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2009/02/02

ほどよい、ミーツ、ラブたまご。

2009/01/31「ぼうずコンニャクさん、怒りの幕の内弁当。」に「ミーツの特集は、「ラブ たまご」。めくるめくパーンクなたまごワールド。不況下の貧乏人も薄金持ちも見栄金持ちも楽しめる、たまご料理。じつにタイムリーだし、待っていたぜ、こういうの。」と書いた。

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『ミーツ・リージョナル』3月号の特集「ラブたまご」は、ほんと、レボリューションだよ。

おれは、『現代日本料理「野菜炒め」考』を書いたときから、「現代日本料理考」シリーズとして、つぎは「マカロニ・サラダ」をやりたいと言っていたし、編集後記で堀内恭さんも、「「野菜妙め」というありふれた料理について深遠な考察をしてくださった。「雑多」で「アイマイな」料理の中に日本人の力強さを見出す……遠藤さんに脱帽したい。遠藤さんにはしつこく、次回は「マカロニサラダ」執筆をお願いしたい。」と書いた。

そのころ、「マカロニサラダ」のほかに「サバ味噌煮」や「ジャガイモ料理」や「汁とスープ」などと並んで「たまご料理」などが、おれの構想にあった。

これ、こうやって並べてみるとわかるとおもうが、それほど「職人技」として注目されてないし、日常的に親しまれてきた地味な「副食」や「脇役」である。

ちなみに、あの『dancyu』のばあい、こんなぐあいだ。2月号「人に教えたくないラーメン」「「家庭鍋」グレードアップ計画」、1月号「名店直伝旨い「おせち」で酒が飲みたい!」「おいしい餅が食べたい!」、12月号「発表!dancyuワイン大賞」「うまいソーセージの新定番」、11月号「ご飯は、もっと旨く炊けます!」「ときめきのホルモン!」、10月号「おいしいスパゲッティ大図鑑!」「「お好み焼き」の魔力」、9月号「ふたりで、焼き鳥」「焼酎が光る食卓」、8月号「日本一のカレー集めました」「トマトは偉い!」。

ふーむ、じつにその、なんである。そのなぜかは、ま、グルメ系編集者や読者は、あまりオリコウでないひとたちであるから、というふうに考えている人たちがいるようだけど、その追求は、どなたかにまかせるとして、とにかく、「たまご」をテーマにしたのは、さすがミーツの編集、ということにしたい。

だけど、そのミーツにしても、ミーツは「ミーツ」であり、そこらのグルメ系雑誌とはちがうにせよ、特集はこんなぐあいだった。前月2月号「毎日でも、中華が正解」、1月号「20周年記念永久保存版ミーツの100店」、12月号「この週末行こう、旨い旅」、11月号「自腹レストラン」、10月号「ザ・めし」(おれが巻頭エッセイを書いているね。そして「品切」)、9月号「辛ミーツ」、8月号「今飲みたい、街の酒」。

やはり、ミーツは、かなり、オリジナリティに向かう姿勢がちがうな。ま、東京=中央は、チョロイのですね。

そのミーツだからできたのか、「ラブ たまご」。巻頭グラビアは「トロトロ、フワフワ、ムッチリ、タラリ…。ミーツ史上最大セクシーなたまご料理写真集!」という「原色たまごグラビア」。続くメインは、「もう脇役とは呼ばせない!今食べたいたまご主役なメニュー、7種32皿。」の「たまごメニューレボリューション。」だ。そこには「たまごかけご飯」を筆頭に、「たまごサンド」「親子丼」「だし巻き卵」「オムレツ」「オムライス」「カルボナーラ」。

そして、「ブランド卵クロスレビュー」「たまご便利調理器具評から養鶏場直撃ルポ、ファミレスめだハン・ミシュランまで」という「健康(?)たまご生活」な、たまごサブカル。

まだまだ「たまごへ欲望一直線。 キミをああして、こうしたい」と、たまごのキミをだね、「割りたい」「絡めたい」「受け止めたい」と、街場のたまご料理がならぶ。コラムは「三大欲求オールクリアのたまごソース」。「[番外編]タルタルソースに溺れたい!」さらに「どの酒場にも旨いたまご一皿。キャラ立ちアテたまご」だ。

