野暮あるいは貧乏くささの洗練。
2010/01/04「貧乏くさく。」に、今年の年間テーマのようなものとして「貧乏くさく」「貧乏くささ」をあげた。なんでも言ってみるものである。自分で口にしたことによって、思考がさらに展開し、展望がボワ~と開ける。
ちかごろの料理やアートは、これまでの閉塞を脱け出しつつある感じがする。その現象とナゼを、いまは書いている時間がない。とにかく、料理もアートも、その大勢は、しばらく長い間「中流意識」を満足させるものとしてあったといえる。それが、ここんとこ、かなり変ってきたと、大いに感じるのだ。
で、いま、これだけ忘れないように書いておく。かつて、「中流意識」を「反省」とまではいかないが、お調子にのった「中流意識」に大いに疑問が発せられた時代があった。その疑問の中身は、いろいろあったのだが、1985年1月に発行された『「分衆」の誕生』に、こんな話がある。これは、84年9月4日のサンケイ新聞夕刊に載った、富田達彦早大教授のコラムを要約したものだ。
「いまの世の中には金持ちと貧乏人しかいない。働かなくても何とか一生食えるだけの資産をもっていない人は、いくら一流企業に勤めていても、いくら一流ブランドを身につけていても、無産階級、つまり上中下の「下」のはずだ。無産階級のくせに消費生活だけが中流とはどう考えてもマンガチックだ。金持ちは金持ちであり、まぎれもなく貧乏人は貧乏人である。にもかかわらず国民と九割を占める貧乏人が「自分は中流だ」と考えるのは、政治がうまくいっている(?)証拠だと思う」
この指摘については、いろいろ検討してみたいが、「中流意識」を満足させる中流幻想の洗練は、なくなりはしないだろうが、ちがう方向が生まれている。それを、おれは「野暮あるいは貧乏くささの洗練」という感じで、とらえようとしている。中流幻想の洗練は、コンプレックスが動機にある、野暮あるいは貧乏くささの洗練は、生活(貧乏生活)を楽しむビジョンに動機がある。後者には、大規模で仔細な仕組みや仕掛けは必要ない。
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