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2009/11/16

デコレーションケーキとロールケーキ、縄文と弥生、アール・ヌーボーとアール・デコ。

Kohunbu_karako088

9月29日に4回目の撮影をした「わははめし」の原稿を仕上げて送った先週、その前に撮影した原稿から12月1日ごろの更新に掲載する分の校正が送られてきた。これで「わははめし」の年内の撮影と原稿書きはないはず。年内は、2回目のロケハンと、1月の始めごろに更新予定の校正だけだろう。

ずいぶん考えては、しばらく忘れ、またなにかの拍子で気になり、考えてしまうことがある。ちかごろは、この「わははめし」の撮影やデザインを見るたびに考えてしまうのだが、それは、料理を盛る器と盛り方のデザインに関することだ。

「わははめし」あるいはほかの料理写真の器と盛り付けがどうのこうのということではない。でも、何を考えているかを書くのは難しい。頭の中は、アンドロメダ星雲のように、もやもや渦を巻き、考えることは宇宙のように広がってしまう。といと、大げさか。

器や盛り付けのデザインの歴史というか系譜というか、その真実というか、これは料理と関係が深い。何度も書いているように、料理は食べるとなくなる。が、器は、かなり残る。これが、貴重な手がかりだ。神崎宣武さんは『「うつわ」を食らう』で器の歴史から料理の歴史を考えることをしている。

読書の秋だが、本にはウソが多い。もちろん、『「うつわ」を食らう』のように真実に迫るものもあるが、たいがいウソが多い。ウソといって悪ければ、真実に無関心であることが多いとでもいおうか。「汁かけめし」と「カレーライス」の歴史を判断する能力は、そうやって失われた。そもそも、「料理とは何か」すらアイマイのまま料理を語る事態もフツウになっている。ってことを書いていると話は、どんどんそれそうだな。とにかく、「読む」対象を「書」にかぎるのはキケンなのだ。「書」は、手掛かりていどか。自然を読み、器を読み、道具を読み、モノを読み…、妄想ではなく実態を読む。

先日、ロールケーキを一本いただいたので、その半分ぐらいを食べた。うまかった~。どうもごちそうさま。そのロールケーキを見ながら、ふと気になった。ロールケーキの外観は、直線的であり幾何学的だ。いわゆる装飾性は、ゼロに近い。デコレーションケーキあるいはショートケーキとは正反対といってよい。大げさにいえば、そこには、人間の精神の働きの正反対というのは正確ではないかもしれないが、異なる二つ面があらわれている。

モノの外見と精神は関係あり、そのあいだに「技術」が介在する。なんてことは、おれが書くまでもないのだが、コト料理の分野になると、あまりそういう話にならない。そもそも、料理を、味覚を獲得する「技術」として考えることが、まだヨワイのだ。拙著『汁かけめし快食學』のばあいは、料理を、味覚を獲得する技術として位置づけているのだが。と書くと、いやあははは、また話がそれそうだ。

で、とにかく、おれは、そうだ、ロールケーキはアール・デコ、デコレーションケーキはアール・ヌーボーと見立てたらどうかとおもいついた。デザインと装飾のあいだに、何があるのか。それと料理と器と盛り付けの関係は、どうなのか。ケーキも、本質的には料理なのだから、手掛かりになりそうだ。

091112_006そんなんで、どんどん思いつきが跳ね回り、そのロールケーキをもらった日に呑んだ酒瓶のことも気になりだした。というのも、そのなかに一本、まったく装飾性のない、つまりラベルのない、透明のびんに入った酒があったからだ。それは、「袋しぼり純米大吟醸」という高価な生酒で、ちゃんと化粧箱に入っているのだが、そもそもいつから酒をびんに入れて販売するようになり、いつからラベルを貼るようになったのか。そのラベルも、ずいぶん変った。

チョイと話はちがうが、八海酒造の醸造アルコール添加の普通酒「八海山」のラベルは昔の面影をいくらか残している。八海酒造のサイトを見ると(クリック地獄)、この720mℓの希望小売価格が907円だが、ウチの近所のスーパーでは、1980円だったか、とにかく2000円わずかに弱で売られている。そして、その横に、イマ風の風格ありげな文字デザインのラベルの宮城の「浦霞」のおなじサイズのびんの、こちらは純米酒が、おなじ値段で売られているのだ。これは、なんといったらよいのだろう。いくらなんでもねえ。やはり消費者はバカなの?とでもいいたくなる。ま、八海山は、おれの故郷の酒にしてもだ。なにかゆがんでいる。

