制度化された思考や嗜好や表現や味覚のなかで。喝采!MOKU MOKU night@路地と人。
「グルメ視点スペック論法では語れない居酒屋メニューのすばらしさ」を書いて欲しい、という依頼があった。いまどき、こういう依頼をする編集者は、めずらしい。珍しく、すばらしいことだと思う。
たいがいは、「グルメ視点スペック論法」でナケレバナラナイのが、こんにちの編集の「制度」なのであり、そういう制度のなかでは、おれのように「グルメ視点スペック論法では語れない」ことばかり書いているライターには、仕事の場があまりないのが実態だ。
「グルメ視点スペック論法」にかなった飲食店や料理などに、人びとが集中する背景には、そのセンで制度化された思考や嗜好や表現や味覚がある。それは、いまさら指摘するまでもなく、味覚に関しては、1980年代後半からの「グルメ・ブーム」から始まり、90年代以後のB級グルメ・ブームを経て、広く強固に定着した、かのように見える。
最近、マスコミが騒いでいる「地検改ざん疑惑」なるものがある。その報道を読むと、味覚が制度化された背景と同じものが存在していることがわかる。
ヨミウリに比べ、この報道では一歩先んじていたアサヒが「特集」まで組んで熱心のようだが、その最近の報道に、「「見立てに合わぬ供述 通じない」 特捜捜査、経験者語る」という記事や、「最高検の調べなどに前田検事は、「このFDの最終更新日時の件を上司に報告したら、村木氏を逮捕するために必要な決裁が通らないと思った。特に、捜査現場にまで直接問い合わせてくる大阪高検の幹部が怖かった」という趣旨の供述をしているという」という記事がある。
http://www.asahi.com/special/kaizangiwaku/
いずれの記事も、もともと検事が「リーク」する情報に飛びついて、大げさに騒ぎたて一緒になって「有罪」をつくりあげてきた新聞社のことだから、すぐには信用ならないのだが、現在の官僚組織との付き合いや、その末端である役所の役人の言動などから、想像のつくことではある。
「見立てに合わぬ供述 通じない」状況は、グルメな世間には大いにある。そもそも、「自分の見立てに合わぬ」味覚は、たいがい切り捨てである。バツ印であり、ダメであり、ともすると下品だのと、それが、なぜ、そこに、そのように存在するかすら考えない。
そして、グルメな編集者の「見立てに合わぬ」記述をするライターは採用されることはないし、飲食店や料理にしても、そうである。
なぜ、そのようなことが存在するかというと、根本的に他者を把握し理解することにヨワイうえに、「怖い」制度があるからだろう。味覚における、こうした制度は、官僚組織の怖さより、非物質的であり、精神的であり、文化的であり、無自覚的であり、ゆえにかなり深刻だと思う。
編集者やライターが、この制度を無視することは、つくった本や雑誌が売れない可能性を意味し、自分の地位の不安定化を意味する。読者にとっては、もっと深刻である。というのも、グルメな世間から仲間はずれになる可能性があるからだ。一緒に楽しむ仲間を失う怖さを、ふつうは耐えられない。おなじ花を見て美しいといった、こころとこころが通わない怖さにおびえる。
このグルメな制度には、長年にわたる活字文化と文芸の権威の支配が関係するのだが、いまは、そのことはおいておこう。
「見立て」というのは、何にたいしてもあることだが、しょせん「仮説」にすぎない。それが「怖さ」をともなって、制度のなかで「絶対化」する。思考や嗜好や表現や味覚といった、ほんらい最も自由であるべきことも、誰かさんの「見立て」が絶対的な制度になるのである。制度化の究極の結果は、誰かさんの情報がなければ、よいかどうかの判断に自信を持てない、「感じられない」状態だろう。
先日、電車のなかで、いまどきハヤリの一眼デジカメをぶらさげた、20歳代中頃と思われる女子2人が話し合っていた。一人が写真の本を広げて、もう一人に言ったことは、こうだ。「この写真、ゼッタイ間違っている。こんな撮り方しちゃ、いけないんだよ、おかしいよ」…だってね、○○さんは…、と、彼女はおれの知らないガイコクジンの、おそらく写真家かアーチストのたぐいらしい名前をあげ、とうとうとシャベルのだった。間違っている写真の存在を信じる彼女は、味覚についても同様の思考をするにちがいない。
ちかごろは、あちらこちらでアートやアートがらみのイベントが盛んである。しかし、数の割には、退屈が多いように思う。もう、見るまえ、読むまえから想像できちゃうことが少なくない。なんてのかな、その告知を見ただけで、その精神が制度によって形骸化しているのを感じるのだ。それも、しょせん自分たち内輪の仲間の制度のなかの満足で、異質の人たちや外へ向かっての視線も感じられない。
そのように退屈し切っているところに、退屈な眠りをぶっとばすような案内があった。
刺激的な活動を展開する「路地と人」がやってくれる。
当のブログから引用する。
http://rojitohito.exblog.jp/11329923/
MOKU MOKU night★は 煙草を愛するひとのための夜です。
路地での喫煙がきびしく取り締まられ、煙草が値上がりする2010年10月1日。
それでも煙草がすきなあなたに。
もくもくとのぼる煙とおしゃべりのすきなあなたに。
わたし吸わないけど、煙草を吸う仕草ってすきよ、のあなたに。
ヘビースモーカーも、チェーンスモーカーも、そうでないひとも
お好きな煙草を持ってお立ち寄りください。
特製ライターもあります。
煙草の似合う音楽もあります。
スモーク料理もあります。
煙草のある風景、路地と人。
MOKU MOKU night★
ところでおれは、「グルメ視点スペック論法では語れない居酒屋メニューのすばらしさ」をうまく書けるだろうか。
ともあれ、長く続いている閉塞は、ある種の制度の疲弊であり、その泥沼から脱するには、もっと大胆に既存の制度の外側に見落としていたことに目を向ける必要がありそうだし、そうする人たちも増えてきているように感じる。
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