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2011/01/31

これが、『ミーツ・リージョナル』3月号「エンテツ・衣有子の天満のぞき」だ。

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さてそれでは、きのうに続いて、明日2月1日発売の『ミーツ・リージョナル』3月号だ。ミーツならではの雑誌づくりが天満を舞台に爆発、雑誌のおもしろさがタップリ楽しめる。今回は、とくに「天満」という素材が、そもそも雑誌的な街でもあり、のりにのるおもしろさ。

「エンテツ・衣有子の天満のぞき」は、4ページにわたる。

構成=藤本和剛編集さん、写真とデザインは、きのう紹介した表紙の写真=エレファント・タカさんにデザイン=津村正二さん。いやあ、構成、写真、デザインが、こころにくいほど、よいですね。ここに掲載する写真の感じからも伝わるのではないかな、ワクワクする天満の街を、こんな風に、ふらふらしてみたくなるでしょう。

タイトルの肩書に、「大衆食堂の詩人と「大阪のぞき」著者が歩く」とある。最初の見開きは主に写真で構成。次の見開きに、木村さんとおれの文章がある。

2010/04/11「木村衣有子の文・写真『大阪のぞき』、京阪神エルマガジン社から。」に紹介したが、『大阪のぞき』の巻末で、著者の木村さんとおれは対談している。これは、飲みながらシャベリ散らかしたことを、村瀬編集さんがうまくまとめてくれた。

今回は、一緒に歩くが、それぞれで書くのだ。こういうことは初めてである。やはり、木村さんは、どう書くのかなあと気になるし、木村さんも、おれがどう書くのか気になっていたらしい。取材当日、午後2時の天満駅の待ち合わせに、木村さんもおれも早くついたので、チョイと近くの喫茶店で話し、おれは時系列に書くことになった。よくブログで、一日のことを時系列に書いている、その調子で。ということだったのだが、これが、やってみると、けっこう難しかった。いい勉強になった。

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それはともかく、おれは
「市場のなかの街、街のなかの市場。」のタイトル。

木村さんは
「「わざわざ」の似合わない街に
わざわざ飲みに来た私。」のタイトル。

ほら、タイトルからして、かなり違うでしょう。もっとも、おれの場合、ブログではよくあるように、タイトルと中身は、あまり関係ないのだけど。ともあれ、違うところは大いに違い、それでいて共通点がある。そこもおもしろい。エロっぽい2人のことゆえ、男と女の話もからんで。

また、このページの写真が、セレクトも含めて、よいのです。

まあご覧なってください。首都圏でも置いてある「大」書店があります。関西出身のジュンク堂は、大宮店でも販売している。

こちら、京阪神エルマガジン社のサイトで「立ち読み」できます。
http://lmaga.jp/meets/1103/index.html

きょうは、なんだか気ぜわしい、電話も多いし、アレコレある日だ。ほかに、早く発表したい大事なことがあるのだけど、明日にします。明日、必ず、見てください。「雲のうえ」のファンクラブに関する件です。

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2011/01/30

見よ!これが『ミーツ・リージョナル』3月号「天満特集」の表紙だ。

003前のエントリーをアップしたあと、きょう一日のけじめをつける晩餐の買出しに行こうと郵便受けを見たら、ミーツが届いていた。

なんと格好いい表紙。まさに、これが天満だ!の、市場街感あふれるエキサイティングなデザインは、津村正二さん。そして、よだれが出る写真は、エレファント・タカさん。もう、コーフン。

とりあえず表紙の写真を掲載。前のエントリーを、ご覧ください。あとは、明日のオタノシミ。

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頭の中は、天満と大衆めしなパラダイス。

084とにかく、そういうわけで、といってもわからないだろうが、「大衆食堂本」という言い方はイマイチ勢いに欠けるから、「大衆めし本」ってことにするが(『大衆食堂の研究』、ぶっかけめし本2冊、『みんなの大衆めし』に続いて5弾目!ということにしておこう)、これに取り掛かって没頭している。

没頭しすぎで、酒を忘れてしまいそう。これは、出来上がるのが、いまから、まだ原稿も揃ってないうちに、発行が楽しみな内容だ。なにしろ、大衆食堂の本は、1995年に『大衆食堂の研究』を出して以来だものね。「満を持して」というのは、こういうことを言うのだろうな。

087そして、2月1日の、『ミーツ・リージョナル』3月号「天満特集」の発売が近づいてきた。これがまた楽しみだね。木村衣有子さんとの「エンテツ・衣有子の天満のぞき」も楽しみなのはもちろん、この天満という街自体がおもしろいし、ミーツの編集力が、さらに天満をおもしろくしてくれるに違いないと、楽しみなのだ。

おれが、『ミーツ・リージョナル』に初めて登場したのは、08年9月1日発売の10月号「ザ・めし」特集だった。ミーツも京阪神エルマガジン社の仕事も、これが初めてだった。大阪は西区堀江の「成金屋食堂」を取材し、特集大扉を飾るコラムを書かせてもらった。この時の担当が、藤本編集さんだった。そして、なんと、この号は、早々に「品切」になるほど売れたのだった。今回の「エンテツ・衣有子の天満のぞき」も、担当は、藤本編集さんだ。ということは、ゲンをかついで、「品切」な売れ行きを期待したくなるわけですね。

099大阪の顔といえば、「キタ」と「ミナミ」だったけど、「テンマ」がある。「キタ」や「ミナミ」は、ジャージにサンダルなどでぶらぶらできない街の顔を持っている、ビジネスや消費の顔の街だけど、テンマは違う。その魅力を、「天満特集」は、たっぷり掘り起こしてくれるはずだ。

どーか、関東のみなさんも、こういう街があるんだと、ご覧ください。この街は、いま、「市場のビル化の成功例として」視察に訪れる人たちも増えているほど、ユニークな注目を浴びつつある。「街とは何か」「街の生命力とは何か」などを、感じとり考えるためにも役立つだろう。しばらく行けなくても、いつか天満へ行くために、買っておくのもよいでしょう。

なことで、頭の中は、天満と大衆めしでパラダイスしているのだ。

ザ大衆食「『ミーツ・リージョナル』10月号「ザ・めし」特集 大阪・西区南堀江 成金屋食堂」…クリック地獄

写真は、ぜんぶ天満。細い路地の奥まで歩いて泥酔取材した。

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2011/01/29

一日のけじめ。

きのうは、午前中に片付けなくてはならない校正などがあって、朝からバタバタとやり、昼近くには終わって、デレデレ飲み始めた。飲んでは寝たりしているうちに夕方になった。

なぜだか、「一日のけじめ」ということが思い浮かんだ。たしか藤沢周平さんの小説にあったのだとおもうが、登場人物の商人か職人が、「一日のけじめ」として酒を飲みめしをくう場面があった。藤沢さんの小説の飲食は、そういう場面が、けっこう多いのではないか。と思った。

たいがい、「晩酌」というのは、一日のけじめとして飲むものだった。キョウノワザヲナシオエテ、一日のけじめをつけるのだ。晩酌して晩飯食べて、これで一日のけじめがつく。それが、いってみれば、生活の中の飲食だろう。いわゆる道楽や趣味とは違うものだ。

行きつけの酒場や食堂に寄って、いつもの場所に座って、一杯やってめしをくう。あるいは、いつもの自分の住まいの、いつもの食卓で、一杯やってめしをくう。これが一日の区切りになる。

だから、昼酒をくらっていても、夕方になると、サテきょうの晩飯は、なにをどう食べようかと考えるわけだ。どんなにデレデレ飲みをしていても、夕方から夜には、イチオウ一日のけじめをつけなくてはならない。そこに、貧しいながらも晩餐の意義がある。ってことなんだな。

料理や飲食は、そういう生活の中のものである。生活が違えば、けじめのつけ方も違うだろう。そこでの、酒や料理も、それにそうものであることが大事で、それぞれにとってそうものであれば、それでよい。そうものであれば、べつに厳選物じゃなくても、スーパーで一番安い納豆や豆腐だって、うまく飲食できるのだ。

しかし、なんだか、生活のけじめの飲食は、忘れられる傾向もある。なにやかにや道楽的趣味的にウルサイことになって、どこそこのナニナニを食べたとか、ナニナニはどこそこが一番とかいったことになっている。

けじめをつけに入った大衆酒場で、となりの男が、純米酒が揃っている飲み屋は料理もうまいなんていいやがって。そんなこたあねえよ、といってやろうと思ったが、黙っていた。こういうバカヤロウと口をきくと、一日のけじめの酒がまずくなるからな。

おれは、そのときは、普通酒の燗酒だった。それで十分、一日のけじめになるのだ。それぞれが、サイフの都合もあろうし、好きなようにすればよいのだ。いちばん大事なことは、それで、きょうのけじめをつけて明日に向かう、ということだ。それでこそ、「消費」という行為が、明日の「生産」や「創造」につながる。

