はあ、どうして年末ってアワタダシイのかなあ。そんなこと、来月でいいじゃないかと思っても、来月は来年だから、年内に片付けたいという感じの動きが、とくにいまごろになると加速するようだ。年内にアナタとシッポリしたいわ、なーんてアマイ話はないわけで、がさついた話ばかり。これもある種の「集団心理」か。でも、もう、年末進行がからむ年内のヤマは、今週で終わるだろう。
味噌汁ぶっかけめしの原稿は、編集さんのOKも出て、無事に終了。1月6日発売の『d a n c y u』2月号です。
『d a n c y u』もちろん、「グルメ」系というのか「食べる」系専門誌には、おれは初登場かもしれない。考えてみれば、おれは知的経歴からいっても「食系」にはツヨイはずなのだが、おかしいなあ。
おれは「食事」の「空間論」に、やや傾斜して興味があることは、たしかで、その関係で「まち」系メディアが自分でも好きだということはあるが。それに「趣味人」ではないし、「グルメ」系ではないし、いってみれば地味な「生活」系だけんね。「生活」でも、中流意識消費アホクサの、ビンボーくさい「大衆」系だけんね。それに「文芸」だの「文学」だのクソクラエの偏屈者のウンコモノの嫌われものだしね。
ああ、孤独だなあ。これが「孤高」なら、まだかっこいいかもしれないが、「孤低」だからなあ。しかし、初めての『d a n c y u』の原稿だって、ちゃんと一発OKで書けちゃうのだ。その実力のほどは、まいどのことながら自信満々自画自賛のできばえ、ま、買ってみてちょうだい。
そりゃそうと、「文芸」だの「文学」だのクソクラエだのとやっていると、やっぱりあまり本なんぞ読まないから、読まないことのプラスもあるけど、マイナスもあるわけで。
チョイとほかに、味噌汁ぶっかけめしとはちがう、「汁かけめし」がらみの仕事が企画段階であって、あれこれ資料を見ているなかに、山本容朗さん編の『日々好食』があった。これ、このあいだわめぞの「みちくさ市」で買ったのではないかと思うのだが、誰から買ったのだろう。
いろいろな作家が食べ物について書いた掌編を編んだもの。そのなかに、戸板康二さんの「米の飯」があって、「カツのっかり」の話がある。それを読んで、アッと思った。
「カツのっかり」は「三田通りにむかしあった洋食屋の加藤」の名物であり、池田弥三郎さんの『私の食物誌』の「のっかり」にある、「三田の「かとう」という店では、カツライスの「のっかり」というのが名物だった」と、おなじカツライスのことだ。
だけど、お2人の関心は、かなりちがうし、もちろん書いていることもちがう。アッと思ったのは、そこだ。
おれが『汁かけめし快食學』を書いたときは、池田さんの本しか知らなかったから、そこから引用している。池田さんの文章は、こうだ。
「ライスの上に、カツレツが、そえものの野菜といっしょに、のっかっているカツライスだった。カツレツには、すでにホーク(エンテツ注=たぶん「ナイフ」の間違い)がいれてあって、それに上からソースをぶっかけてたべる、すこぶる乱暴な学生式のものだが、ころもがあつくて肉とはなればなれになってしまうような、近ごろの学生街のカツレツとは、さすがに違っていた。」
一方、戸板さんのは、こう。
「三田通りにむかしからあった洋食屋の加藤では、「カツのっかり」というのが名物であった。カツを飯にのせて持って来るのである。ナイフを入れてあって、ソースを上からかけると、カツの間からそれが飯に沁みていった」
この件に関して。戸板さんと同じような視線で、林真理子さんが『食べるたびに、哀しくって…』の「カツ丼」に書いている。これも、『汁かけめし快食學』に引用した。
林さんは山梨の出身で、山梨で「カツ丼」といえば、いわゆる「ソース・カツ丼」だ。「カツのっかり」の器を、丼にしたようなものである。そのカツ丼について、林さんは、こう書いている。
「これはそうあたりはずれがない。ソースの量は多すぎても困るが、少し余分にかけておくと、カツを通過したソースは旨味を帯びて飯粒にしみ込んでいく。」
池田さんのは、どちらかといえば「食通評論家」的な視線を感じる。戸板さんや林さんのは、なんというのだろう、食べることへの素朴な執着というか楽しみ、つまり「生活」的な視線といえるだろう。
とくに、「ソースを上からかけると、カツの間からそれが飯に沁みていった」や「カツを通過したソースは旨味を帯びて飯粒にしみ込んでいく」という観察には、グルメ的な知識とはちがう体験的な「生活」を感じる。
もし、『汁かけめし快食學』を書いたときに戸板さんの本を読んでいたら、池田さんの文章ではなく、こちらを引用したにちがいない。
そもそも、戸板さんは、こう書いている。
……………
ライスカレーをはじめ、上にものをかけて食べる米の食べ方を、ぼくは一番、身になる食べ方のような気がしている。ぼくは、高級レストランで食べるビーフシチューを飯にかけたい誘惑に、しばしば襲われるのである。
三田通りにむかしからあった洋食屋の加藤では、「カツのっかり」というのが名物であった。カツを飯にのせて持って来るのである。ナイフを入れてあって、ソースを上からかけると、カツの間からそれが飯に沁みていった。
ハヤシライスにしても、のっかりにしても、カレー同様、飯をじかに自分の身につける気のする食べ物である。むろん、その米が、よく炊けていたら申し分はない。
……………
池田さんが、のっかりを「すこぶる乱暴な学生式」と断じ、カツのころもを問題にしているのとは、かなりちがう。
「身になる食べ方」「むろん、その米が、よく炊けていたら申し分はない」、これはグルメや評論ではなく、生活の表現だろう。
それに、「汁かけめし」という言葉は使っていないが、概念としては「上にものをかけて食べる米の食べ方」であり、つまり「汁かけめし」の話なのだ。生活からすれば、ライスカレーもハヤシライスも、のっかりも、おなじ食べ方の料理なのだと読める。
戸板康二、1915年生まれ。池田弥三郎、1914年生まれ。ともに慶応大で折口信夫に師事。
林真理子、1954年生まれ。