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2009/03/10

まち、飲食、アート。ココルームとフェスティバルゲートと場所の力。

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047_2今回の「場所の力」シンポジウムは、1980年代後半ごろから疑問に思っていた、近頃は主に「まちづくり」という言葉で表現されることや、模索し続けている、たとえば飲食店や食べ物のことを書くにしても消費主義に流されない表現に、強い示唆を与えてくれた。

おかげで、酒でデレデレに腐った脳みそが、晴れ晴れとしている。きのう試しに、だいぶ飲んでみたが、その晴れ晴れは失われることはなかった。脳みそは酒にただれても、けっこう、気分は晴れ晴れで、興奮し、ハイなのだ。すごく力が湧いてきた気分なのだ。

と、新たなヤル気を出しているところへ須田泰成さんから電話があった。須田さんは大阪出身だ。時間があったらシンポに行きたいと言っていたのだが、忙しくて残念だったので、さっそく電話でアレコレ話した。んで、上の「お知らせ」にあるように、泥酔論の第3回目をやることになった。来週の土曜日21日、よろしく。シンポで一段と酒力とヤル気をつけてきたおれのトークが、「野暮」で、泥酔暴発するでしょう。

さて、それで、自分のためにも、ちょいと今回のシンポジウムの根っこのところを整理しておきたい。まずは、なんといっても、主催者のココルーム、そしてココルームが今回のようなシンポにいたることになった「場所」―フェスティバルゲートのことだ。

『こころのたねとして  記憶と社会をつなぐアートプロジェクト』(こたね制作委員会、ココルーム文庫)の一章の最初に、NPO法人ココルームの代表である上田假奈代さんが、「こころのたねをもつこと アートと社会の関わりの可能性をさぐる」の見出しで書いている。


 他人の人生を聴きとり、言葉として声として身ぶりとして現前させ、当人にとっても他者にとっても人生をであいなおす試み、それが「こころのたねとして(通称、こたね)」である。おしゃべりという日常のなかにある形式で聞き取り(録音することもある)、メモし、聴き取った人が自分なりの仕方で詩や散文にして朗読発表する。聴き取られた人やその家族、近所の人などが訪れ、耳を澄ます。それらの文章を提示することもある。


これが、「こたね」の手法なのだ。続けて上田さんは、こう書いている。


 「こたね」の手法が生まれた背景には、二〇〇三年から五年間、新世界フェスティバルゲートで活動したココルームというアートNPOの存在がある。このNPOの活動がなければ、着想もなければ実施する体制もなかっただろう。他者に聴き取り、他者の記憶の作品化を試みるという手法にいたり、その手法自体を公開する……そんな取り組みにいたった経緯を、ココルームの検証を交えながら、振り返りたい。なぜアートが社会に関与するのか。


続いて、「フェスティバルゲートという失われつづけた場所の力」の見出しだ。じつは、おれは、この『こころのたねとして』を読むまで、「フェスティバルゲート」の存在すら知らなかった。今回、そこへ行った。というか、原口剛さんが手配してくれて、7日に泊ったところは、JR環状線新今宮駅南側の、いわゆる「釜ヶ崎」あるいは「あいりん地区」と呼ばれる中の一泊1600円というヤドであり、その新今宮駅のすぐ北側に、「フェスティバルゲート」が、いまは巨大な廃墟としてあるのだ。東京なら山手線の一駅のそばに、こんなものをつくり、そして廃墟にしてしまう「フェスティバルゲートという失われつづけた場所の力」。


上田さんの文章をつなげていくと、こうだ。「フェスティバルゲートが建設される土地は、もとは霞町車庫で路面電車の拠点だった」「一九九七年(平成九年)、車庫跡地に都市型遊園地としてフェスティバルゲートが建設された。交通局から土地を借り、四つの信託銀行が株式会社として運営をはじめた。珍しい施設に当初は行列ができるほど話題になったが、警備費などの莫大な経費や想定よりも集客数が伸びず、運営は困難を極め、経営は破綻する」「飲食店などのテナントは退店し、シャッターが目立つようになる」「二〇〇二年、大阪市ゆとりとみどり振興局が空き店舗を活用し、「新世界アーツパーク事業」をたちあげた。評価の定まらない現代芸術の拠点形成と情報発信を行うもので、行政とNPOとの協働事業である」


そこに、「翌二〇〇三年に、こえとことばとこころの部屋(cocoroom)が入居する」。


 わたしが知るフェスティバルゲートは二〇〇三年からのものだ。それまでの話は地域の人や退職した交通局の職員から聞いたものである。多くの人がフェスティバルゲートの話をするときに眉をひそめる。「あんな場所では無理だわ」「あの場所にアートは似つかわしくない」とする意見である。


そういうことろで、ココルームは活動を続けた。そして、「フェスティバルゲートは十年の間に急激にさびれ、持ち主が何度も変わり、批判され、場所の力を失ってしまった。一階のバスターミナルと二階の通路部分を除き、誰も立ち入ることのできない巨大な空き地。わたしたちがその最後の五年間をともに過ごしてきたことが「こたね」の着想のひとつにつながる。都市に積み重なっている記憶を開発という仕方で失いつづけてきた。開発が近代以降の人間の営みであったことはよくわかるが、もし少しでも場所の記憶に耳を澄ませたら、ささやかに都市の力は積み上げられるのではないだろうか」

「フェスティバルゲートは開発型の時代の空気と巨大さゆえに場所の力を失いつづけてしまう結果になった。空き店舗が増え破綻がみえてきたから、わたしたちはそこに呼ばれ、最後フェスティバルゲートに立ち会ってしまった。さびれたこの建物は、大きな問いをわたしたちに投げかけたのだ。公共的な空間に対し、閉塞する社会に対し、アートは何ができるか、を」

その活動の結果は、『こころのたねとして  記憶と社会をつなぐアートプロジェクト』にまとめられ、今回のシンポジウムになった。さらに、これからまた次の展開がある。

ところが、ココルームやほかの、フェスティバルゲートに入居した団体は、10年という約束も反故にされ、5年で追い出されてしまった。

そのあと、ココルームが向かったところは、より「あんな場所では無理だわ」「あの場所にアートは似つかわしくない」ような、「釜ヶ崎」の商店街、きのうの写真の最後にある「動物園前1番街」だった。

ココルームは「インフォ・ショップ」「インフォ・カフェ」とよばれる飲食店営業もしている。荒っぽいこともあり、警察を呼んだりすると、その腹いせに店が壊されるといったことがある繰り返しのなかで、記憶と社会をつなぐアートプロジェクトは続いている。

きょうは、ここまで。

上田さんは、1969年生まれ。詩人。

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2008/05/08
ぜひ読んで欲しい本です『こころのたねとして』。

画像、1番上は、新今宮駅の南側の太子の交差点から、JRのガード越しに見たフェスティバルゲート。2番目は、おなじ太子の交差点から、カメラを右にふった、「釜ヶ崎」の太子地区のドヤ街。この画像の、さらに右手が、西成警察などがある「釜ヶ崎」の萩之茶屋地区になる。

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上、新今宮駅ホームから見た、フェスティバルゲート。この裏手方面にジャンジャン横丁があり、カメラを左にふると通天閣が見える。

下、最後の画像はフェスティバルゲートのなか、2階通路。日曜日だが、トウゼン、人の姿はない。
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