もっとも、ただ酔うために飲む酒もあって、これはこれで楽しいね。でれでれずるずる飲んで、けじめがなくなることもあるけど、これはこれで楽しいね。それから、きき酒会のように飲む酒も、ないことはなく、これはこれで楽しい。ようするに、楽しめればよいのだし、生きていく上では、それが一番大事なのだから、飲食店が宣伝のために能書きをいうのは仕方ないにしても、それだってたいがいにしないと嫌われることもあるし、飲食のことでウルサイことはいわないでちょうだいよ。それぞれが、それぞれに、楽しめばよいのだから。

最後の写真は、東大宮駅西口そばの酒場「末広」。駅ホームから撮った。いかにも、一日のけじめをつけに、男たちが寄る酒場のように見える。よい評判を聞いていて、気になるのだが、まだ一度も入ったことがない。

2階にあった、フィリピンパブやフィリピーナ御用達だった食材料やファッションの販売店は撤退し、新しく居酒屋ができた。1階、左隣も居酒屋だし、その左側正面には「鉄砲屋」があるし、この酒場の右側にはチェーン居酒屋があるし、この前の道を右へ行けば「昭和酒場コタツ」になるが、そこに至る前にも数軒の居酒屋がある。なかなかの激戦地。

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2011/01/27

食堂本打ち合わせのち酒つまトリオと浅草橋西口やきとん、泥酔帰宅。

きのうは、15時半から蔵前にある出版社で、編集さんと食堂本の打ち合わせ。いまどき本を出してもらえるだけでも有り難いのに、3年間ほったらかし寝かせてしまった企画。おかげで、というとおかしいが、なかなかよい構成が固まった。やはり少し寝かせたほうが、よいものができる。ナンチャッテいいながら、4時半ごろおわる。

こんどは、このまま一気に仕上げよう。という決意を固めるため、ということじゃないが、ここまで来たらやはり寄って飲みに誘いたい、浅草橋にある酒とつまみ社へ。

4階まで階段を歩いて登らなくてはならない難関を、息をゼーゼーいわせたどりついてみると、なんと珍しいことにシャチョーのなべちゃん、創刊編集長の大竹さん、フィリピーナ研究写真家のさいカメさんのトリオが、揃っているではないか。ほんと、こんなことは珍しい。

なにやら、ちょうど制作進行中の「酒とつまみ」14号の撮影かなにかのあとだそうで、みなさんいたのだ。14号は、もしかすると4月ぐらいには出そうな勢いらしい。でもまあ、これからがわからないのだけどね。いやいや、がんばって年2回ペースにしてほしい。来週は、おれが永世ゲストの南陀楼綾繁さんの古本屋発居酒屋行きの取材がある。みんな、酒飲んでいないで、早く原稿書けよ~。

すでに机の上には、口のあいたマッコリがあり、さらに清酒の4合びんを一本あけ、勢いをつけ西口やきとんへ。この顔ぶれで揃って飲むのは、何年ぶりだろう。大竹さんは行くところがあって退出したあとも、だいぶ飲んだ。泥酔論もしくは居酒屋エンテツのおもしろいアイデアも出て、ようするに泥酔帰宅。

西口やきとんは、あいかわらずにぎわっていたが、日曜日も営業するようになったらしい。それにしても、浅草橋駅と蔵前のあいだに並んでいるおもちゃ問屋は、おもしろい。夜の神田川も、いい情緒だねえ。

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2011/01/26

もっと大衆食堂へ。

001依頼があって、ある本に寄稿した。たしか、3月か4月の発行だと思う。おれの原稿は、「もっと大衆食堂へ」のタイトル。4ページにわたる。

校正が送られてきた。全体の構成は企画書を見ただけで、詳しいことはわからないから、まだ紹介できない。とにかく、ある映画の公開にあわせて刊行される本なのである。と書けば、情報通の人は見当がつくだろう。

初めての編集プロダクションからの依頼で、この年末年始は忙しかったこともあり、関係者とはまったく会うこともなく書いた。ま、企画の趣旨と意図は明確だったし、デザインのサンプルもいただいたので、書きやすくはあった。この4ページだけの判断では、なかなかよい感じだ。おれの原稿は、もちろんよい。この本にピッタリ。

ことしは、大衆食堂が少しは話題になるかもしれない。おれの大衆食堂本も、きょうが打ち合わせだ。あれこれこねくりまわした甲斐があって、なかなかよい構成案が生れつつある。

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2011/01/25

大阪・天神橋筋の「赤ちゃん」と「いづみや」に、小倉と大宮を思い出す。

062各地に似た名前の店がある。名前は似ていても、まるで違う感じの場合は、あまり気にならない。ところが、なんとなく、どこといえないけれど、もしかしたら何か関係があるのではないかと思うことがある。まるで違うのだけど、何か、どこか深いところで、何か、共通性がありそうである、という感じで気になるのだ。

ってことで、またもや、2月1日発売『ミーツ・リージョナル』3月号「天満特集」の取材からのネタ。大阪ネタで引っ張ります。おれもしつこいねえ。しつこいけど、ストーカーにはならないよ。相手がふりむいてくれなければ、さっさとあきらめる。相手にされないものを相手にしていても、一人相撲ってやつだ。しかし、今回の、この2店は、なぜか気になった。なんか、おれに話しかけている感じだった。

最初の写真は、天神橋筋商店街の4番街。天神橋筋商店街は、北の6丁目から南に下るにしたがい、番号が小さくなっていく。この写真の左角には、2011/01/21「大阪で増殖中という「キャベツ焼」の店。」に載せた「キャベツ焼」の店がある。その「キャベツ焼」の店を掲載したときは、この写真があるのに気がつかなかった。

こんなぐあいに、客席を道路にはみ出してビニールで覆ってしまうなんて、大阪じゃ珍しくないが、そう多いわけじゃないが、大阪らしいと思う。東京は、もっと、こんなぐあいにガンバッテよいと思う。

140で、この通りに、4番街か3番街か記憶が定かではないが、洋食の「赤ちゃん」と「いづみや」があった。

おれは、「赤ちゃん」の店頭で、北九州は小倉の鳥町飲食街の「赤ちゃん」を思い出した。ただ洋食つながりというだけだったが、洋食と「赤ちゃん」、なにか関係があるのかと気になった。「赤ちゃん」という店名は、洋食だからこそ似合うのではないかと思った。洋食店が「赤ちゃん」という名前を選ぶには、何か共通の精神性があるのではないかと気になった。そこで、写真を撮っておいた。

122「いづみや」のほうは、なんだか、暖簾の文字から大宮の「いづみや」を思い出してしまった。チョイと気どった店構えだが、サンプルショーケースを見ると、焼肉定食やら、うどんや丼物もちろん、ざるそばもあるのだ。値段からしても、どう見ても、「日本料理店」系ではなく、大衆食堂の流れにちがいない。値段も、そうである。まったく根拠はないのだが、大宮の「いづみや」と何か関係があるかも知れんなあと思った。大宮のいづみやが建て替えると、こうはなってほしくないが、こんな感じになるのかも知れないなあと想像した。

そんなことが、あるものだ。

北九州は小倉の鳥町飲食街と「赤ちゃん」の写真も掲載する。

大宮のいづみやは、こちらザ大衆食のページをご覧あそべ。やはり、ロゴの雰囲気が似ている。…クリック地獄

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2011/01/24

「旅人文化ブログなんでも版」デビュー。

2011/01/20「悪党たちの飲みーティング。旅人文化振興会が動き出す。」に書いたように、旅人文化振興会が動き出す。

その一歩かどうか、おれはマイナス5歩ぐらいからのスタートかも知れない。今日、右サイドバーのリンクにある、「旅人文化ブログなんでも版」のアカウントを、女将のまりりんさんからもらい、デビューした。

題して、「はじめまして。コンニチハだけが人生だ。」
http://blog.tabibito-bunka.com/?eid=938456

これから、このブログだけではなく、「旅人文化ブログなんでも版」も、よろしく~。旅人文化のほうは毎日は書けないから、書いたときは、こちらにも告知します。よろしくね。旅人はいいよね、旅人になろうね。酔っ払いというのも、一種の旅人だよね。旅人は大衆食堂だよね。
http://blog.tabibito-bunka.com/

ああ、酔った。

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2011/01/23

「下町」とは、について考えた。

きのうの続きだ。JR京都線(東海道本線)は大阪駅を出ると、ほぼ真北へ向かう。その西側の高架沿いを歩いた。先へ行って、大きな道路があったら、右へ曲がり、また大きな道路があったら右へ曲がれば、最初の目的である、大阪から環状線で一つ東の駅である天満に出るだろうと見当がついていたからだ。大阪の道路は、ほぼ碁盤目状だから、不案内の場所でも地図を持たずに歩ける。

