なぜか、ねぎ焼き。「深さ」と構造の関係。
どういうイキサツか、きのうのことなのに思い出せない。
とにかく、ねぎと干しえびのお好み焼をやることになった。
お好み焼をやるのは、この家に引っ越して初めてだから、ずいぶんひさしぶりだ。
それもあってか、出来上がりはイマイチだった。
考えてみると、いくつか、思い当たるモンダイ点があった。
そこが気になって仕方ないので、きょう、干しえびはなくなっていたから、ねぎ焼をやってみた。
こんどは、まだ改善点はなくはないが、まずまずの出来だった。
じつにシンプルな料理だが、深いものがあると、あらためて思った。
そして、シンプルだからこそ、構造がわかりやすい。
また、構造を把握しなくては、「深さ」を理解することはできない。
さらに、構造の把握や「深さ」の理解は、知識の量とは必ずしも関係がない。
そこんとこは、「教養」と似ている。
といった関係があるなと思った。
ってことは、「教養」って、そんなものはおれはあまり興味はないが、「深さ」の理解と関係ありそうだ。
お好み焼に関する教養は、お好み焼に関する知識の量で決まるのではなく、お好み焼の構造の把握によって決まる。
だけど、知識の量で決まるを思っている人は、かなりいるような感じがする。
とくに、料理に関して、したり顔やわけ知り顔が多いのは、そのせいか?
では、構造の把握が、知識の量とは必ずしも関係がないとしたら、なにと関係があるのだろうか。
それは、たぶん、「観察」である。
ときには、いや、かなり、知識を収集するより、観察がものをいう場面は少なくない。
観察がダメな経験も、観察がダメな知識も、その言うことは、じつに薄っぺらで、深さに欠ける。
とにかく、あと何度か、ねぎ焼をやる。
そうしたところで、おれの場合、自分がうまいと思うものを作っているにすぎないのだが、構造のどこをいじくるとどう変るかは理解できる。それが、つまり、構造の把握だ。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント