『みんなの大衆めし』は「雑兵物語の世界」か。
先日、チエさんから、埼玉県立歴史と民俗の博物館で「雑兵物語の世界」という展示があるときいた。大いに興味がわいて、行こうと思って博物館のサイトを見たら、もうその展示は、終わっていたのだが、案内文にこんなことが書いてある。
「「 雑兵 (ぞうひょう ) 」とは、足軽などの最下級兵士の総称です。彼らの活動が顕著となるのは、戦国時代から江戸時代初頭であり、その姿は「雑兵物語」という書物に生き生きと描かれています。雑兵は、合戦の最前線で戦うため被害は大きく、歴史の中で埋もれてきました。」
この「雑兵」は、おれが『汁かけめし快食學』の第8章「かけめし風雲録」に書いた、汁かけめしをくいながら上昇する庶民=田舎サムライにほかならない。「雑兵」たちが、「歴史の中で埋もれて」きた存在であったように、彼らの食べ物だった汁かけめしも、歴史の中で埋もれてきた。
「雑兵」は、現代におきかえれば、「経済戦争」の最前線で「戦う」、働き生きる人びとということになるだろう。
実際の「戦争世界」では、現代でも、将官や士官と雑兵では食堂がちがい、別のものを食べるというのは、フツウであるようだ。世間一般は、制度として、そのようになってはいないが、「士官的文化」と「雑兵的文化」のちがいは、存在するようにおもう。
と、考えると、『みんなの大衆めし』は、雑兵的文化のものであるといえる。
長いあいだ、「文化」だの「芸術」だのというと、「士官的文化」以上のものが語られ、あこがれであった。雑兵などは、めしくってクソしているだけで、文化なんてものはないと無視されてきた。
しかし、そうではない、汁かけめしもだが、雑兵には雑兵の文化や美意識がある。雑兵が歴史の中に捨てられてきたように、かえりみられることがなかっただけなのだ。そういうことは、『汁かけめし快食學』にも書いたが、「雑兵物語の世界」展の案内でも、雑兵の「美意識」について述べている。
埼玉県立歴史と民俗の博物館のサイト…クリック地獄
「大衆めし」の世界は、これまでも「家庭料理」として語れることは少なくなかった。たとえば「おふくろの味」、たとえば「ふるさとの味」。しかし、それらの多くは、「雑兵的文化」を、そのまま肯定的に味わい楽しむというより、低い劣ったものとして否定的にとらえ、「士官的文化」に向かって昇華あるいは「装う」傾向が強かったといえる。べつの言い方をすれば、「中流意識」の満足である。
それはまあ、そういう需要があるのはわからんでもないのだが、無理しているねえという感じでもある。雑兵の「戦う日々」つまり労働の日々の飲食を、もっと雑兵らしい文化として肯定的に楽しみ、そして楽しみながら雑兵的文化として、「高級化」ではなく、昇華し向上するということがあってもよいのではないか。というのが、おれの考える「大衆食」なのだ。
イチオウ今回の『みんなの大衆めし』でも、その点での突き抜け感は、ある。「イチオウ」とあえてつけるのは、100%の突き抜け感ではない、ということだが、料理本業界と食文化の現状からすれば満足すべきという感じだからだ。
とにかく、発売日がせまり、版元の小学館は、すごく「売る気」満々なのである。チョイと気恥ずかしさも覚える、店頭プロモーション用のツールまでつくって…。これ、こっていて、上部の「みんなの大衆めし」の文字があるのれんは、本物のようにヒラヒラする布が、貼り付けてある。いやあ、おどろき。
かつて食品メーカーの仕事を手伝っていたときに、よく使ったようなもので、そのころを思い出してしまった。小売店から注文を取るときに、まとめて何個注文いただけば、こういう店頭販促ツールがつきますと、まとめ買いを促進するわけだが。買取り制ではない本の流通では、どんな仕組みなのだろうか。
もちろん、本だからといって、気どって、そんなことをする必要はないということではない。本も、ここまでやるようになったのかという感慨である。ま、本も、フツウに商品になったということだろう。よいではないか。
ま、たいがいの人は雑兵であるし、大手出版社とはいえ、編集も営業も、そうなのだ。その雑兵の、気持が、本をつくりながら、少しずつ、糸をよるように、この本にまとまってきた感じはあった。あとは、世間の雑兵のみなさんが、この本をどう受けとめてくれるかだけだ。
雑兵たち、ガツンとめしをくって、力強く生きようぜ。ってことさ、この本は。
小学館のサイトで連載の「わははめし」のページは、更新され、全面的に『みんなの大衆めし』の紹介になっている。「試し読み」といった、便利なものまである。ごらんください…クリック地獄
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