やはり、東西に走る道路に出た。右へ曲がる。高架下をくぐる。高架下というのは、独特の空気感がある。トンネルをぬけるときのような期待感によるものかもしれない。

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少し行くと、右に曲がる細い通りがあった。なんとなくのぞき、「おおっ、下町の景色」と、思った景色があった。どっしりした造りの黒塗りの長屋。東京の下町へ行っても、これだけの長屋は残っているだろうか。思い出せない。なんとよい雰囲気の路地だろう。

このときおれが思った「下町」は、浅草・上野あたりから日本橋・人形町・銀座にかけてだった。ようするに地下鉄銀座線で浅草から銀座の地域ということになる。かつてそのあたりには、こういう景色があった。

ところで、ここは「下町」と呼んでよいのだろうか。大阪に来ると、どこも下町のように見えるが、このように、下町独特の長屋造りのためではない。ようするに「キタ」の一部を除き、庶民的な生活臭が漂っていて、その空気感を「下町」と呼んでいるようだ。いま東京で「下町」というばあいも、そうであるようだ。ちかごろ東京では「東」という言い方が増えている感じもする。

いま「下町を、どう定義すればよいか」って考えたとき。「庭のない小さな単独の住居が連なり、家の前には植木鉢があるところ」。「庭のない小さな単独の住居が連なり」の、究極は「長屋」になる。

この長屋の前にも、植木鉢があった。

だけど、「下町」というには、「面」が崩れている。すぐ向こうには、タワー的高層マンションがそびえ、工事中のクレーンの頭が見えていた。

マンションは長屋を上に積み重ねたものと見ることはできるが、長屋とは大いに違う。まず大きな違いは「上下」関係があることだろう。上の階と下の階は、お隣さん同士になれない。それから、自分の住まいの前に植木鉢を飾ることもできない。

135そんなことを考えながら写真を撮り、ふりかえって、大きな通りの反対側を見たら、どこにでもありそうな景色のなかに中華食堂があった。その中華食堂に、ちょっとだけ大阪を感じ、さらに歩いた。

やはり、大きな通りに出たので、右へ曲がる。新しいマンションが多い。少し歩くと、見覚えのある景色があった。天五中崎通商店街だ。ここは来たことがある。

ここを行くと、天神橋筋の商店街になるのだが、そのちょっと手前に「うまい屋」がある。前に一度来たことがあり、そのとき、この天五中崎通商店街の中崎側の入口まで歩いた。

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うまい屋は、たこ焼で有名な店だ。東京の池袋で、日本コナモン協会の設立イベントがあったとき、招かれたうまい屋さん父子が、その会場で焼いた。おれが、うまい屋さんのたこ焼を食べたのは、それが初めてだった。

そうそう、その時の様子は、こちらザ大衆食にあります。03年5月7日のことだね。よろしければ、ご覧あそべ。…クリック地獄

ここで、たこ焼とうまい屋についてウンチクをかたむけ、「本場大阪の一番うまいたこ焼はね」なーんていう話を書けば、おれも「通」な人間としてエラソウにしていられるかもしれないが、おれは野暮な悪党だから、そんな恥ずかしいスケベなことはしない。食べ物のうまさに上下関係をつけることは、長屋感覚ではなく、マンション感覚であるといえるか。なんとしても自分がうまいものを知る「上」の階の人間でありたい意識は、ある種の貴族意識であり、悪党にはなじまない。悪党は、ただうまく楽しむことを楽しむだけである。庭がなければ植木鉢を飾る長屋感覚である。植木鉢の花は庭の花のニセモノなんてことはないのだな。

きょうは、ここまで。
このあと、天五中崎通商店街を通りぬけ、もちろんうまい屋の前も通り、天神橋筋商店街に入り、無事に天満駅に着いた。

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2011/01/22

「大阪は橋下のまち」その2。

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まだまだ大阪ネタはつきない。2月1日の『ミーツ・リージョナル』3月号天満特集の発売まで、大阪ネタで引っ張ってみようかと思ってみたり。

じつは、「エンテツ・衣有子の天満のぞき」は、木村衣有子さんの写真が、すごくよい。木村さんの写真といっても、木村さんが撮っているのではなく、写っている写真のことだ。これが、よい。ちょうど髪を短くしていたこともあり、その笑顔が無邪気な少女のように見える。天満の微笑みですよ。おれと一緒の取材だと、こんなにうれしいのかと思ったのは、もちろん大マチガイで、コテでお好み焼を切るのが楽しいのである。やはり、天満の微笑みなのだ。みなさん、是非ご覧になってください。もちろん木村さんの文章も、よいですよ。おれのようにガサツでなく、若い男とおれを登場させながら、シットリ天満に寄り添っています。

さてそれで、きょうの写真は、大阪の高架下のまちだ。2009/05/18「大阪は橋下のまち。」に書いたように、大阪の鉄道は、地下鉄も含め高架である場所が多い。そして、その下は、とてもよい飲みや街が多いようだ。

今回は、夜遅くまで泥酔取材のあと、大阪駅近くのホテルに泊まった。翌日、二日酔いの木村さんを置いて11時ごろチェックアウトした。もう一度天満の地理関係を確認しておこうと、JR環状線で大阪から一駅の天満へ、歩いて向かった。ところが、まちがえて、環状線の北側にある京都線(東海道本線)の北側の道を歩いてしまった。すぐ気がついたのだけど、初めてだし、あまり来る機会がないだろうから、少し行ってみようと歩をすすめた。

このあたりの高架下は、住所は中崎だけどイチオウ「梅田」と呼ばれる地域であるらしいのだが、環状線の北の外側であり、シャッターが降りているところもあって、少しさみしい。

でも、ありました、最初の画像。これはなんだ!という派手な前面。近づいて見たら、「お座敷居酒屋 ぽんと」。いやあ、どういう傾向の居酒屋?と考えてもムダ。この風体で、ようするに、ただの居酒屋なのだ。

その先には、「土手鍋」文字があるチョウチンがぶらさがる、これはよくあるわかりやすい、ようするに、ただの居酒屋である。

131で、その先には、ちょいとヨーロピアンクラシックとでもいえそうな落ち着いたデザインの入口の「バルバラマーケットプレイス」という店。これが、また一目ではよくわからないのだが、よーするに中に入ると、いろいろな西欧風飲食店のコーナーがあるらしい。古くは闇市マーケットのようなものか。以前に少し流行った、広い空間に、いろいろな屋台コーナーを置く店舗があったけど、あれの欧風版らしい。ようするに居酒屋なのだ。

その前あたりでふりかえってみれば、あれに見えるは、阪急デパートそばのHEPファイブの観覧車。ま、東京でいえば、大手町・神田あるいは東京・有楽町あたりに観覧車があるようなもの。

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しかし、神田・東京・有楽町あたりも高架だけど、こういうビジュアルなおもしろさはないね。なんだろうね、この景色。これもまた都会ならではのアナーキーでファンキーな景色とでもいうか。いまやゾーニング統制が強くなっている東京ではありえない。

おなじ環状線の高架下でも、前に行った福島や西九条あたりともちがうようだ。がぜん、高架下のまちに興味がわくのだった。

東京なんぞは、2010/05/22「竹屋食堂、空虚な跡地を撮影。」にあるように、これは私鉄の高架下だが、そこに戦後からあったまちは、まったくあとを残さず消されてしまった。

JRの高架下にしても、かつての猥雑さは次第になくなりつつある。アメ横あたりの高架下なんぞは、いまや新宿駅ビルの人気店ベルクを追い出そうとしているJR傘下の悪徳ビル貸不動産屋が展開する駅ビルとおなじような有様になりつつある。

ようするに、高架下は何か独特の文化を生むところから、単なる消費空間か空き地に制度化されようとしている。

ま、とにかく、こんど大阪へ行ったときは、環状線の高架下を歩いてやろう。

私鉄の高架下では、難波から南へ向かう南海線沿いを、むかし大阪にいたころよく歩いた。新今宮に近づくほど、ホームレスが増え、ゴミとホコリと独特のニオイが混じった風が、びょうびょうとした景色を生んでいた。これはこれで、好きだった。

きょねん、おととしあたりも、行くたびにここを歩いたが、ホームレスは減り、風が運ぶニオイもフツウになったが、難波から新今宮に近づくほど、たいした距離ではないのに、確実に「下層」に向かって歩いている感じがして、たまらなく現実的なのだ。東京の都心には、このようにミもフタもないほど現実的になれるコースはない。

おれは、キレイゴトより、ミもフタもない現実が好きなのだな。

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2011/01/21

大阪で増殖中という「キャベツ焼」の店。

114先日のミーツ・リージョナルの大阪は天満取材のとき、「キャベツ焼」の店を見かけた。

お好み焼屋で取材のあと、つぎの店の取材の前に、腹ごなしもかね、堀川戎へ行こうと、環状線天満駅から天神橋筋商店街を南へ歩いていたら、あったのだ。ミーツの編集さんに聞いたら、いま大阪で増殖中とか。

見たところ、具がキャベツだけのお好み焼という感じだった。むかしからの呼び方なら、「一銭洋食」といったところらしい。

関東なら、どんど焼(あるいは、どんどん焼)になるか。そもそも、お好み焼と一銭洋食とどんどん焼の区別もさだかでない。具の量や種類で決めてよいものかどうか。

先日、埼玉県の行田が有名な、だけど行田でなくても、その近隣にはある「フライ」を食べた。これは、店によってちがいがあるが、おれが食べたのは、ネギらしいものがちょびっと入っているだけで、具といえるほどのものはない。揚げるのではなく、鉄板焼なのに「フライ」。おれの感覚では、どう見ても、どんどん焼だが、一銭洋食のようにソースで食べる。おなじ埼玉県の秩父では、呼び方が「お焼」になって、必ずしもソースを使うとはかぎらない。

料理法的にどう分類するかはともかく、ようするに、小麦粉食のあるところ、このテのものがある。あるにしても、それを、かくもハデに出店する動きは、なにやら昨今の「不況」なるご時勢の反映だろうか。

ど派手な赤い看板の下は、一間ほどの間口。焼いているまわりに6、7人が座れるイスがあって、空きがないほどつぎつぎと人が寄る。もちろん持ち帰りもありだ。

天神橋筋商店街は、大阪どころか、たぶん日本で一番長いアーケード商店街で、人通りも多い。その視線の中で、1個130円のキャベツ焼にかぶりつく人が絶えない。

かっこつけの東京じゃ、人目を気にして、こうはいかないだろう。それに、キャベツ焼一品だけじゃ、いくら安くても、展開は線香花火でおわるんじゃないかなあ、なんて考えて帰ってきた。

で、ネットで調べたら、この店は「キャベ焼グループ」といい、なんと、すでに東京のイトーヨーカ堂曳舟店に出店しているのだ。案内を見ると、「東京スカイツリー景気」に便乗しようというコンタンらしい。オシャレな都心ではなく、はずして曳舟というのも、心憎い。

それに、そばと玉子入りの新商品「キャベそば」250円も売り出している。

http://www.kyabetuyaki.com/about_kyabetsuyaki.html

うーむ、これは、やはり「大阪の商魂」というべきなのだろうか。あくまでも実質的に、安い方から勝負していく姿勢。うーむ。安いとはいえ、時代のオシャレ感覚のファストフードを意識してか、ファッショナブルに食べさせようという、ニクイ攻めも見られる。

それにしても、ど派手な看板。
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2011/01/20

悪党たちの飲みーティング。旅人文化振興会が動き出す。

きのうは、ひさしぶりに、やどやPTの飲みーティングだった。以前、プロジェクトの立ち上げ期のころは、月に1回ぐらいのペースでやっていたが、あるていど軌道に乗ったというか、順調というか、なんというか、とりあえず目標に向かって進んでいた。

そのゲストハウス経営は、きょねん中核的ブランチとなるホステルが完成し、一つの区切り。ま、これでようやっと、ビジネス的にはスタート点に立ったといえるわけで、これから本格的な展開というか、なんというか、新たな動きを生み出す企みのために、飲みーティングが必要になった。というわけだ。

ゲストハウスのほうは、経営基盤の安定化や効果的なオペレーションのために、若干のスクラップあんどビルドが行われたり、ま、いろいろある。それはまあ、実務的にすすむだろう。

企画的な課題としては、これまで、イチオウおれが発起人というか提唱者ということで名称は定め、やどやの女将まりりんがサイトやブログを運営しパーティーなどやっていただけの「旅人文化振興会」を、実態をともなった組織にしていくことで、これが今回の飲みーティングの中心テーマだった。理事の候補、あれこれ。

とはいえ、この飲みーティングは、悪党が酒盛りやりながら、こんどはどこを襲うかの相談や、悪党としての在り方を、越し方をふりかえったりしながら、大いに語り合うようなものである。

そのなかで、これからの展望や、自分のやることを、それぞれが見つける。ま、そんなふうに、これまでもやってきた。あんたは、これをやりなさいとか、これをやるべきだ、というような話はない。

きのうも話題になったが、ボスとおれは、むかしから悪党だったが、最初のころは20歳代だったまりりんは、そうではなく「善人」だった。さらにこの事業のために必要で協力してもらった、おれの知り合いなども、いずれも立派な悪党だった。その中で、まりりんは、立派な悪党に育った。腹黒い不動産屋に負けないぐらい、立派な悪党になったようだ。ふりかえってみると、ボスもおれも、おれの知り合いも、30前後に悪党らしくなっていったのだ。ある種の「青臭さ」を超えた、とでもいうか。

ようするに、TPPだのなんだの、これからいろいろある。賛成反対の議論もある。はっきりしていることは、TPPがどういう動きになろうが、国境と「青臭さ」を超えた悪党ビジネスが必要だということだ。

そんなことで、ビジネスらしからぬビジネスとビジネスらしいビジネスに向かって、悪党ビジネスを大いに語り合った。とりあえず、旅人文化振興会を実体化し、法人格をとるまでにするのが、新たなステップってことかな。

まりりんと18時半に、中野駅であい。北口側を少し歩いた。まりりんは、当然おれより中野に詳しくなっている。昭和新道を案内してくれた。このあたりの動きは、たしかにおもしろい。

飲みーティングは、駒八で。トシさんがすぐあらわれ、21時近く?にボスがあらわれ。23時ごろまで。かなり飲んだが、泥酔記憶喪失にいたることなく、赤羽で終電一本前に間に合った。

YADOYA Guesthouse
http://www.cheap-accommodation-tokyo.com/
旅人文化ブログなんでも版
http://blog.tabibito-bunka.com/

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2011/01/19

やっと新年な気分、比叡の雪。

きょねんから引きずっていた年末年始進行は、ほぼ片づいた。ファックスで送ったミーツの校正が届いているのかどうか確認できないでいるが、ま、大丈夫ということにしておこう。

それで、いただいた年賀状などを見ていたら、やっと落ち着いた新年の気分。いつものように年賀状は出してないし、年賀状の御礼、どうしようかなあ、などと考えつつ、アタマは、ことしのプランに切り替わる。

で、まあ、それとは関係ないのだが、かけっこ料理人ジローchefさんのブログを見たら、「ロテル・ド・比叡」は、すごい雪の中。
http://34513451.blog16.fc2.com/

比叡山で雪の中を歩いたことを思い出した。あれは、調べたら、2002年の2月だった。京都へ向かう新幹線も、関が原の雪で遅れていた。京都の河原町は吹雪いていた。

たしか2泊したと思うが、トツジョ比叡山へ登りたくなり、向かった。雪は晴れて青空だった。京都駅から琵琶湖畔の坂本駅。坂本でケーブル駅へ向かう途中の道路わきに雪は残っていたが、歩道や車道には、なかった。

ところが、上の延暦寺の駅に着くと、たっぷりの雪だった。クルマが通る道も雪が積もり、轍の跡がついていた。冬の比叡山は3度目だったと思うが、道路に雪があるのは初めてだった。

しかし、歩けないほどではない。ほとんど観光客の姿が見えない雪景色のなか、根本中堂などを見てまわった。冷たい空気、大きな木の林。森閑として、こういうとき人は「心が洗われる」と錯覚するのだろう雰囲気だった。

そこで、「心が洗われた」のかどうか、おなじ道を帰るのは嫌だなあと思った。比叡山の裏側、つまり坂本とは反対側のケーブルで下ろうと思った。あまり丁寧に書かれていないイラストマップと、だいぶ前に歩いたことがあるうろ覚えの記憶を頼りに歩いた。

雪が、どんどん深くなった。道も正しいかどうか確信がないし、積雪は膝までは届かないにせよ、くるぶしの上まで埋まるほどになったし、引き返したほうがよいかどうか、何度か迷った。しかし、晴れている。眺めはよい。たぶん京都府の北の山地になるだろうあたりの山々が雪をのせて、とても「心が洗われる」景色なのですね。

そんなこんなで、景色を見ながら歩いているうちに、スキー場に出た。知らなかったが、スキー場があって、しかも、すでに閉鎖になったスキー場跡だった。廃墟のスキー場。そこを突っ切ると、京都の北、八瀬に下るケーブルの駅があった。ほかに客は、誰もいなかった。もう「遭難か」と思ったほど歩いて寒かったし、ほっとした。

駅舎には、ケーブルの京福電気鉄道による「「比叡山人口スキー場は」は今シーズンより営業を廃止します」のポスターがあった。

ただ、それだけ。
人生も旅も、行き当たりバッタリで、ときどき遭難しそうになることがある。

0212284雪景色も撮影したような気がするけど、整理が悪いためか見つからない。京福電鉄の比叡駅の写真だけ見つかったので掲載する。このケーブルは、たしか大正時代に敷設されたものではなかったかと思う。駅舎も古いままだ。

