自律的で自立的な「地域づくり」と「地産地消」と「まちづくり」の行方。
今回の「日本で最も美しい村」連合の取材では、いろいろ面白いことがあった。なんといっても、極端な東京一極集中のなかで、東京=中央ほど、何かカンチガイが多いらしいことに気づいたことだ。地方から見てみれば、東京=中央ほど、自律性と自立性に欠けているところはない。つまり何かに依存しまくっている。という見方も可能だが、また、東京=中央の人間ほど、自分たちが自律的で自立的だとカンチガイしているひとが多そうだ。情報に依存した食べ飲みは、まさに大都市住民らしさでもある。
そのことについて、考えたことがない東京=中央の人が多いのではないか。東京一極集中のシステムにのっかって、自分たちは「能力がある」「正しい」と思い込んでいるというか。そういうことが多い気がした。なるほど、「能力がある」「正しい」として、それはどういう「能力」「正しさ」だろうか。
食育基本法の「地産地消」の滑稽さは、何度か書いてきたが、そもそも地方に依存している人たちが人口の1割も固まっている首都東京を考えれば、「地産地消」という空虚は、すごいものがある。「地産地消」による自律と自立は、地方でしか可能でない。首都圏市場は、大きく、地方と輸入に依存している。そして、現実的には、東京あるいは中央の人が、食育基本法をタテに地方の人に「地産地消」を説く滑稽は、まだ続いている。
この滑稽は、深刻だ。というのも、地方の経済の実態としては、農産品を大都市に出荷することで成り立っている。見方を変えれば、地方に依存せざるをえない大都市が「吸い上げ」ている。昔からあったことだが、良質であるがゆえに東京の市場で高値で取り引きされるものは、「地産地消」といいながら、地元では入手困難である。吸い上げていながら、「地産地消」を説き、農家の経営努力が足りないがゆえに国産は高くつくから、安い外国産を輸入するのであるという。
しかし、たとえば、北海道の農業のばあいを例にすれば、国の政策で多くをすすめてきた。それは、いわば東京=中央の意志だった。北海道の農業は、今回訪問した美瑛町もそうだが、周辺の都市を消費地にして成り立つ構造は、最初からない。最初から、東京=中央と一体の構造なのだ。だから、とくに農業のばあい、北海道の経済は東京都の経済と一体のものとして、同じ自治体であるぐらいのツモリで考えてみる必要がある。というふうには、東京=中央は考えない。いまとなっては、お荷物だから、自分でなんとかせよという。そういう、ま、「能力」「正しさ」なのだな。その「証明」のために、「有識者」が活躍する。
前にも書いたが、「地方税」と「国税」というが、「地方交付金」というが、そもそも「地方税」と「国税」の割合は適正なのか。たくさん吸い上げておいて、おまえのところは「赤字」だ、中央へ依存するなということは、ありはしないか。
そもそも、これも前に書いたが、全農中央が自動的に取り引きの1割をピンハネする仕組みはなくなったが、おなじような仕組みは、ほとんどの領域にある。たとえば、一軒の農家の生産に、どれぐらいの不要で不用な役人や団体がおんぶしているか。それは、ほかの分野にもいえる。地方交付金を問題にするが、東京に本社や本部をおく企業や団体が、どれぐらい国税におんぶしているか。そういう計算をしてみるのもよいのではないかと思う。ま、おれも、いろいろな補助金がらみの仕事をしている。周囲にも、少なからずいる。
ま、でも、そのように、お互い説教しあったり、ののしったりしても始まらない。お互いえらそうな顔はしないで、自律的で自立的な「地域づくり」をやろうという動きが、一方では、広がってもいる。そこに「地産地消」が関係している例は、それなりにうまくいっているようだ。「援農」という、援農にも交流にもつながる動きも広がっているようだ。うまくいくばあい、ある条件があるようだ。それは、そのうち書くとして。いま「まちづくり」といわれるなかには、「地域づくり」のない「まちづくり」がある。たいがい政令都市クラスの大都会のそれである。これは、けっこうおかしなことだと気がついたのだが、そのことも、そのうち書くとしよう。
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