いやあ、すごいね~。ズラリのたまご料理もそうだが、そこから関西のまちが見えてくる。「たまご」で、ここまでやれるんだなあ。らくしないで、がんばって雑誌づくりをしている。こういう雑誌が生まれる関西なのに、どうして経済は沈下なのだろうか。それも、東京=中央が、制度を利用して、なんでもすいあげてしまうからなんだろうなあ。東京=中央の連中は、らくちんして、自分の実力だとおもって自惚れているが、とんでもない。

なーんてね、いろいろ考えちゃうのだった。

いや、それで、今号の連載コラム、ま、例によって、「江弘毅お街語り」じゃ「「大間産マグロの向こう側」と、産地ブランドに踊る消費社会をバッサリやっているし、「大阪のぞき」じゃ木村衣有子さんが「水都」と呼ばれる大阪の水の上を走る「アクアライナー」に乗って、やや平板な文章だけど、乗ってみたいなあとおもう上手な文章を書いている、が、松本創さんの「ニュース、「斜め読み」のススメ」がツボだった。

タイトル「雇用不安社会」で「身の丈忘れて踊った俺もバブル世代だったか」の見出し。「バブル的発想を脱しきれてない」現象をあげ、「そういう考え方に、下の世代はいら立って(しらけて?)いるんだろう」「ええやん身の丈で、と思う。バブル世代の欲望は明らかに身の丈を超えていたのに、ロスジェネは身の丈の仕事や生活すら危うい世の中。なんでこう極端なのだ。「これぐらいでちょうどいい」という感覚を共有するのは、そんなに難しいことなんだろうか」と書く。

「これぐらいでちょうどいい」というのは、自らのスタンダード、「ほどよさ」ということになるだろう。これが、かなり損なわれたのは、確かにバブル期だったとおもうが、「身の丈忘れて踊った」なら、それ以前にも、高度経済成長下での「中流意識」、日露戦争の「戦勝気分」や第一次世界大戦後の「成金気分」などがあるし、それらは無関係ではないだろう。そう、いってみれば、どれも「成金気分」なのだな。

だから、「バブル世代」や「ロスジェネ」といった「世代論的」なわけかたも、おれは「団塊」については、ま、それなりにあるとおもうが、このモンダイは世代的というより、極端な東京一極集中の構造に根深いモンダイがあるようにおもっている。東京が右をむくとみなが右をむき、東京がウンコをするとみながウンコをする極端な振子。

「ほどよさ」というと、2009/01/31に書いたように、幕の内弁当や汁かけめしの美学や発想にも関係する。たまごも「ほどよさ」であるだろう。そういうものが、バブルな気分を絶えずリードしてきた東京=中央のメディアのテーマになりにくいのは、偶然ではないとおもう。所有するだけ所有し、占有するだけ占有し、蒐集するだけ蒐集する。東京は、そのように「これぐらいでちょうどよい」を失った感覚が、大小のメディアを支配するところといえる。そして、全国の「東京あこがれ」な人たちは、そのメディアを通して、そんな「東京現象」とつながってきた。

「三つ子の魂…」というレベルで見れば、70年前後生まれぐらいからこっちは、世代に関係なく「中流意識」なバブル気分の洗礼を受け、バブル期のバブル気分はそれにのって膨張した、それをどう裁くかは自らのモンダイとして残っている。と、ま、きょうは、これぐらいでおわるにあたり、木村衣有子さんの『もうひとつ別の東京 ひそかに愛し、静かに訪ねる55景』(祥伝社)から、バブルな気分を放逐する文章を引用しておく。

「学生気分」という言葉をつかっているが、これは「バブル気分」にも通用するし、ようするに何かで舞い上がり「ほどよさ」を失った気分とみてよい。この文章は、物書きは文章技術以前の観察や思考が大事だということを、教えさせる。長いあいだ消費主義的なバブル気分を文学的にリードしてきている、自意識過剰な「私語り」「自分語り」の文章にはない観察や思考ではないだろうか。東京=中央で、ちょっとばかりメディアにのったり稼いだぐらいでいい気になってちゃいけないのだな。

「お茶の水 山の上ホテル」から

 これまでに山の上ホテルに宿泊したのは、ふた晩。
 最初は、まだ学生気分が抜けない年頃だったとき、同い年の女友達と。素敵なホテルだと、憧れが高じてふたりでわくわくと予約した。今思えば、その気持ちだけが先走っていて、分不相応だった。ある場所に憧れることと、そこにためらいなく、けっして浮かない自信を持って身を置けるようになること、ふたつのあいだにはけっこう距離がある。
 

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