一日のけじめ。
きのうは、午前中に片付けなくてはならない校正などがあって、朝からバタバタとやり、昼近くには終わって、デレデレ飲み始めた。飲んでは寝たりしているうちに夕方になった。
なぜだか、「一日のけじめ」ということが思い浮かんだ。たしか藤沢周平さんの小説にあったのだとおもうが、登場人物の商人か職人が、「一日のけじめ」として酒を飲みめしをくう場面があった。藤沢さんの小説の飲食は、そういう場面が、けっこう多いのではないか。と思った。
たいがい、「晩酌」というのは、一日のけじめとして飲むものだった。キョウノワザヲナシオエテ、一日のけじめをつけるのだ。晩酌して晩飯食べて、これで一日のけじめがつく。それが、いってみれば、生活の中の飲食だろう。いわゆる道楽や趣味とは違うものだ。
行きつけの酒場や食堂に寄って、いつもの場所に座って、一杯やってめしをくう。あるいは、いつもの自分の住まいの、いつもの食卓で、一杯やってめしをくう。これが一日の区切りになる。
だから、昼酒をくらっていても、夕方になると、サテきょうの晩飯は、なにをどう食べようかと考えるわけだ。どんなにデレデレ飲みをしていても、夕方から夜には、イチオウ一日のけじめをつけなくてはならない。そこに、貧しいながらも晩餐の意義がある。ってことなんだな。
料理や飲食は、そういう生活の中のものである。生活が違えば、けじめのつけ方も違うだろう。そこでの、酒や料理も、それにそうものであることが大事で、それぞれにとってそうものであれば、それでよい。そうものであれば、べつに厳選物じゃなくても、スーパーで一番安い納豆や豆腐だって、うまく飲食できるのだ。
しかし、なんだか、生活のけじめの飲食は、忘れられる傾向もある。なにやかにや道楽的趣味的にウルサイことになって、どこそこのナニナニを食べたとか、ナニナニはどこそこが一番とかいったことになっている。
けじめをつけに入った大衆酒場で、となりの男が、純米酒が揃っている飲み屋は料理もうまいなんていいやがって。そんなこたあねえよ、といってやろうと思ったが、黙っていた。こういうバカヤロウと口をきくと、一日のけじめの酒がまずくなるからな。
おれは、そのときは、普通酒の燗酒だった。それで十分、一日のけじめになるのだ。それぞれが、サイフの都合もあろうし、好きなようにすればよいのだ。いちばん大事なことは、それで、きょうのけじめをつけて明日に向かう、ということだ。それでこそ、「消費」という行為が、明日の「生産」や「創造」につながる。
もっとも、ただ酔うために飲む酒もあって、これはこれで楽しいね。でれでれずるずる飲んで、けじめがなくなることもあるけど、これはこれで楽しいね。それから、きき酒会のように飲む酒も、ないことはなく、これはこれで楽しい。ようするに、楽しめればよいのだし、生きていく上では、それが一番大事なのだから、飲食店が宣伝のために能書きをいうのは仕方ないにしても、それだってたいがいにしないと嫌われることもあるし、飲食のことでウルサイことはいわないでちょうだいよ。それぞれが、それぞれに、楽しめばよいのだから。
最後の写真は、東大宮駅西口そばの酒場「末広」。駅ホームから撮った。いかにも、一日のけじめをつけに、男たちが寄る酒場のように見える。よい評判を聞いていて、気になるのだが、まだ一度も入ったことがない。
2階にあった、フィリピンパブやフィリピーナ御用達だった食材料やファッションの販売店は撤退し、新しく居酒屋ができた。1階、左隣も居酒屋だし、その左側正面には「鉄砲屋」があるし、この酒場の右側にはチェーン居酒屋があるし、この前の道を右へ行けば「昭和酒場コタツ」になるが、そこに至る前にも数軒の居酒屋がある。なかなかの激戦地。
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