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2011/01/18

街の生命力とストリップ劇場、そして「雑菌の街」と「無菌の街」。

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すでに書いたように天満市場は、一部が市場ビルと高層マンションになり、周辺に昭和なままの使い込んだ本建築の木造と闇市的バラックであり、隣接して団地や倉庫街がある。

最初の写真が市場ビルの部分で、この左側にタワーマンションがそびえているのだが、この位置から、視線を左にずらすと、二番目の写真。卸問屋直営のホルモン酒場と銭湯があり、さらに視線を左にずらすと、道路の正面に団地があり、さらに視線を左に動かすと、銭湯の前あたりになるのだが、ストリップ小屋「東洋ショー」と弁当屋が同居している。「東洋ショー」は、出入り口を路地側にしたり装飾に気をつかっていることもあるだろう、街に溶け込んで違和感なく存在している。

写真ではわかりにくいが、ホルモン酒場の看板には、ワイン、ダーツとある。この街では、ワインが人気なのだ。ビール大瓶320円の立ち飲みでも、チューハイはなくても、カチ割りワインはある。大阪は全体的に、炭酸割りの酒は少ないし、革新的で新しい動きをつくる「ハイカラ」な傾向は見られるのだが。

戦後闇市の雰囲気を色濃く残しながら、新しい動向も飲み込んで、渾然一体。「ゾーニング」などという都市計画屋のような、なにかがなにかを排除して成り立つ思想と構造は、ここには見当たらない。「生きる」ことのすべてが、この狭い地域に生きている。

たいがいの「再開発」においては、ゴチャゴチャした古い街は、「汚い」「危険」であるということで、まっさらの敷地にもどして、ゾーニングによって選ばれた「無菌の街」をつくる。それとはちがう「街の生き方」があるように見えた。

ま、つまりは、なんでもありの大衆食堂のような街なのだ。

下の写真は、横浜の、「有名」といってよい、ストリップ劇場「黄金劇場」だ。1年前の1月ごろの撮影。この横浜の黄金町や日の出町あたりは、大歓楽街であったが、どんどんマンション化がすすんでいる。なにしろ横浜市自体が、「不動産屋」といわれたほど、再開発屋である。そのマンション化は、イコール、「無菌の街」づくりというわけで、どんどん「汚い」「危険」は敵視され排除されている。街を歩けば、ケバケバしく汚らしい「売春飲食店撲滅」の看板が電柱に立っている。

「黄金劇場」周辺もマンションだらけで、「清潔」になり、おかげで以前より、この劇場は目立つようになった。そのうち「新住民」によって排除される可能性なきにしもあらず。

047風俗営業に対しては、いろいろな考えがあるだろうが、「無菌の街」をつくっても、無菌室は外部にさまざまな生きるための生命維持装置が必要であるように、みな雑菌なのであり、そこだけで「生きる」ことが成り立っているわけではない。そのことに思いをめぐらさない街づくりに、かつて大々的に取り組んだことがあった。いまや廃墟遺産になりそうな、郊外の「ニュータウン」づくりが、それだ。

官僚と組んだ都市計画屋は、近ごろは「コンパクトシティ」づくりなるものを掲げ、廃墟となりつつある郊外を捨て、都心部に都市機能を集中させようという動きのようだ。それも悪くはないだろう。

だけど、「生きる」ことの本質は、そこにあるのではない。そのことを、この天満の街は語っているようでもあった。街は「つくる」ものではなく、「生きる」ことにしたがうものである。街の「行き方」つまり方向ではなく、「生き方」つまり生存の在り方を考えるべきではないのか。

悪党として象徴的な言い方をすれば、ストリップ劇場もエロ本屋もない街は、自らの生命力のない街であり、もちろん本質的な意味において文化的でもない。

ま、ストリップ劇場やエロ本屋にとっては、インターネットのほうが脅威らしいのだが。

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2011/01/17

悪党めしに悪党スープ。

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きのう、悪党面をした悪党スープをつくりたいとおもってつくった。もちろん悪党味である。すんだスープなんか、ちゃんちゃらおかしい。

きょうも、そのスープを食べながら、やっと、ミーツの校正も送って、忙しくあれこれ片付けたぞ。

もっと悪党にならなくてはな。

関連
2011/01/05悪党めし。

0021しかし、ミーツの校正を見て、おどろいた。すでに何度か書いたように、2月1日発売の「天満特集」なのだが、「エンテツ・衣有子の天満のぞき」ってことで4ページ。木村さんとおれが、デカデカバカバカ写真で登場するのだ。なんとなく街に埋もれるように登場するのだろうとイメージしていたが、前面に出まくり。木村さんの文章は、写真に負けないからよいが、おれはねえ、どうなんだろう、ま、悪党らしく書いてやったつもり。なかなか見ごたえのある出来上がりになるんじゃないかな。いまから買う準備をしといてくださいよ。

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2011/01/16

ミルク倉庫「出張台所」@神保町・路地と人のち「四月と十月」新年会@根津の甚八。

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きのうはアレコレ忙しくやっていて午後4時ごろ家を出た。空には、いかにも雪が降りそうな寒気の雲があった。

00417時ごろ神保町の「路地と人」。どんな風にやるものか、ぜひのぞいてみたかった、ミルク倉庫による「出張台所」。

ようするにパフォーマンスというものだろうが、路地と人の空間に、冷蔵庫やガス台などを持ち込んで台所をつくって(だから「出張台所」か)、排気のダクトも「作品」になっている。つまり居酒屋ごっこパフォーマンスか、入るとまず注文の伝票に自分の名前を書く。これが芳名帳になる。

客席は、つめれば10数人は入れそうだ。若い人たちばかりだが、つぎつぎに来て、テキトウに食べて呑んでオシャベリして帰る、その光景も、またおもしろい。とにかく、おもしろく、おいしく、楽しい。

きょうまでやっています。料理は、100円から300円ぐらいで、どれも安くうまいです。いまからでも遅くない。

詳しくは、こちら、路地と人のブログ。彼らの作品紹介もあります。
http://rojitohito.exblog.jp/11878554/

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ビールのあと、味噌漬豆腐100円がうまくて、コップ酒を2杯も飲んでしまった。ポテサラのイモを、じゃがいもではなくさといもで作ったサラダ、はじめて食べたがうまかった。

「路地と人」は、この1月で1周年なのだった。けっこうなことですね。きょねんの1月31日には、おれも「半酒場」なることであやしげなトークをやった。ここで「わたしが考える野菜炒め」なるものをやりたいとおもいながら、どう構成するか具体化できないでいたが、この「出張台所」は、大いにヒントになった。なんとか実現したい。

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7時からは、根津の「根津の甚八」。先週の土曜日オープニングで泥酔した、お茶の水「トライギャラリーおちゃのみず」での「田口順二展」最終日、田口さんは撤収のため再度上京中とあって、歓迎とあわせて四月と十月の新年会なのだ。

根津へ行くのに千代田線新御茶ノ水駅を利用するため、まだ絵が飾ってあるなら、もう一度見て写真を撮っておきたいとおもって、トライギャラリーをのぞいていみると、田口順二さんも牧野伊三夫さんもいた。一緒に電車に乗る。

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「根津の甚八」を貸切。「四月と十月」の印刷でお世話になっている大洋印刷さんへの感謝会もかねている。新同人の方や、同人の方、ちょうど北海道から上京中の同人の方もいた。それに、おれのような執筆陣。

さらに、こんど「四月と十月文庫」が刊行されるのですよ。鎌倉の出版社「港の人」の里舘勇次さん。みなさん、期待してお待ちください、「四月と十月」に連載中の有山達也さんの「装幀のなかの絵」などが本になるのです。

ま、そんなこんなで、楽しく飲んだ。例によって、おれは泥酔で電車に乗り遅れないよう帰宅。みなさんは、さらにどこかへ行ったのではないかな。

035東大宮駅から歩いていると、雪がちらついたような気がするが、はっきりした記憶がない。わけのわからん写真がカメラの中にあった、途中の公園、降る雪を撮ったつもりなのか、覚えがない。

ミーツの校正が出ているのだが、ほかに急ぎのことがあって、手をつけられないでいた。きょう明日中に仕上げてもどさなくてはならない。

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2011/01/14

新宿で中華たべながら古墳ナイト、なのに中原蒼二「さびしい時には」。

きのうは、東京カルチャーカルチャーのプロデューサー、テリー植田さんと、まりこふんさん、スソアキコさんという、12月21日の「古墳でコーフンナイト」の顔ぶれで古墳飲み。

新宿、区役所通り入口のミスタードーナツ前ということはアボットチョイスの入口でもありますが、19時集合。テリーさんご愛顧の北京料理の「玉蘭」へ。中華を食べ、飲み、つぎなる「古墳でコーフンナイト」や古墳企画談議。4月ごろに、また東京カルチャーカルチャーでやることになるかもしれない。

