「観光」は儲かるか?
どうも、きのう書いたようなことは、なんども書いているような気がして、調べてみた、やはりそうだった。チョイと自分の備忘として、一つだけリンクしておく。
2008/10/28「シンドイしんどい「ゲーム感覚」のグルメとアンビテンデンツ。」
ここに出てくる、1987年バブル真っ最中の中央公論10月号、野田正彰さん「新・都鄙問答のすすめ」は、観光による「まちおこし」「むらおこし」といったことについて、かなり誌面を費やしている。
やはり以前、このブログのどこかに書いたはずだが、おれは当時その「まちおこし」「むらおこし」にいろいろ関わっていて、矛盾を感じていたときに、ストンと胸に落ちたのが、この「論文」だった。この優れた一文は、おなじ1987年に制定の、いわゆる「リゾート法」正しくは「総合保養地域整備法」が意識されている。法そのものを批判するというより、一歩も二歩も先、リゾート法とはちがう、地方の町や村と都市の関係と在りかたを示している。
いま、この夏に訪ねたところでもみられたが、リゾート法による破壊と廃墟化の残骸は、すごいものがある。いまもって、大きな問題を残している。郵政関係の「かんぽの宿」や厚生関係の「グリーンピア」など、もちろん。まさに欲の亡者の夢のあとといった感じだ。
しかし、惨憺たるリゾート法の失敗も、当時のただ「公費」をドブに捨てるようにおわった「まちおこし」「むらおこし」についても、そして「野田論文」についても、まるでなかったかのような有様だ。リゾート法の時代の背景にある、野田さんが指摘した、東京の精神状態「アンビテンデンツ」は、一方では食べ歩き飲み歩き「グルメ」となって表出し、いわゆる「一億総グルメ」を生んだわけだが、その流れは大都会を中心に、あいかわらず続いている。
最近の「八ッ場ダム」問題、基本的に東京都民の問題だと思っているので、詳しいことはまったく関心ないのだが、「地元では今、建設されるダムを目玉に、観光客を誘致して経済振興を図ろうとの動きもある」とのことには、驚かざるをえない。
そもそも、大新聞は、この問題を政治問題化することだけを考えているようで、ダムを観光の目玉にして食っていけるものなのか、真に地元の将来を考えた検討など加えずに、民主党をつるすためにだけ利用しているにしか見えない。こうして、また「八ッ場ダム」の「地元」は、政治と大新聞にふりまわされるのだろう。ま、それは、冷ややかにいえば、小渕恵三さんの娘にすがる以外、自律と自立の道を追求してこなかった結果であるのかもしれない。あわれであるともいえるが、同情する気もしない。政治とは冷酷なものなのだというのは、「大人」の常識として生きてきたのではないのか。
とにかく、いまどきダムを観光の目玉にして食っていけるのかとおもう。真剣に考えているのかとおもってしまう。もっと観光資源としては優れているものを持ち、長いこと観光を営んできたところでも難しくなっているというのに。
しかも、「八ッ場ダム」は、どちらかといえば東京に近く、後背にある観光地への通過点にすぎない。どんな根拠があるかも知らないで、こんなことをいうのもなんだが、いまや年間100万人から来る観光地だって、それで収支をとるのは難しい時代らしい。どこも観光を頼り強化しているから競合が激しく、海外から客を呼び込めない観光地は、やっていけないという声があるぐらいではないか。
観光でカネを得るための、道路などの維持管理やらもろもろの「装置」に、とんでもなくカネがかかる。しかも、観光客は、なかなかそれに見合うカネを落としてくれない。群馬や近隣の先輩観光地を見渡してみれば、すぐわかりそうなものだが。よく調べてのうえのことなのだろうか。
観光は、派手な話題になりやすいが、出るカネも大きい。見た目ほどは、儲かっていない。実態は、儲かったとしても、小遣い稼ぎていどだ。どこの地域もそうだが、基本的な農業などで成り立つことをぬきに、観光で成り立つなんて、とても考えにくい。
そんなことを思ったのだが、おれには、誰にも、関係ないことですね。はい。
でも、もしかすると、無責任いえば、このまま中止したほうが、観光資源的には利用価値が出るかもしれない。いまどき単なる「ダム」なんか、観光の魅力にならないもん。観光で食うつもりなら、そこまで覚悟の判断がいるような気がする。
仮に、他人の一票の重さを考えないで、自分の一票だけの「地元」を押し通し、その結果がこんなダムを目玉の観光で振興なんていうお粗末なら、選挙を前提とした国家の原則はなんだったのか。ダムを推進したいのなら、もっと魅力的な将来の絵を提示すべきだろう。ってか、ここまで推進して、そのていどの将来の絵だからこそ、「中止」に支持もあるということを考えるべきだろう。
おれは、このあいだ投票してない。国なんぞなくなっても生きていくぐらいの意志が、必要なのだ。かつての敗戦を考えれば。敗戦の教訓とは、そういうものではないのか。そこから出発して、ときどきの政府を判断する。政府や政治家がいう「大義」なんてものに惑わされてはならないのだ。
ああ、それでおもうのだが、やはり、スナックだね。自律と自立の精神は、スナックだよ。100年後でも、スナックは残るだろうし、残したい。 けっきょく残るのは、スナックなひとのつながりさ。そうそう、だから、明日は、スナックなスロコメの「泥酔論」へいらっしゃい。ってことなんですよ。
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