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2010/01/05

うらわ美術館「オブジェの方へ 変貌する「本」の世界」は、突き抜け爽快。

007とくに美術や音楽は、しばらく言葉にできない興奮を味わうことがある。きょう行って来た、これが、そうだった。「本」の世界を考えるときはもちろん、アートや料理や酒やウンコやセックスを考えるときも、これを観るまえとあとでは、かなり違うことになるだろう。ま、おれの場合、それぐらい刺激的だった。といっても、さっそく、帰りは、赤ちょうちんでやきとんに酒と、たいしてかわりばえのしない風俗だったが、肉体のなかはフツフツ煮立っていた。アルコールで。

いやあ、じつに爽快な気分。便秘は、ほとんどないが、便秘から解放された気分。偏頭痛も、ほとんどないが、偏頭痛から解放された気分。ま、「本」にしろ「アート」にしろ、なにかにとらわれて固まりやすい自分の頭を破壊するためにあるんだな。ナマリのように重く固まった脳みそが破壊された瞬間、スカッとするわけだ。

しかし、うらわ美術館は、まえにもフルクサス展だのなんだの観て思ったが、破壊的におもしろい展示をする。安い!大人500円!

画像は、買うつもりはなかったのに、観ているうちに欲しくなって買った、カタログから。最初の画像は、カタログの表紙で、最後の画像とおなじ、床に焼いた本をたくさん重ね並べた作品。遠藤利克さん(おれとは関係ない)による「敷物―焼かれた言葉―」。焼いたときのタールのようなニオイも漂っていた。

B4サイズの大きな版のカタログの最初の序にあたる文章を、うらわ美術館学芸員・森田一さんが書いている。タイトルは、「オブジェの方へ――展覧会の入口あたりの断片的な話」。その冒頭に、この展覧会の企図のようなものを述べている。「ダダイズム、シュルレアリスムを境にして、20世紀の美術は大きな変革を迎えた。それと同じように、「本の美術」も挿絵や装丁という範囲にとどまらない、より広く多様な表現へと拡張していったと言える。美術がそうであったように、「本の美術」もまた素材や技法の多様性を、つまり表現の可能性を求めて拡張していったのである。そしてその方向の一つとして、あるものは「オブジェの方へ」向かったと言えるだろう。本展ではそのような「本の美術」の一端を、収蔵作品の中から展覧しようとするものである」

おれはそんな企図など、まったく知らずに行った。昨年の何月だったか、なにかのフリーペーパーでこの展覧会の紹介を見たときに、なんやらおもしろいオブジェが載っている「本」を集めたものでおもしろそうと思ったこと、そして作者のなかに、「福田尚代」という名前を見つけたとき、おおっこれはゼヒとも行って見たいと思った。昨年末、言水ヘリオさんから、「言水近況他」というメールが届いて、「すでに開催中ですが、来年1月24日まで、うらわ美術館にて「本」の展覧会が行われています。『etc.』発行時に「日記にゃっき」という連載コーナーでお世話になっていた福田尚代さんが出品しています。」とあった。言水さんは、『福田尚代 初期回文集』の制作もしている。おれは言水制作室へ遊びに行ったとき、それを一冊頂戴していた。その前に『四月と十月』で編集部が福田尚代さんを訪問する記事を見て、おもしろい回文を作る福田さんに、大いに興味を持っていた。

さてそれで、展示場に一歩入って、「海外の作品から」のコーナー、最初の2つの作品を見たとき、おれの脳みそは一挙に沸騰した。というのも、「未来派デペーロ 1913-1927」の作品は、ボルトとナットで綴じられているのだ。その解説、「ボルトという工業部品を取り入れることによって、本を機械のように見せる装丁となっているのである。まさに機械文明を賛美した未来派らしいオブジェ本と言える。」

「なんやらおもしろいオブジェが載っている「本」を集めたもの」ではなく、「本」をオブジェにした作品の展示なのだ。

つぎは「未来派の自由態の言葉 触覚的、熱的、嗅覚的」というタイトルで、「本書は、マリネッティと、未来派で活躍した陶芸家ダルビゾラとによる造本史上画期的な本である。」「アヴァンギャルド・ブックの中でも最も貴重な本の一つ」とのことだが、まるでブリキの鎧か塊のような「本」なのだ。これに類する展示は、ほかにもいくつかあったが、さらに解説を引用しよう。「本書の頁と背は、リトグラフが施された金属板(ブリキ)でできている。ダルビゾラは、糸も糊も使わないこの金属本の製本技法を開発するのに数カ月もかかったという。」

いやはやイヤハヤ、そのようにスタートする展示は、おどろきおもしろの連続。これ「本」というより、カナモノ彫刻じゃねえのと思うものがあったり。「表紙には、「触ってください(エンテツ注=作品はフランス語)」とラベルとともにラヴァーフォームでできた乳房が貼り付けられている」、乳首をコチョコチョと触ってみたくなる、笑えるものがあったり。

「海外の作品から」の次は、「国内の作品から」のコーナー。

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上の画像は、福田尚代さんの作品。やっぱり、回文のように、おもしろい。「福田尚代にとって、読書は美術体験であるという。彼女は日々多くの本に親しむ中から、2003年以降、本を用いた作品を積極的に制作するようになった。」ってことで、「本に白や緑の糸で刺繍をした「刺繍シリーズ」の一つ」だの、「文庫本の小口を彫刻刀で削るように彫り羅漢に見たてた」羅漢シリーズだの。「彫刻」の削ったところが、よほど切れる彫刻刀を使っているのか、まるで粘土を削ったようになめらかな仕上がりで、そこだけアップにして見ても、何ページも重ねた紙を削ったとは思えない。と、妙なところに感心したり。

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3番目のコーナーは、「箱・鞄」。以前、フルクサス展にもあったような気がする、ジョージ・マチューナス編の「フルックサス・イヤー・ボックス」など(上の画像)。下の画像の右ページは、「大岡信と加納光於によるこの作は、1年数ヶ月をかけて40点が制作された。函型のオブジェの内部には臓器をイメージさせる16の部品が組み込まれているが、その構成や配置はそれぞれのエディションによって1点ずつ異なっている。」「函というイメージが決まった後、加納は各地を歩いて部品を集め、大岡はハガキに詩を書き付けて加納へ送ったという。」

とにかく、右から見たり、左から見たり、おもしろいのなんの。おれは、あまり「アートな心」はないから、単純におもしろがっていた。

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4番目のコーナーは、「焼く」のテーマで、「本を陶土に浸して黒く焼いたシリーズや、何も手を加えず1000度以上の高温で焼いた白い本のシリーズなどがある。焼かれた本は、当然のことながらもはや情報を運ぶ媒体としてではなく純粋にオブジェとなり、その物質性を際立たせている。」ってことなのだが、そのまま焼いたら灰のクズになるんじゃないかと思うのに、どういうことなんだろう、そうじゃないのだなあ。高温で、色は抜けているのに、ページが重なった紙の形は残っている。どういうこと? と、「美」とは関係なさそうな不思議を考えたり。

「焼く」で、出版不況の本を焼いて、本と出版の葬送かと思いきや、最後のコーナーは「展開と広がり」で、その最後の展示は、「敷物―焼かれた言葉―」なのだ。

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