腹一杯の21時ごろ、スソさんと新宿駅へ、瀬尾さんと落ち合い、アサヒビアホール。あれこれオシャベリ、ほろ酔い帰宅。

さてそれで、きょうの写真は、中原蒼二さん作詞で、鈴木常吉さんが曲と歌の「さびしい時には」だ。これは、デモ版をいただいたときに、アレコレ書いている。こちら、2010/06/15「さびしい時には、めしを炊こう。『みんなの大衆めし』」

002_2中原さんの「さびしがり名人」ぶりについては、そこに書いているので、あまり書き足すことはないが、とにかく「さびしい時には」を収録したCD「望郷」が発売中なのだ。

しかし、やはり、そこに書き落としたこともある。それは、いってみれば、「男が「さびしい」という時」というタイトルになる話だ。

男が「さびしい」という時は、好きな女に向かって「会いたい」といっているのである。という話を、どこかで聞いたか読んだかした。そうか、そう思って、あらためて、「さびしい時には」を聴くと、これは、中原さんが、誰か女に向かって、会いたいよ、会いたいよ、会いたいよ……と連呼しているようにも聴こえるのだね。

「さびしい時には風呂に入ろう」という歌詞は、「会いたい時には風呂に入ろう」だし、
「さびしい時にはメシを炊こう」は、「会いたい時にはメシを炊こう」になるでしょ。
「さびしい時には夜を待とう」は、これはもう、そのものズバリ、「会いたい時には夜を待とう」なのですよ。
夜になれば、あの女と会えるだろう。あの女は来てくれるだろう。
だけど、女はこなかった。そこで最後、「さびしい時には水のように」となるわけだ。
会いたい女と会えないときには、「ただ眠ろう」。
そして、やっぱり眠れないから、こういう歌詞を作っちゃった。
そういうふうに聴いてみると、また、じつに、この歌は楽しいわけです。

ま、おれのばあい、会いたいときは、「さびしい」とはいわずに「会いたい」というタチなので、こういう詩情あるうたは作れないわけですね。

日本的抒情というのは、ほんとうの気持を、ストレートにいうのではなく、なにか別の言葉に託したりするときうまれるものであると、この歌を聴きながら思ったのでした。

しかし、中原さんは、「さびしい」といっていると、いろいろなものを貰えるようだから、ホント、うらやましい。食べ物なんぞは、あまり買わないですむらしい。

これでは、CDの紹介になっていないようだが、ま、いいじゃないですか。たくさんの人に聴いてほしいという気持をストレートにいうのではなく、別の言い方に託してみたのです。日本的抒情ですよ。

中原さんと鈴木常吉さんは、このCD発売のあと、あちこちでライブをやっていたのだけど、おれは行っている余裕がなく、紹介も遅れてしまった。でも、CDに賞味期限はないから、とくにダンカイのさびしがりの男たち、さびしがり名人をめざし、聴いてみてはどうかな。

制作=しゃぼん玉レコード、配給=メタ・カンパニー

中原さんのブログ「吹ク風ト、流ルル水ト。」
http://ho-bo.jugem.jp/


はあ、しかし、さびしいなあ。さびしいなあ。さびしいなあ。さびしいよ~。

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2011/01/13

「古墳でコーフンナイト」ライブレポートと大仙陵古墳周遊。

0032011/01/08「大阪・天満濃い街泥酔取材、のち東京・新橋新年会泥酔帰宅。」に書いたように、大阪・天満の取材は午後2時からだったので、朝5時起きして出かけ、堺市の大仙陵古墳へ行った。

大仙陵古墳または仁徳陵古墳と呼ばれるが、仁徳陵かどうかは調査が不十分で確認できない。その基底部の面積は世界一の墓ともいわれ、エジプトのピラミッドや中国の秦始皇帝の墓とならぶ三大ナントカという宣伝もあるぐらい、とにかくデカイことで有名だ。以前に一度、見ているが、デカイだけで、まりこふんさんが歌っているように、デカすぎるゆえに全体像がわかりにくいうえ、宮内庁のために中にはいることもできない。ただの小山というかんじで、隔靴掻痒とまでもいかず、まったくツマラナイものという印象しかなかった。

ところが、市庁舎の21階展望台から、全体が見られるというので、とにかく行ってみようということだったのだ。

そりゃそうと、2010/12/22「やっぱり古墳はおもしろい、古墳にコーフンナイト。」に報告した、東京カルチャーカルチャー@お台場における「古墳でコーフンナイト」は、次回がありそうな気配。

その「古墳でコーフンナイト」のライブレポートが、東京カルチャーカルチャーのサイトに掲載されています。
http://tcc.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-2d6c.html

以下、大仙陵古墳周遊写真。下車駅は、阪和線の百舌鳥駅を利用した。

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大仙陵古墳のほかにも、履中陵古墳、反正陵古墳などを中心に大小47基あるそうで、百舌鳥・古市古墳群と呼ばれている。

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駅から50メートルで、古墳の隅に着く。道路の右側がそう。駅は小さいが古墳はデカイ。

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宮内庁が、エラソウに天皇の古墳と人びとのあいだを遠ざけ、本当に宮内庁を信用していいの?という不信をもたらしている。

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ひたすら堀のまわりを歩くより仕方ない。足の疲れと共に宮内庁への不信が高まるばかり。

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おれは、この食堂の発見が、うれしかった。たくさんあって関西では有名だからね。でも、時間がなかったので、写真だけ。

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市庁舎の21階で、ゼンボウをと思っていたが、周囲の掘は見えず、やっぱり小山があるだけ。でもまあ、古墳群や生駒山の位置関係などがわかって、いろいろ想像がふくらんだ。現場にふれるのは大事だ。

しかし、これだけ都市に囲まれてしまっては、古墳群としての風景や姿かたちは、周囲が田んぼのさきたま古墳群のほうがよいね。

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大仙陵古墳のなかには、いくつかの小さなコブのような古墳がある不思議。このデッパリもその一つの茶山古墳。歩道橋の上から撮影した。

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歩道橋の上から、ふりかえると、下の写真、ラブホが美しかった。

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酒とセックスに興味がなくなることは、生命の危機だという説を最近なにかで読んだことを、ここで思い出した。古墳の近くにラブホがあることは、まさに死生や生命の理にかなっている。むかしから神社仏閣の近くに色町が栄えたのもうなずける。

ああ、おれも、酒だけじゃなくラブホをもっと力強く利用するようにならないと生命の危機であると、歩道橋の上から、ラブホと古墳を拝んだのだった。

古墳は墓だから、生と死に思いをめぐらすにもよい。古墳巡りは、ほんとうに楽しい。宮内庁さえ邪魔しなければ、もっと楽しいにちがいない。

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2011/01/12

大阪・天満でゴムヒモパンツの時代の昭和と出あった。

069今回のミーツの取材は、天満でも、南側の天満宮方面ではなく、北側の闇市跡から続く天満市場の界隈だった。ここは、いってみれば卸し問屋街で、生鮮食料品を中心に、たいがいの食品と、日用雑貨などの非食品系を扱う店も多い。もちろん、どの店も小売をしている。

再開発による「ぷらら」という、マンションと複合の市場ビルを真ん中に、そのまわりに、むかしのままの建物で営業している店というぐあいだが、そのむかしのままの建物も、本建築もあればバラックもあるという、じつに新旧混在ぶりが高度な状態なのだ。

そこで、おれが最も感動した発見は、「ボタン・糸」を扱う店の店頭に、ゴムヒモがあったことだ。それも、10数種類が、ほこりもかぶらず、最も目立つ場所、道路にはみだした陳列の先端に置かれている。

おれは、昭和20年代30年代の、ゴムヒモパンツの時代を思い出した。ブリーフの前、男は、フンドシでなければ、いまのトランクス型になるが腰まわりにゴムヒモが入ったパンツをはいているのがフツウだった。

女については、詳しくしらないが、おれが小学生のころは、ブルマー型のパンツで、それは腰まわりと両腿のはしにゴムヒモが入っているのがフツウだったと目撃している。

070このゴムヒモは、洗ったりしているうちに、弱くなってきかなくなる。すると、ゴムヒモを買って来て、家庭でとりかえるのがフツウだった。漫画サザエさんの初期のころには、ゴムヒモの押し売りが時々登場していた記憶があるが、とにかく家庭の必需品であり常備品だった。

ってわけで、そこに、昭和20年代の生風景を見たおれは、大いに感動したのである。いまどき、いったいこれは、どういうひとが買い、どう使われるのか。そりゃまあ裁縫をやるひともいるし、ここは業務用の販売もあるだろうから、いろいろあることはあるのだろうが、それにしても、こうして陳列するほどなのか。あれこれ気になったのだが、取材の対象からはずれるし、時間もないし、写真を撮っておくだけにした。とにかく、この街は、えらく深い街だとおもったのだ。

このゴムヒモのことは、原稿でもチョイとふれた。

その原稿は、きのう仕上げて送ったあと、編集さんから少し注文がついて、ただちに書き直して送りOKとなった。最初の原稿より、かなりよくなったので、出来上がりが楽しみだ。

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『d a n c y u』2月号に「みんなの味噌汁ぶっかけめし」。

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1月6日に発売になっています。なんだか風格ある成金屋敷に貧乏平民が一人という感じでありますが、それだけに、味噌汁と味噌汁ぶっかけめし、食べることの本質が見えてくるのではとおもわれる。

ま、『d a n c y u』は、「食こそエンターテイメント」と肩書にあるとおり、「食べることの本質」とは関係ない雑誌なのですが。はたして、『d a n c y u』読者の反応は、どんなものだろうか、興味があるところ。

ナニワトモアレ、エンターテイメントであろうと本質だろうと、内容には自信があります。ぜひ、ご一読ください。お気に召したら、大いに宣伝よろしくお願いします。反応がよければ、また『d a n c y u』に登場するチャンスがあるか?

