは、ザ大衆食のサイトをご覧ください。

『大衆食堂パラダイス!』(ちくま文庫)については、こちら…クリック地獄

2008/02/15「「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い。」

2006/10/26「大衆食堂の呼称と歴史」

2006/07/26「「そこにいる」視線と「チェック屋」の視線」

2006/07/24「「学び」嫌い「教育」「説教」大好き人間」

2005/07/03「『大衆食堂の研究』のころ その2「特殊」な」

2005/06/23「『大衆食堂の研究』のころ」

2005/06/21「力強くめしをくえ! で10年」

2005/04/05「大衆食堂は地域のイキモノだ」

2005/03/19「悩ましい「田舎者」」

2005/03/10「悩ましい「優秀な経営コンサルタント」」

2005/02/21「「大衆食堂の研究」とレトロブーム」

2005/01/07「『大衆食堂の研究』の発端」

2005/01/05「人生山あり谷ありのなかでの「大衆食堂の研究」」

2005/01/04「オッ「大衆食堂の研究」から10周年」

2004/12/09「『東京いい店うまい店』と「ヤル気のない」食堂」

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初詣は画像で。

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去年夏の「四月と十月」古墳部の旅は、糸魚川とフォッサナマグナで、糸魚川市一の宮の「天津神社・奴奈川神社」にも寄った。

おれは「無神論者」といえるほど堂々たる「無神論者」ではなく、ただどんな意味でも絶対的存在に不謹慎フマジメでいたいだけなのだが、以前から神社には興味がある。神様の実在は確かめがたいが、神社は実在する。しかも、これが、なかなかおもしろい。食との関わりも深く、古代の食の探究のためには神社や神話は欠かせない。

ってことなのだが、この「天津神社・奴奈川神社」は、じつに興味深い。そして、なにより、この拝殿のたたずまいに、おれは惚れた。なんという、いい女なんだろう。あっ、いや、ちがう、いい姿なんだろう。ね、このかやぶきの素朴な美しい姿。

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だが、ここには、奴奈川姫(ぬながわひめ)を祭る、奴奈川神社本殿があって(上の画像、拝殿の左奥)、「奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命を合祀した。」と公式サイトに案内がある。

八千矛命(やちほこのみこと)とは出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名。じつは奴奈川姫は大国主の愛人で、大国主は出雲から糸魚川の奴奈川姫のもとまで通ったという伝説がある。ってことで、ここに二人が合祀されているらしいのだな。いい話だねえ。

だけど、もう一つ、拝殿の後ろには、奴奈川神社本殿とならんで天津神社本殿があるのだな。これは、じつに奇怪、おもしろい。なぜなら、神話的伝説によれば、天津神社は天皇家の祖神である天照(あまてらす)を祭神とする伊勢神宮の系統、つまり出雲の神々を滅ぼしたか征服したか侵略した側なのだ。ようするに、「負け組」大国主あんど愛人・奴奈川姫と、「勝ち組」系が一緒に祭られている。

拝殿に参拝すると自動的に「負け組」「勝ち組」両方を拝むことになる。と、ここで、おれは、奴奈川姫はどんなにいい女だったのだろうかとおもいをはせつつ、また汁かけめしと米食の関係をフニャフニャ考えたのだった。すると、チョイとひらめいたことがあった。ま、それについては、新年早々の、いま元日の午前1時過ぎという時間に書く気がしないから、そのうちに書くだろうということにして、とりあえず拝殿の写真と、天津神社本殿の写真と奴奈川神社本殿の写真を載せておこう。いずれも1790年代の改築で、なかなか見事というか味のある彫り物がほどこされている。

天津神社本殿
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奴奈川神社本殿(左)
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天津神社・奴奈川神社 公式サイト
http://www.fsinet.or.jp/~amatsu/

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