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2009/08/08

「日本で最も美しい村」と「大規模化」そして「味覚」の選択の課題。

さて、山形県大蔵村(7月15,16日取材)、北海道美瑛町(7月31日8月1日取材)、長野県大鹿村(8月5,6日取材)の原稿を来週中にまとめなくてはならない。A4サイズ、本文40ページのうち16ページが、割り当てられている。そのうち6ページは写真が中心でキャプションていどの原稿量だが、10ページは横組でタップリの量の原稿になる。

書くとなると原稿量が多いのも悩ましいが、もっと悩ましいのは、当初の予定より、たくさん取材してしまったことだ。打ち合わせのときの構成(毎号たいがいルポをまとめるパターンは決まっている)では、整理がつきそうにない。

もとはといえば、役場の各町村長と担当者を取材してまとめるものだった。だけど、行政サイドの取材だけじゃおもしろくないよなあ、いろいろな、そこで働き生きる人たちの話を聞きたいという気持が根にあるものだから、チャンスがあると、ついそちらへ身体が動いてしまう。そして、気がついてみれば、「取材のしすぎ」で、それを生かすとなると、構成から考え直さなくてはならない状態だ。

「ちょっと取材しすぎて、整理が難しくなりそうだ」という感じは、おととい大鹿村の取材の途中か、帰りのクルマのなかで気づいた。取材もおわりになって、没頭から覚めたというか。秋山カメラマンに、その話をしたら、「ぜいたくな悩みだから、いいじゃないですか」といわれた。そりゃまあ、そうかも知れない。少ないネタを、うすめてのばす原稿を書くより、充実したものができるだろう。だけど、時間がないなかで、写真のセレクトだけでも、大変なことになるにちがいない。

ほんらい、構成は編集者の仕事だけど、ここまでやると自分でやらなくてはならないし、やって完成させたいという気分にもなる。整理しながら、そんなためいき。

「日本で最も美しい村」の「美しい」という言葉から、かつて首相の座をほおりだすという「美しい」ことをやりながら、影響力を保っているらしい安倍元首相の「美しい日本」を連想するひともいるようだ。それはそれでかまわないだろう。それぞれのおもいの「美しい」があるし、それがごちゃごちゃ混ざり合いながら、「日本で最も美しい村」連合は、うごめいているようだ。

だけど、「美しい日本」には、「強大な日本」のイメージが少なからずある。その部分についていえば、「日本で最も美しい村」の「美しい」は、そういうものではなく、「小さくてもよい美しく生きよう」というあたりが、コアになっていると感じた。

それは、取材のなかで、あるひとがいった「どう自分たちの地域を残すかということに非常に力を入れている」という言葉にあらわれている。

「日本で最も美しい村」という表現は、なにやら観光的キャッチのようだが、本質は、そうではない。平成大合併大合唱のなかで、日本中が「大規模化」を競っているとき、「どう自分たちの地域を残すか」と模索した結果なのだ。たしかに、フランスの例がキッカケではあるが、自分たちがそれをしなくてはならない動機が、十分すぎるほどあった。

「大規模化」の流れは、いまに始まったことではない。とくに、都会では感じることは少ないとおもうが、農業の大規模化は近年はげしく進行している。これまでの大規模化の失敗を、さらなる大規模化できりぬけようという、官僚無責任根性もみえかくれする。「もう農水省は大規模化しか考えていない、それが既定の路線なんです」と、取材のなかで聞いた。そのように小規模営農が大部分を占める小規模町村は「危機感」をもち続けている。

「そのうち、土のことも作物のことも知らない、派遣会社の作業員がバスでのりつけ、機械で作業しては帰っていくような農業になるかも知れない」という農家のひともいた。実際、それに近い形態は、すでにある。

農業の大規模化は、一方では、「味の画一化」だ。つまり大規模農業というのは、工業的標準化によって大規模生産が可能になるわけで、その結果は、「味の画一化」にゆきつく。「大規模化か、小規模で生きていけるのか、私たちは悩んでいる、さきの絵が描けない。都会の消費者は、どうなんでしょうかね、味の画一化がすすんでもよいのでしょうか」「だれがどこでどんなふうにつくろうがよい、大都会のビルの地下でつくろうが、どこかの工場みたいなところでつくろうがよいとなってしまったら、農業の意味はなくなるとおもいます」

おれは、何もいえなくなってしまうことが、何度かあった。「大規模化」の選択は、消費者にとっては味の選択であるが、味にうるさいひとでも、そこまで考えているひとは少ない。「農業ブーム」といわれるけれど、総選挙だからといって、グルメな大騒ぎほど、農業の大規模化が争点になりはしない。その消費者の選択が、大規模化を決定づけている面もある。

というわけで、「大規模化」という既定の路線のなかで、「どう自分たちの地域を残すか」と、自律的に摸索する町村もある。そこには、守り育ててきた、伝え残すべき「美しい」何かがあるからなのだが、いずれも小規模営農が基盤にあってのことだ。

「日本で最も美しい村」連合の会長にして美瑛町の町長の浜田哲さんは、「農村は、農業を離れ観光客を集めていくことだけを考えては駄目だと思います。観光は流行のようなところもありますから、そこに重点を置くのではなく、まず、農業を中心とした地域づくりを先に進めていくことが大切です。そんなところから、この「日本で最も美しい村」の活動の基本計画も立てています」と述べている。これは、『日本で最も美しい村』(佐伯剛正、岩波書店)のなかにあるのだが、今回の取材では、もっと突っ込んだところを聞いた。ま、それは、原稿のほうに書くわけであります。だいたい、この町長さんはおもしろいのだけど、おもしろいことが書けそう。都会の価値観を「使用後」に、農村の価値観を「使用前」にたとえた話なんぞは、鋭くおもしろかった。「えっ、それ、書いてもよいのですか」と念を押して、「書いてもいいですよ」といわれたこともある。書くのが楽しみだ。

それにしても、離農で耕作放棄の「遊休地」が広がるありさまは、まさに「地域」が消滅しつつあるありさまであり、そこで暮らしてきたひとたちにとっては、自分の肉体の一部が欠けていくおもいなのだけど、そのなかで希望を失わず力強く生きているひとたちもいるのだなあ。

こうしちゃいられない。

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