理解しようとしなかったら、なかなかわからないものだ。ということを知らない幸と不幸。
取材したひとの話を、切きざんで短くしたり、捨てたりするのは、好きでたまらん女とわかれるような気分だ。ってのは、例が悪いか。好きでたらまん女とは、わかれないようにすればよい。相手に嫌われたらあきらめればよい。だけど、取材したひとの話には、そのひとの必死に生きている思いの深さが、含まれていることが少なからずある。とくに自然環境も社会環境も厳しいなかで生きて、取材など、めったに受けたことがない、自分のことなど話す機会はめったにないひとの話は、そういうものであることが多いようだ。それを切り捨てなくてはならないときは、自分の肉体を刻んで捨てるような思いがする。痛たたたたたたた、いてえよう、いてえよう、おれの肉体は、もだえ続けだ。苦しい、切ない、ウンコだが、痔というのはかなり痛いらしいが、おれは知らない。
最後、適切な原稿量におさめ、仕上げようとするときの難儀は、技術的なことより、その痛さに耐えるのが大変だ。トシのせいか、痛みが激しいと、ちょっとやっては休みが繰り返される。
人口の多い地域では、対象をよく理解しようとする必要もなく、知識つまりどれだけ何を知っているかが勝負になる。そもそも対象と向かっている時間は、そんなになく、はったり知識をぶちかましたりしていれば、その場は保ち時間がすぎておわる。
ところが、人口の少ない地域では、なにをやってもおなじ顔ぶれだ。毎日、おなじような景色のなかで、おなじような人と、おなじようなことを繰り返している。なので、こちらに、いわせれば、それはもうよくご存知でしょうとおもうのだが、彼らはそうは思わない。
たとえば、毎日一緒にいる女が、どんな女であるか「知っている」のと「理解」しているのとでは、だいぶちがうことを考えてみよう。「知っている」ことなど、たいしたことないのだな。
地域のひとの顔、みんな知っている。ともすると、財布の中身、選挙の時には誰に投票する、そんなことも全部知っている。プライバシーなどくそくらえというぐらい知っている、だけど理解できているとおもっていない。だから、いつもほとんど一緒にいるような関係なのに、「わからない」という。こっちにいわせれば、それだけ知っていれば十分だろうと思うのだが、それは単に知っているだけで、理解をしているのとはちがうと思っている。だから、理解するために、こういうことをしているという。それは、聞けば、大変な努力だ、そこまで理解しなくてはいけないものかと思う。たぶん「人情」とはそのように生まれ育つのだろう、それゆえときにはわずらわしい。
だけど、小さな村で、どんどん人口が減って、三位一体改革じゃ「やっかいもの」扱いにされ切り捨てごめんの仕打ちが、いまでも続く。まったく夢もチボーもありません状態の地域で、一緒に活路を見出そうとするなら、そこまでやらなくてはならない。
そして、たしかに、60歳のジイサンたちと、30歳ぐらいの人たちでは、希望の持ち方は、まるでちがう。いま流布されている、農村の希望のなさや危機感は、ほとんどジイサンたちレベルの話で、若い人たちは、まるでちがうってぐらい、ギャップがあったりする。そのギャップは、しょっちゅう一緒だから気がついている。モンダイは、そこから先だ。気がついても知っているだけで、理解しようとしないことだってあるのに、理解しようとする。それは、「生きる」ためだ。
「生きる」ため、そのことを毎日のように考えなくてはならない。だから「知っている」じゃだめなのだ。
そういうひとたちの言葉を、切り捨てるのは、ツライなんてものじゃございません。難しい分厚い本を読むのと比べものにならない時間と努力のなかで、獲得された言葉なのだ。
理解しようとしなかったら、知らないことがたくさんある。だけど、知ったつもりになることはできる。それが、たいしたことない知識だと気づく機会もなく、開陳する。これが、ま、だいたいの都会のスタイルや関係だとおもうが、田舎じゃ、そうはいかない。
そして、どんなに知ったかぶりしても、たいがい見抜かれる。それを知っているからって、なんなんだと見抜かれる。おまえは、それをしているあいだ、おれがなにをしているか理解しようとしているのか、おまえがそれをして、そのことを知っているあいだ、おれは別のことをして、別のことを知っているんだよ、そのことを理解しているのか。という目で見られる。しかも、それが自分に直接の害がなければ、相手をテキトウにおだてたり、テキトウにあしらっておく。それが、よいほうに向かったり、悪い方に転がったりする。悪い方に転がったら、深い山でも眺めてタメイキをつく。そして、また理解しようとする。たぶん、そうやって、農業や農村は続いてきたのだ。
あまり酔ってない深夜便でした。
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