「素晴らしい文才にふむふむです。」なんていうメールもいただいているけど、こんな感想をいただけるとよろこんじゃいますねえ。

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2011/01/11

何度でも行きたい、大阪・天満。逗子から泥酔帰宅。

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112大阪・天満といえば、環状線で大阪から時計回りで一つ目の駅だ。歩いても10数分。

改札から北側、数歩で、ビール大びん330円や350円の看板が見えた。時刻は午後2時、立ち飲みでは、男たちがうまそうにやっている。もう誰がなんといおうと「おれはこの街が好きだ!」の気分になった。

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きのうは、ミーツの大阪・天満取材の原稿を、ざっと下書きして、午後2時少し前に家を出る。2時間ほど電車に乗って、逗子の中原蒼二さん宅へ。逗子の方々や、気鋭のデザイナー近藤ちはるさんと飲む。ビール、キンミヤチュウハイ、紹興酒、清酒と飲んで、まいどのごとく泥酔。9時半すぎだったか、とにかくまた2時間以上かけて帰るのだから、呼んでもらったタクシーに近藤さんと乗る。

帰りがけ、以前に当ブログでデモ盤のことを書いたが、作詞=中原蒼二、曲と歌=鈴木常吉の「さびしい時には」が入った、鈴木さんの新作CD「望郷」をいただいた。後日紹介する。

しかし、タクシーに乗ったあと、記憶がほとんどない。タクシー代、誰が払ったのだろう。近藤さんと電車に乗っていたようだが、彼女とどこでわかれたのだろう。近藤さんと、なにかマチガイをしているだろうか。ありえないな。おれはちゃんと家に帰っていて、今朝は、けっこう快適な目覚めで、ただちにミーツの原稿にかかり、仕上げた。

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2011/01/09

田口順二展、泥酔帰宅。

2010/12/31「では、よいお年を。」に書いたように、きのうから、お茶の水の「トライギャラリーおちゃのみず」で、「四月と十月」同人の田口順二展がはじまるので行った。

初めて見る田口さんの生絵を、じっくり見ようと早めに行った。着いたら、ご家族で記念撮影をしているところだった。みなさん、うれしそう。ゆっくり絵を見た。

田口さんは北九州在住で、これまで東京でグループ展はやっているが、個人展は初めて。というわけで、これはめでたい、これをきっかけに大いに東京でも活躍してほしいと、「四月と十月」編集長の牧野伊三夫さんはじめ、祝福激励に駆けつけ、ようするに飲んだのです。

会場で18時ごろからオープニングレセプションのち近くの居酒屋で2次会、23時閉店時間まで。はてまあ、どれぐらい飲んだのでしょう。おれはレセプションでは、ビールと赤ワイン。居酒屋で、ビール、キンミヤ炭酸割り、芋焼酎湯割り、トリハイ…と飲んだのは覚えているが。

牧野さんもそうだけど、田口さんの小学や中学の同期生は、おれも以前に北九州であったことがある方がいたり、田口さんの教え子や、「四月と十月」関係以外にも、とにかく、いろいろな方がいた。店は、ほかの客がいなくて貸切状態だったから、大いに大声で話をし、それはそれはよい話が多くて、波乱万丈田口家の順二はいかにして画家になっているか、という感じのアレコレなど。おれが最後の締めの挨拶をさせられ、なにを話したかよく覚えていないけど、おれたちの様子を見ていた店員のみなさんまで田口さんに拍手を送っていたという有様は記憶にある。なんだか、すごくよいひとときだった。

3次回へ行く人たちと付き合っていては、終電をはずすので、それになにしろ、もう連夜の飲み疲れというわけで、帰ってきた。上野駅で、めずらしく電車に座れて、そのあたりから、ほとんど記憶がない。

みなさん、田口順二展に、ぜひおでかけください。
「トライギャラリーおちゃのみず」で15日まで。
http://triochanomizu.jugem.jp/

スソアキコさんもいて、東京ミッドタウンの帽子展や、とうぜん古墳の話になり、これまた楽しかった。というわけで、最後の写真は、6日に堺市庁舎21階展望台から撮影した、大仙陵古墳。大きいだけで、なんのとりえもない……という印象。

しかし、考えてみたら、ことしは6日から飲み続けだけど、ほとんど自腹を切ってない。取材はともかく、7日の新橋の新年会も、ケチなはずのけんじが、どうせ会社の経費にせよ、2次会まで全部払っていたし、きのうは、2次会は割り勘ということだったが、全額払ってくれた豪快な方がいて、ごちそうになってしまった。とてもよい出だしですね。ずっと続きますように。なんてことはないか。

さて、とにかく、原稿を書かなくてはな。

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2011/01/08

大阪・天満濃い街泥酔取材、のち東京・新橋新年会泥酔帰宅。

068_26日朝5時起きし、東大宮駅6時ごろの電車に乗る。2月1日発売のミーツ・リージョナル3月号の天満特集の取材で、14時に環状線の天満駅待ち合わせ。その前にチョイと大仙陵古墳を撮影したく、大阪駅10時半ごろの阪和線で堺市、各駅停車に乗換え百舌鳥駅へ。ぐるぐる歩きまわり、市庁舎の21階展望台から、古墳を撮影。取材前なのに歩き疲れて天満へもどる。

14時チョイ前に天満に着き、駅そばをウロウロしていると、木村衣有子さんとバッタリ。といっても、木村さんも14時に待ち合わせなのだ。つまり、木村さんとおれが一緒に天満を歩き、それぞれの見方で「天満のぞき」を書くという、ゴーカな企画。近くの喫茶店で短いコーヒータイムのち14時、編集担当のJ-Boys藤本三男さん、写真のエレファント・タカさんと落ち合う。

093天満のなかでも、闇市跡系譜の天満市場と周囲を歩きまわり、お好み焼、立ち飲み、焼肉と4軒の店で食べかつ飲むのだ。実際には、勢いで、立ち飲みは2軒になったから、計4軒はしご。いやあ、路地から路地、闇市跡市場らしい狭い通路を、よく歩き、飲んでは歩き、よく飲みました。

ほんと、これで取材になっているのだろうかと思うほど飲んで、もう最後の焼肉の店では、途中から泥酔記憶喪失状態。どうやってホテルにもどったか覚えもないが、とにかく木村さんとホテルにもどったにちがいない。朝気がついたら着の身着のままベッドの上だった。

手帳を紛失していることに気がつく。電話番号が、みんなわからなくなった。

風呂に入って、11時ごろチェックアウト。ロビーで木村さんに電話すると、まだ部屋にいて二日酔い頭痛だと。お先に失礼し、もう一度、天満にもどり、地理を確認するが、最後の焼肉屋の場所が思い出せない。ひさしぶりに堺筋界隈をうろつことにする。

18時半から新橋のグローバルインターナショナルマーケティング調査会社の新年会に出席するため、15時すぎの新幹線に乗る。飲み放題の新年会で、またもや飲みまくり。けんじだのハルヨだのとインターナショナルなバカ話がはずみ、2軒目はニュー新橋ビル地下。もうヨレヨレで帰宅。

とりあえず、そういうこと。

しかし、天満市場、すごいよいところ。改札を出るとすぐ立ち飲みが何軒かあって、いずれもビール大瓶330から350円の勝負。この値段だけで、どんなところかわかりましょうぞ。秋鹿も安く、タップリ飲めた。

天満を舞台に、木村さんとおれの共演競作、どうなるか。2月1日発売のミーツ3月号は、必読ですぞ。
とにかく、脳をしぼってもアルコール分しか出そうにないのだが、記憶をふりしぼって原稿を書くのだ。

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2011/01/05

悪党がノケゾル、悪党がコーフン。『Primal Form』展 ―スソアキコの帽子と久家靖秀の写真―。

002東京ミッドタウンのTIME&STYLEへ、おのぼりさんしてきました。

これはもう、見なきゃ、おはなしにならない。スソさんのアバンギャルド・ワールド大爆発。
彫刻なのか、帽子なのか。帽子なのだ。

そして、久家さんの写真。これも、みなきゃ、おはなしにならないね。
久家さんの鋭さが、わずかな陰影も逃さず、大胆で精緻なスソ・ワールドをとらえ、鮮やかなカラーと陰影で織りなす。
彫刻なのか、帽子なのか。帽子なのだ。

