いま、息の長い暮らしを感じ取り、見つめ直す。『銀天街で会いましょう』と『みんなの大衆めし』。
えーと、動き回り酒を呑み、食生活も睡眠も乱れ、ダメージを累積しながら、仕事もやっていたが、なにしろあまりにも疲れすぎると、パソコンに向かってキーを打つ気も起きないのだった。
『雲のうえ』編集委員の大谷道子さんから、『北九州の商店街を歩く 銀天街で会いましょう』をいただいた。去年1年間、北九州のケーブルテレビ局の雑誌連載文をまとめた商店街情報誌で、『雲のうえ』の別冊的位置付けだそうである。
発行は、北九州市とジェイコム北九州。『雲のうえ』編集委員の、大谷道子さん、牧野伊三夫さん、有山達也さん、つるやももこさんという、いつものメンバーに、写真は、やはり『雲のうえ』に何度も登場の、長野陽一さんと久家靖秀さん。もう、文句なしの、強力制作陣。
『みんなの大衆めし』の、「大衆めし探訪2 商店街編」でも、北九州の商店街(市場)については、ちょっとふれているが、なんと、大いに重なるところがある方向性と内容なのだ。これは、なかなか、おもしろいことだとおもった。
たしかに、「大衆めし探訪2 商店街編」の、写真・齋藤圭吾さんとおれは『雲のうえ』でも仕事をしたし、瀬尾幸子さんと牧野さんとおれは、一緒に銭湯へ行ったり呑んだりしているが、仕事は、それぞれまったく別の動きなので、お互いに、どんな内容の仕事をしているかは知らない。
そして、できあがったものを見ると、なにか、同じような興味や関心を感じる。それは、個人的な興味や関心もあるだろうが、「いま」という時代から生まれる、何か共通したものがあるようだと、くらべて見ながら思った。
『みんなの大衆めし』を、ごらんいただいた方から頂戴したメールに、このようなことが書かれていた。
今やレシピ本は百花繚乱ですけど、
何か違うんですよ。
何だろう?
小手先の技っぽいんですかねぇ?
ルーツを感じないっていうんでしょうか?
今日生まれたけど、明日消えちゃいそうな感じ。
だけど、『みんなの大衆めし』は違うのだと。『銀天街で会いましょう』のリード文には、こうある。
「昔はよかった」としょんぼり言う人もいるけど、昔は昔。
今、ここにあり、目の前で手渡されるものがすべてなのだから。
歩いて探した、立ち止まって見つけた、
生きている街、生きている商店街、その現在形をお見せします。
ま、そういうことなのだな。そして、もう少し付け加えるなら、いまを生きているおれたちとして、その「現在形」と、どう向かい合うかということなのだ。
なかには、単なる「ノスタルジー」「レトロ趣味」「アナクロ趣味」あるいは「絶滅種蒐集趣味」で、向かうひともいるが、おれは、何度も書いているように、そういうことには興味がない。
また、『銀天街で会いましょう』も『みんなの大衆めし』も、そのビジュアルで一目瞭然だと思うが、「ノスタルジー」「レトロ趣味」「アナクロ趣味」とは縁がない。
自分の「まち」や「生活」のなかには、「今日生まれたけど、明日消えちゃいそうな感じ」のものとはちがう、息の長いものが息づいているのである。根っこのある「まち」、根っこのある「生活」。それは、過去形ではなく、アクティブな現在形としても、楽しくおもしろく、よいことが多いのだ。
書評家の岡崎武志さんも、ブログで、このように書かれている。コメント欄も、ごらんくださいよ。ありがとうございます。…クリック地獄
画像は、いずれも、左側の小さいサイズが『みんなの大衆めし』。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント