神田神保町「路地と人」正式オープン。インスタレーションについて。
えーと、おれが「路地と人」のプレオープンイベントの半分酒場で半分トークのようなことをやったのは、いつだったかな。とにかく、その「路地と人」の正式オープンだ。
4月10日から、「「路地と人」 メンバーが各自の仕事を携えて饗宴する全10日間。各々の展示による、部屋全体でのインスタレーションをおこないます」と、こちら、「路地と人」のブログにある。…クリック地獄
前の半分酒場の半分トークのようなものも、半分インスタレーションのようなものだったが、もっと構成されたインスタレーションってことになるのかな?
おれぐらいのトシだと、1960年代に、「ハプニング」という「騒ぎ」を記憶している。続いて、「コンセプチュアル・アート」だの。その流れが、こんにちでは、インスタレーションになるのだとか。正確には、どうか知らないが、このたぐいは、抽象的な現代アートとして、とかく「わからない」と敬遠されがちだ。
だけど、その「わからない」というのがクセモノで、そもそも「感じる」ことが大事なのに、「わかろう」とするクセがついてしまっている。その「わかろう」とするクセを捨てるには、インスタレーションの場に身をおくのもオモシロイと、おれは思う。
ガキのころから人間は具象と抽象のあいだを、自由に行ったり来たりしていたはずが、いつのまにか教えられ「わかろう」とする人間になってしまう。
日本酒のことシロウトなのでわかりません、教えて。浪曲観たことも聴いたこともないからわからない、教えて。といった調子で、なんでも「わかろう」とするし、そのうち「わかったふり」をするようになる。
何かのカテゴリーのなかに自分をはめて、たとえば、ワタクシはラーメン好きの人間とか、ワタクシはカレー好きの人間てなことで、しだいに自分をカテゴライズしてしまう。たいがい、そのときには、そのカテゴリーの情報通かなんかになっていたり、そのカテゴリーの権威の「教え」のもとにある。
カテゴリーの権威は、アナタに向かって言う。ワタクシはラーメン好きだ、あなたもラーメン好きだ、おなじラーメン好きなら、これを知っているだろう、これぐらいは知っておきたい、そうだそれでこそワタクシタチはラーメン好きな仲間なのだ。ってなぐあいに、近頃は「食」の分野だけでも、「立ち飲み」「立ち食い」「居酒屋」…細分化されたカテゴリーの虜になり、具象の細部にわたる虜になって、具象と抽象のあいだを行ったり来たりする、人間の自由な感覚を忘れてしまいやすい。そうしてしだいに、自由な感覚や自由な思考は、権威がタレ流す「定説」だの「常識」だの「流儀」だのに囚われてしまう。
古墳部の仲間で、もうベラボウに古墳に詳しい人がいる。チョイと前になるが、古墳を訪ね、彼を囲んでオベンキョウ会みたいなことになろうとしたが、彼は「感じることです」とだけ言ったそうだ。そういうものだろう。
古墳という空間に身を置いて感じる。古墳でなくてもおなじだな。日本酒なんか、まだ感じない、まだピンとこないと、がんがん飲めばよいのだ。
ああ、えーと、そういう話じゃなくて、そうそう、インスタレーションね。これは、「わかろう」とするのではなく、「感じる」こと、「感じる」感覚をとりもどすこと、だと、おれは思う。
あまりにも、「教えられ」「わかろう」とすることになれすぎた肉体を、その空間に置くことで、もろもろのカテゴリーや権威の滓に囚われてしまっている自分の感覚を、とりもどす。あるいは解放するのだな。自分の感覚を遊ばせるのだな。
いまの時代、何かを「わかろう」とすると、かならず、野心と知識と情報はあるがたいしたやつじゃない権威につかまってしまう。
ま、まずは、「路地と人」で、インスタレーションを。
こう書いているおれだって、インスタレーションについてわかっているわけじゃない。このように感じているだけだ。
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