その展示が、TIME&STYLEのインテリアを背景にしていることもあって、どうしても、これは、帽子というより、「彫刻」といってみたくなる。

そして、いつものように、かぶってみたくなる楽しい作品。
かぶってみたかったけど、手をふれるのも撮影も禁止マークがついていたので、遠慮。

いやあ、スソさんも久家さんも、ひとのタマシイを、グサッと一突きするリッパな悪党です。

そこで一言。「リッパな芸術は、リッパな悪党だ!」

原始のエネルギー、現代の感覚。
この帽子には、ぶっかけめしが似合う。

いつもの、かわいいカチューシャも展示販売していた。

ところで、東京ミッドタウンもTIME&STYLEも、初めて入ってみたのだけど、やはり不況を反映してか、思ったより価格ラインが低い品揃えだった。ダイニングテーブルで、20万円台が平均的な印象。もっと「高級」かと思っていたが。なので、敷居が高い印象は、まったくなく、気楽に過ごせた。

だから、野暮で貧乏な悪党たちも、臆することなく行って、スソさんの帽子と久家さんの写真に、雄たけびをあげるのもよいと思う。

さて、フライヤーの写真にも使われている、スソさんの帽子と久家さんの写真は、いくらでしょう。

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2011年1月2日(日)-2月28日(月)
TIME & STYLE MIDTOWN
港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウンガレリア3F
11時-21時 会期中無休
http://www.tandsgallery.com/jp/shop/next.html

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関連
2010/12/15
古墳トークのスソアキコ帽子展×久家靖秀の写真。

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悪党めし。

ことしは、早々にトップギア、ハイテンションのスタートになっている。とにかく、大阪へ行く前に仕上げておきたい原稿が完成し、さきほど送った。

その原稿を書いているあいだに、いろいろなことがあった。おもしろそうなプランや動きの相談があって、コーフン。おれが、もっとも信頼しているビジネスコンサルタントからの年賀状には、「70歳になってもまだコンサルタントを続けています」とあった。かれのコンサルは、えらそうな口先だけのものではなく、現場と一緒に誠実に動く、体力も知力もいるものだから「70歳になっても」に大いに意味がある。そうか、そうだ、やろうじゃないか。

そして、おもった、もっと悪党にならなくてはならない。もっと悪党による、もっとまっとうなビジネスを!

ってことで、ことしは、「悪党めし」をめざすことにした。

おりしも、明日、おれが味噌汁ぶっかけめしで登場する『d a n c y u』2月号が発売になる。これも奇遇というか。ぶっかけめしは、中世の悪党の「主食」であったにちがいない。

ぶっかけめしとはかぎらないが、ようするに、新鮮なエネルギッシュな活動を支えるめしだ。

もっと「悪党めし」をくって、もっと悪党になる。

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2011/01/04

なぜか、ねぎ焼き。「深さ」と構造の関係。

どういうイキサツか、きのうのことなのに思い出せない。
とにかく、ねぎと干しえびのお好み焼をやることになった。

お好み焼をやるのは、この家に引っ越して初めてだから、ずいぶんひさしぶりだ。
それもあってか、出来上がりはイマイチだった。
考えてみると、いくつか、思い当たるモンダイ点があった。

そこが気になって仕方ないので、きょう、干しえびはなくなっていたから、ねぎ焼をやってみた。
こんどは、まだ改善点はなくはないが、まずまずの出来だった。

じつにシンプルな料理だが、深いものがあると、あらためて思った。

そして、シンプルだからこそ、構造がわかりやすい。

また、構造を把握しなくては、「深さ」を理解することはできない。

さらに、構造の把握や「深さ」の理解は、知識の量とは必ずしも関係がない。

そこんとこは、「教養」と似ている。

といった関係があるなと思った。

ってことは、「教養」って、そんなものはおれはあまり興味はないが、「深さ」の理解と関係ありそうだ。

お好み焼に関する教養は、お好み焼に関する知識の量で決まるのではなく、お好み焼の構造の把握によって決まる。

だけど、知識の量で決まるを思っている人は、かなりいるような感じがする。
とくに、料理に関して、したり顔やわけ知り顔が多いのは、そのせいか?

では、構造の把握が、知識の量とは必ずしも関係がないとしたら、なにと関係があるのだろうか。

それは、たぶん、「観察」である。

ときには、いや、かなり、知識を収集するより、観察がものをいう場面は少なくない。
観察がダメな経験も、観察がダメな知識も、その言うことは、じつに薄っぺらで、深さに欠ける。

とにかく、あと何度か、ねぎ焼をやる。
そうしたところで、おれの場合、自分がうまいと思うものを作っているにすぎないのだが、構造のどこをいじくるとどう変るかは理解できる。それが、つまり、構造の把握だ。

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2011/01/03

日本の近未来? 立派な道路と新しい墓が残る。

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過疎と少子高齢化と人口減は、全日本的大問題のように思うが、いつも話題になる割には、そんなに真剣に取り組まれてこなかった。たぶん、それは、人口が集中する都会地、とりわけ日本の中心、東京あたりでは、過疎と少子高齢化と人口減に関係なく楽しく過ごせる日々があることに関係するのかも知れない。

そんな東京の「気分」にひきずられるなかで、この大問題は、それほど大問題になることはなく、他人事のようにデータをながめて過ごし、いまでは、どう諸外国から「優秀な人材」や「労働力」を獲得するかといったことに、すりかえられるようになった。どのみち、長いあいだ、これらのことは、「田舎の問題」という感覚が、都会地を中心に広くあったといえるだろう。

このブログでは、なんどか「地方の疲弊」について、ふれているが、今回は、もはや「疲弊」を通り越して、座して「消滅」を待つ以外にない運命を背負った地域を感じた。

荒川上流の藤倉川に沿って集落が続く地域は、95年には937人271世帯が住んでいた。それだって、かなりの減少だったが、それが05年には663人244世帯になった。最新のデータはないが、見た目は、最近の5年間の衰退のほうが激しい。空き家が目立つようになり、まがりなりにも存続していた、小学校と中学校もなくなった。

学校がなくなるというのは、決定的なことだ。つまり、学校のない地域に引っ越して来る若い家族など、いっこないからだ。

一方、この地域で新しく立派になって目立つのが、道路と墓……。

道路の工事は、おれが行くようになった10数年間、途絶えることなく続いていた。いまでも1車線を2車線にする工事が続いている。その前から何十年間も、そうであったらしい。つまり、これは、タテマエはいろいろあっても、「過疎対策」事業として続き、地域にあるていどの金銭をもたらしていた。それは、根本的な対策がたたないまま、「切り捨てる」という言い方が悪ければ「自然死」を待つための、「捨て金」だったといえるだろう。

このあたりの墓所は、ほとんどが自分たちの地所にある。空き家になって家も取り壊された敷地に、新しい墓標が建っている。

「あと10年もすれば、たいがいの家はなくなるのに、道だけよくなって…」という年寄りの声もある。

だが、よくなった道を通って、新しい墓標の墓に納まった人たちをお参りする子孫が、少しは続くだろう。その前に、消滅する集落とイノチを共にする年寄りたちを、見守り送るためにも、この道路は使われるにちがいない。

こうして、こういう地域とつながりがあるのは「関係者」だけで、都会の生活にとって田舎は関係ない構造が、ほぼできあがった。

日本の田舎のかわりに、諸外国に代替を求める考えがある。「こんな田舎なんか、ひとが住むところでじゃないから、なくなっていいのだ」という考えの背後には、それがある。それは、かつて、農業を捨て工業に力を入れ、工業で得たカネで食糧を買えばよいという考えとおなじである。

その考えに、一理も一利もあるとしよう。ただ、日本の田舎のかわりに、諸外国に代替を求める考えは、かならずしも日本人の都合ばかりではいかないということだ。逆の関係にも、なりうる。すでに、そういう「出稼ぎ者」は、日本の都会にも田舎にもいる。外国からみれば、都会者であるか田舎者であるかなんか、関係ない。日本の田舎にしても、いつまでも日本の都会にすがっていられない。

というわけで、山奥には不釣合いの道路ができた結果、そのオイシイところは、外国人がいただく可能性もないわけじゃない。とりあえず、日本人は、「捨て金」を注ぐ「対策」だけで、あまり真剣に考えていない。そして、田舎は滅んでも、都会に住んでいれば、楽しくうまくやれるというあたりで、思考は停止しているようだ。「つながり」だ「ネットワーク」だのといっても、こういう過疎地とは無関係なのだ。

そんなことを考えた景色。

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2011/01/02

元旦、初詣。埼玉県秩父郡小鹿野町、倉尾神社。

本年は、本年も、本年こそは、よろしくお願い申し上げます。

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山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目も草もかれぬと思へば

源 宗于

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