混沌としたなかで負けずにファンキービジネス。
最初の画像は、長野県大鹿村で、標高千メートル弱の赤石荘へ行く途中。撮影している位置は、標高7百~八百メートルぐらいかな。この集落は、わりと人家がおおいほうだった。撮影している位置から左へ歩くと、二番目の画像、耕作放棄されたところがあった。カタチからみると、かつては棚田というところだったであろう。水がはられ稲が植えられた状態は、なかなかよい景観だったにちがいないと想像できた。
減反の結果か、離農か、原因は、わからない。こういうところは何か所もあり、このように耕作放棄された土地は、たちまちやぶになり、そこは獣たちにとっては、よい住処となる。かくて「獣害」との戦いが、営農の課題になる。
が、それは土地が自然に還りつつあるのだ、なんで、このけっこうな文明の御時勢に、こんな山奥で暮らしている必要があるのだ。そんなところに税金をつかうのはムダ。という、都会の価値観による、「現実主義者」「合理主義者」もいないではない。
「地方分権」が、いま話題になっている。一部の知事連中が、それを錦の御旗に野心を満足させようという、うさんくさい悪臭もする。そもそも「地方分権」というのは、いわゆる「三割自治」なる状態の解決を図るという文脈だったはずだ。
国税だろうが地方税だろうが、おなじ国民一人ひとりの財布から吸い上げられている。おれの財布のなかの、この分は国税、この分は地方税と決めているのは、おれじゃない。ま、カタチとして、代議制を通し、おれも参政しているから、まったく責任がないわけじゃないが。
とにかく、財源の七割を国が吸い上げて、そこから「地方交付税」として、まるで国が独自に稼いだカネであるかのような顔をして「交付」する。そういえば、おなじようなアンバイで、ついこのあいだ「定額給付金」なんてのもありました。
ようするに「自治」というが地方自治体が自分の意思で決められるのは、財源的には3割。この構造において、中央官僚は、絶大な力を握っている。これまでの政権党も、必ずしも仲よくとはかぎらないが、二人三脚でやってきた。とくに「族議員」なんてのは、その大将の見本のような、かつて「サメの脳みそ」なんて失礼な揶揄を浴びた森元首相なんてのが、そのサメの脳みそで首相が決まるとウワサされるほど実権をもっているらしい。そして、誰が見てもオカシイ、官僚の天下りすら、たったそれだけのことすら、いまの政権党は、手をつけられなかった。あなおそろしや中央官僚。
それを、では、いったい、何割が国の財源として妥当かどうかは知らないが、とにかく大幅に財源を地方に移そうというのが、「地方分権」であり、それを「自民党をぶちこわしてやる」といいながら小泉元首相は断行しようとした。エライ。そして、財源を移すのだから、税金をつかってやってきたこともやめちゃえ、民間でやれることは民間でやればよいじゃないかと、「丸投げ」が流行った。
かなり大雑把であるが、以上は復習。
小泉元首相の「改革」の評価については、とにかく、いまやみんな悪いことは小泉改革のせいにしているから、正確のところはわからない。あれっ、規制緩和で、こんなことができるようになったの、いいじゃない、なんてことが、今回の取材でもあったのだが…。「いい面」とか、「わるい面」とか公平ぶったことより、働き生きるものにとっては、どう現実が変ったかの把握のほうが大事だろう。
とにかく、事態は、混沌としてきている。小泉元首相がふるった「規制緩和」のナタは、意外なところで、自由度が増しているかんじがある。規制緩和とは、一方では、自由の拡大であり、自由の拡大は、安定からみたら混沌なのだ。中央官僚支配のもとでの安定は、もはや崩壊しかないだろう。ようするに混沌へむかっているのだ。
安定になれた身体は、混沌を不安におもい嫌うかもしれないが、なに、いっときのことだ。そこに含まれる自由に気がつけば、それを利用したビジネスなりなんなりで生きることを考えるようになる。今回の取材でも、そういう事例をみた。けっこうファンキーに、混沌としたなかで負けずに生きている。また混沌としたなかでこそ、以前に何度か書いた「ファンキービジネス」が生きる。もちろん、本である『ファンキービジネス』そのままがあてはまるわけじゃないが、渾沌という変化を生きるには、ファンキービジネスである。
美瑛町で会った、二人の新規就農者は、とてもファンキーな感覚の持ち主だった。大蔵村にも大鹿村にも、おなじようなひとたちがいた。
なんだか、まだまだおもしろくなりそうだ。なんだか、やる気が、わいてくるのだ。「日本で一番精力的な65歳」と書かれて、来月には66歳になるのだが、そんなにやる気を出してどうするのだ。せめて老人性インポぐらい直したい。
ばかなこと書いてないで、原稿を書かなきゃ。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント