ちかごろ、贈呈されたり必要があったりで、カタイ本や雑誌を読む機会が多い。なかなか刺激的な内容に刺激されて、ブログのタイトルも、カタイのである。
先日のギョニソ・トークについて、お褒めをいただいたメールに、「過去の社会的使命は終わり昭和の臭いを残す古臭い食品になってきていますが、スポットライトの当て方によってはまた新たな存在価値が生まれるのではないかと日々考えています。」とあった。
とくに90年代中ごろからの「昭和ノスタルジー・ブーム」は、昭和のモノやコトを古臭いものとして過去に追いやりながら、昭和を懐かしがり消費し、一方で新奇なものに飛びついてきた。
「価値創造」は、そうした動きの中で、近年よく聞かれるようになった。たとえば、「これからの成長は「拡大」ではなく「価値創造」と「永続性」です。」といったふうである。たいがい、コンサルタントやプロデューサーやデザイナー、プランナーといった人たちの、「評論家」的なはったり言葉遊びのようなものが多い。
とはいえ、いろいろな実践もあるのは確かだ。「これからの成長は「拡大」ではなく「価値創造」と「永続性」です。」という表現についていえば、「これからの成長は」という言い方は、どうかな、「成長」ではなく「これから生き抜くには」ではないだろうか、「成長」に価値をみていては「価値創造」など、とても無理だろうと思ったりするのだが、「価値創造」と「永続性」については、いろいろな実践が生まれているのも事実である。ちょうど1年前ぐらいに取材した、「日本で最も美しい村」連合なども、その一つだろうし、「就農」という動きも、そのようにみることができる。
「価値創造」には、新しいモノやコトの開発にカネを投じるというやりかたのほかに、建築方面などで盛んである「リノベーション」や「リニューアル」がある。
新しいモノの開発は、どこも財源不足で困難になっている。そこで、カネがかかるモノや新規の開発は押さえ、カネがかからないハズの「アートでまちづくり」や「B級グルメでまちづくり」が盛んになっているという事情もある。そこには、あいかわらず、「成長」「拡大」を夢見ている傾向もあって、玉石混交なのだが。
それはともかく、リノベーションやリニューアルには、対象に永続性や継続性を発見し生かすという作業がつきまとう。「新しさ」「古さ」に価値の基準があるのではなく、永続性や継続性に価値を発見し、手を加える創造といえるか。
『みんなの大衆めし』も、古臭い貧乏臭いとみられていた、大衆食堂のめしや惣菜屋の惣菜に、「古い」か「新しい」かではなく、「あったかい。くつろぐ。力がわく。飽きがこない」といった永続性ないし継続性に価値を見出し、瀬尾幸子さんなりの料理の仕方で新しくとらえなおしたもので、これは一つのリニューアルといえる。これまでの「家庭」をこえるような表面上の目新しさはない。だけど、リニューアルされている。その象徴を、「紅しょうがと魚肉ソーセージの天ぷら」に見出すことができる。
もともと、魚肉ソーセージが盛んに食べられていた1970年以前だって、メーカーの宣伝以外に、料理の先生方の出版物で、ギョニソやサケ缶などの加工食品が料理の素材になることはなかった。
食品や料理についていうと、大きな問題が一つある。それは優劣観にしばられ、「うまいものはうまい」とする考えが、まだ未熟であることだ。とりわけ、生モノ信仰や生モノ信仰に連動する産地信仰は根強い。
その背景は、『汁かけめし快食學』などに何度も書いているが、日本に特殊な「日本料理」の構造であり、そこにある価値観だ。プロの「日本料理」が上であり権威で、「家庭料理」はシロウト料理で劣っていて下という価値観。
その価値観の奇妙奇天烈を、江原恵さんは、1974年の『庖丁文化論』で指摘している。「料亭の板前が、大衆食堂の丼物やうどんそばの類を指して、『あんなものは料理のうちに入らないよ』と、よく言ったりするのは、そういう価値観を端的に裏付ける言葉である」「大衆食堂の料理人が研鑽の末、飯の炊き方をも含めて独特の味を出すまでに熟達していても、自分と同列の料理人とは認めない。そしてふしぎなことに、世間もそれを是認しているのだ」
生モノ信仰や産地信仰は、料亭の板前の価値観がもたらしたものだが、この構造の奇妙奇天烈は、「ふしぎなことに、世間もそれを是認しているのだ」ということにある。
自分たちが日々食べているものに誇りが持てないどころか、こんなもの「料理」じゃないと卑下するのである。ギョニソなど使った料理は料理じゃないというコンプレックスが存在した。
こういう価値観と構造のなかで、うまいマズイが語られ、大衆食といわれた、カレーライス、ラーメン、そば、うどんなどは、近年、しだいに「普通」であることからはずれ、スペシャリティを競い大衆食から脱落していったものが多い。まだまだ「普通」を楽しめないコンプレックスな味覚の大衆は少なからずいる。
が、しかし、瀬尾さんの料理本もそうであるし、このあいだの経堂さばの湯の「ギョニソナイト」でも感じたことだが、そのように世間に広く存在したコンプレックスは、根強いには根強いが、とくに若い層を中心になくなりつつあるようだ。
前にも書いたように、ギョニソを素直にみれば、安く、そのままでも料理素材としても使い勝手のよい、よい食品なのだ。原材料や生産販売コスト、さまざまな面からみても、継続性の強い食品なのだ。そこは、もっと普通に評価されてよいはずだ。
ブログ検索をしたら、浜田信郎さんの居酒屋礼讃の比較的新しいエントリに、「〔この一品〕 渋谷「とりすみ」の魚肉ソーセージエッグ」というのがあった…クリック地獄
ザ大衆食のサイトの「したたかな魚肉ソーセージ」にもリンクいただいているが、居酒屋の人気メニューにもなり、愛されている状態は、これからの「価値創造」の希望だと思う。
「新しさ」「古さ」ではなく、現在の永続性や継続性を評価する。身近なところに価値を発見し育てる。これからの「価値創造」に欠かせないだろう。