で、なんだっけ……。そうそう、それで、なんとなく手近にあった、海野弘さんの『アール・デコの時代』(中公文庫)をパラパラ見ていたら、「アール・デコの歴史とスタイル」の章に、こんなことが書いてあった。

ヨーロッパのことだが、「案外気づかれていないのは、ボトルをクローズアップしたポスターというのは、十九世紀末まではあまりないことである。(略)これは、酒を特別にデザインされたボトルにつめ、それにしゃれたラベルを貼って売り出すというやり方が二十世紀になってから一般化したものだからである。たとえばワインの名酒シャトー・ムートン・ロチルドは二〇年代から直接つくられた場所でびんづめされるようになった」「一九二〇年代には、ボトルやラベルといった外観が酒の売れ行きに重要な関係を持つようになった」

それは、現代都市と工業と消費社会の発達が関係するのだが、ここでもう一つ気になったのが、縄文土器と弥生土器だ。ロールケーキをアール・デコに見立てたら、その前の縄文とくらべたら、かなり装飾性のない幾何学的なデザインの弥生土器が思い浮かぶ。となれば、デコレーションケーキはアール・ヌーボーと縄文土器という見立てになる。

ま、そんなことを考えているが、何か発見があったわけではない。思いつきを書いているだけだ。

一番上の写真は、奈良盆地中央部に位置する唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)で発掘された弥生土器。「唐古・鍵考古学ミュージアム」に展示されていた。「植物を採集・調理する道具」を展示するコーナーで、中央の大きな土器は、「雑穀を炊いた壺」との説明がある。雑穀を食べる歴史についていえば、まさに文献だの「書」だのはあてにならない。米より古くから戦後まで、雑穀が広く食べられていた痕跡は存在していたのに、無視されてきた。「汁かけめし」の歴史が無視されてきたのも、おなじ「理由」とおもわれるが、そういう「理由」のほうが、実態より「重み」を持っていたのが「活字文化」といえようか。

Kohunbu_togari085それはともかく、最後の写真は、縄文土器。長野県茅野市の八ヶ岳山麓にある尖石遺跡の「尖石縄文考古館」の展示。ここの縄文土器の展示には圧倒される。いつも時間が足りなくなるほどあり、通算3回ぐらいは行っているが、まだ十分に見た気はしない。

縄文土器と弥生土器のちがいについては、いろいろ「説」があるが、なにしろワレワレは縄文人でも弥生人でもないので、なかなか納得できる「説」がない。なので、あまり「書」に支配されることなく、向かいあうことができる。とにかく、弥生の土器は、アール・デコのように幾何学的フォルムが強く、よく「デザイン」されているが、装飾性は少ない。縄文土器はデコレーションケーキのように豊かな装飾で、よく見ると指のあとまで装飾になっている感じもする。

唐古・鍵遺跡は、堀をめぐらした広大な「都市」のような集落の跡だ。縄文遺跡は、それとくらべたら「農村」の集落のようなアンバイだ。縄文土器は、たいがい女子が作ったらしい、いわば「主婦」の仕事である。それを見ていると、ああ、どんな「人妻」が作ったのだろうかとおもう。弥生時代は、土器をつくる仕事が集約され、「専門家」がいたらしい。

縄文や弥生というと遠い時代だが、料理をする人間ということでみると、あまりおれたちと変らない人間であることが、こうした土器や道具を見ていると気づく。いまの料理の技術のほとんどは、縄文のころには姿をあらわしている。つまり「食べる」ことについて、あい通じる「精神」を感じる。

それは、なんだろうかといえば、「ありふれたものをおいしく食べる」ということなのだ。その精神は、すでに縄文のころにはあっただろう。そう思える料理の道具が、いくらでもある。

料理も器も盛り付けも、この縄文と弥生の土器のようにちがうものが、いまでも同時に存在しているのだから、なにか関係ありそうだとおもう。外観はちがっても、料理に関係する精神や技術を考えていると、時空をこえて、みんなつながりそうだ。そんなこともあって、「四月と十月」古墳部は、けっこう楽しみなのだ。そうそう、「四月と十月」の「理解フノー」の原稿を仕上げなくては。今年の10月号の発行は、編集体制のこともあって作業は、かなり遅れて進行しているけど、まだ年内発行の可能性、あるのかな?

毎日、何かを食べながら、料理の歴史と真実からは、かなり遠いところにいる。八海山の普通酒が倍の、浦霞の純米酒とおなじ値段で売られるほど、遠いところにいるわけだ。

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