生活のニオイ。
小沢昭一さんの『ぼくの浅草案内』(ちくま文庫)に、ひさご通りの米久が載っている。ここは、いまでは観光名所で「大衆店」とは言い難いが、かつては日常の「大衆店」だった。
小沢さんは、「高村光太郎の詩集『道程以後』の中の「米久の晩餐」は有名」と引用する。だけど『道程以後』は持っていないので、小沢さんの引用から、さらに省略しながら引用する。
「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ……/顔とシャッポと鉢巻と裸と怒号と喧騒と、/麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、/こげつく牛鍋とぼろぼろな南京米……ぎっしり並べた鍋台の前を/この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして/正直まつとうの食欲とおしゃべりとに今歓楽をつくす群集、/まるで魂の銭湯のやうに/自分の心を平気でまる裸にする群集、/……のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群集……まつ黒になつてはたらかねばならなぬ明日を忘れて/……自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群集、/……」
この引用のあと、小沢さんは、こう書く。「老舗の情緒に風流めいた詩情を寄せるのではなく、牛丼の吉野家であり、つけ麺大王であるような、新興の大衆料理店に「美」を発見してうたいあげた高村光太郎の詩心に、ただただ脱帽のほかはない。どうも、浅草という街の本質は、実はこの詩にあるような気がして、少し長く引用した次第。」
「牛丼の吉野家であり、つけ麺大王であるような」はともかく、「浅草という街の本質は、実はこの詩にあるような気がして」というのは、たしかだったような気がする。
拙著『汁かけめし快食學』にも書いたと記憶するが。かつては鋳物で有名だった川口の鋳物工場で働く小僧が、めしにソースをかけて食べ、ためた小遣いを持って浅草を楽しんだ。浅草は、そういうところだった。銀座が気どった中流階級の都だとしたら、浅草は気どらない労働者や田舎者の都だったのだ。
高村光太郎の詩の風景は、1970年代になっても、浅草の言問い通り(浅草寺の裏の通り)と雷門通り(雷門の前の通り)のあいだの、まち全体を覆っていたと記憶する。松屋デパートの前あたりの飲食店でも、そういう感じがあった。浅草に限らず東京でも、大衆食堂や大衆酒場を舞台にみれば、ほんの最近まで、こうだったのではないかとおもう。
「下町酒場巡り」や「居酒屋巡り」といったブームなどのなかで、しだいに、その「場」にあった、こうした生活のニオイは消えていった。そして、「粋」だのなんだのと、老舗や下町の情緒に風流めいた詩情をよせたりするひとたちが幅をきかすようになった。なにやら生活のニオイのない、風流人ぶった男たちが、テレビや雑誌や本が提供する風流めいた詩情や自ら幻想する風流に酔うところとなったのである。そんな下町酒場観光名所が増えた。
東京のまちから生活のニオイが次第に薄らいだのは、まちの構造や社会の変化もあるが、そこで生きる人間の生活のニオイが薄らいでいったことも関係するのではないかと、フトおもった。
フトおもったとき、柳沢きみおという漫画家が描いた漫画を思い出した。漫画の題名は、覚えていない。ひとつの漫画ではなかったかもしれない。そこに登場する男や女、そしてまちを見たとき、あまりのニオイのなさに、違和感を覚えた。その記憶が残っている。たしか80年代以後のことだろう。その「絵」は、あきらかに「下町」ではなかったが、東京のまちは、そのようになっていたか、なりつつあった。
「粋」だの「人情」だのといった絵空事を求めて「下町」の大衆食堂や大衆酒場へ繰り出す動きは、失われた「生活のニオイ」の絵空事を買い求めてのことなのかも知れない。
だとしたら、しかし、なぜ、買い求めるだけでなく、自分自身の生活の中に生活のニオイを発見し大切にしようとしないのだろうか。
それには、それなりの「事情」があるわけだ。
とにかく。浅草についていえば、おれはニュー浅草本店をよく利用してきた。凡庸な酒場である。が、ここへ行くと、1960年代におれが感じた、そして高村光太郎が詩にした「群集」の生活のニオイが残留しているようにおもうのだ。まだ、そういうところは、ほかにもあるが。
「自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群集」のひとりになるのは、難しいことなのだろうか。
ってことで、では、お時間のある方は、上々颱風「メトロに乗って浅草へ」
http://www.youtube.com/watch?v=w_bJOzC2C3o&feature=related
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