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2011/05/27

新潟県十日町市、高長醸造場の「しょうゆの実」。

Dscn0101a先日、須田泰成さんが十日町市から帰る途中、大宮で下車してくれて、いづみやで飲んだのだが、その時、この十日町みやげをもらった。

十日町は、おれの故郷、南魚沼市六日町のとなり。となりなのだが、ほくほく線が開通するまでは、標高600メートルほどの魚沼丘陵があいだにあって、あまり行き来はなかった。おれが田舎で暮らしているあいだは、そんな状態だった。

ただ、十日町の蕎麦の乾麺はうまく、これだけが記憶にある食べ物だった。とりわけ玉垣製麺所の「妻有の郷」は、ときどき無性に食べたくなる。ファンも多いようだ。

「しょうゆの実」と「もろみ」は違うものだと思っていたが、このしょうゆの実の表示を見ると「もろみ(しょうゆの実)」となっている。もろみは、もっと水分が少なく、そのもろみを加工したものが、しょうゆの実とおもっていたが、カンチガイか?

とにかく、しょうゆの実は、まずめしにかけてくうとうまいのなんの。それから、ドレッシングのように、そのままか、ほかの何かとまぜて使うと、野菜がうまく食べられるのだな。もちろん、酒のつまみに、いろいろ使いようがある。

これは、まだ食べてないので、食べてみて、また書き足す。かもしれない。うまいに決まっているが。

自社サイトは無いようだから、十日町市観光協会にある高長醸造場のページ。みそ、しょうゆの地場産業、応援よろしく。こちらで玉垣製麺所もご覧いただけます。…クリック地獄

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2011/05/26

パラッと見ただけで絶賛したくなる本があるものだ。『ボタニカ問答帖』。

Dscn0103aきのう、発行元の京阪神エルマガジン社から届いた、この本。パラッと見て、2ページほど斜め読みしただけで、その素晴らしさにコーフン、ただちにツイッターにつぶやいた。いやあ、おれとしては、めったに、こんなことはない、スゴイ本です。ぜひ、書店で手にしてみてください。手にしたときから、離せなくなるのをカクゴで。

とにかく、いま、おれは今月末締切りの本の原稿の地獄のなかに身を焦がしているので、まだぜんぶ読んでいないのだが、以上のごとき本です。

編集は、『あんこの本』の村瀬彩子さん、写真も『あんこの本』の齋藤圭吾さん、というコンビ。ほんと、どうしているかと思えば、こんないい本をつくっている、ニクタラシイやつらです。村瀬さんの一筆箋には、「一風変わった植物本をつくりました」と。村瀬さん、木村衣有子さんの『大阪のぞき』も担当された方ですね。

で、文は、初めて知る名前の方だが、瀬尾英男さん。文章が、ある意味、文芸の香りがするし、この本全体が文芸の香りのイメージだが、とてもおもしろい文章なのだ。植物にインタビューして「会話」している感じでの、それが、すごくおもしろい。すぐ引きずりこまれちゃうから、忙しいとき読むのは、キケン。と、この忙しいときに、こんなにオススメしたくなちゃうんだな。

その文章と、齋藤さんの花の写真、それはもう、イイ。そして、ちゃんと花の図鑑的解説もあるのです。これは、詩集でもあり小説でもあり図鑑でもあり、どれでもない、とても不思議おもしろい本。このボリュームで2000円+税は、安いですよ。

あとは、書くのがメンドウだから、腰巻の写真を大きくのせる。
Dscn0104a

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2011/05/25

四月と十月文庫1『えびな書店店主の記』出版記念トークイベント。

いよいよだ。四月と十月文庫の一冊目『えびな書店店主の記』が、港の人から6月下旬刊行される予定。めでたし、めでたし。よろしくね。

おれも「理解フノー」の連載をさせてもらっている美術系同人誌『四月と十月』に、長いあいだ「美術の本」を連載されていた、小金井の古書店主・蝦名則(えびな のり)さんが著者。

四月と十月編集長・牧野伊三夫さんと著者による、出版記念トークイベントがあります。若い牧野さんが絵描きを志してモンモンとしていた?ころ、小金井に住んでいたわけで、いろいろ楽しい話が聴けるでしょう。

7月16日(土)15時〜東京堂書店本店/四月と十月文庫1『えびな書店店主の記』出版記念トークイベント「美術古書店店主の日々」蝦名則×牧野伊三夫(司会:鈴木るみこ)
http://tokyodoshoten.co.jp/blog/?p=802

港の人日記
http://d.hatena.ne.jp/miasiro/

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2011/05/24

「街メシ」に、「俺メシ」を獲得する。

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 平均寿命が80歳をこえているそうだ。でも、無事に「生き抜く」のは容易じゃないぞ。働かなくてはならない。税金払わなくてはならない。勉強がある。もちろん、遊びたい。いまのご時世、いちいち難儀なことが多い、甘くはないときている。ときには孤独に押しつぶされそうになる。寝ていても、起きていても、疲れる、腹が減る。
 問題は、きょうのメシ、きょうを生きる、メシの力だ。同じ百グラムのコメのメシでも、力がちがう。街に生きる表情豊かなオジチャンやオバチャンが炊いたメシ、洗っては使う食器に盛られたメシ、これを「街メシ」とよぼう。それと、どこでも同じスタイルで俺たちの財布をねらい「いらっしゃいませ、こんにちは」を機械的に発射する、使い捨て容器に盛られたマーケティング・ルールの「製品メシ」とは、大いにちがう。
 街メシは、つくる人、食べる人、地域に支えられ、力強く街で生きてきた街ルールのメシだ。この街で生きるには「これだ」というものが息づいている。店のたたずまいや装いに表情がある。店の人の笑顔が生きている。メシの輝きをみよ、ガツンと食べる人たちをみよ、元気がわく。そこに「俺のメシ」を発見しよう、「俺メシ」をほうばるのだ。
 そのように街をみる、街のメシを食べる。カネがないときは、「ごはんとみそ汁だけね」と直球注文だ。テーブルのソースをメシにかけてみるか。お茶のみ放題でくつろぐ人もいる。屈託のあるときも、気分のよいときも、それなりの食べようがある。
 たとえ、きょうがドジでもナミダでも、日々のメシを、最大の楽しみにする。朝目覚めて、ヨシッきょうのメシはアソコの俺メシだ、とニンマリするようになったら、まちがいなく、力強くメシをくい力強く生きている姿だろう。気どりや能書きを捨て、素直に興奮する胃袋にかえろう。生き抜く楽しみや力がわいてくる一杯のメシがある。毎日、俺メシの時間が待ち遠しい。それが、どんなに素晴らしいことか。
 だからさ、まずは街に出て、自分の感覚を働かせ、俺メシを獲得するのだ。もちろん、街中のメシを俺メシにするもよし。俺メシのあるところ、俺の街だ。


またもや、以前の文章の転載。ブログを書くのがメンドウだから、じゃなくて、いませっせとやっている本の原稿に関係あるからなんですよ。ここに載せておけば、すぐ見つかるし、検索も容易ってわけで。それに、こんないい文章!をすぐタダで読めるなんて、いいでしょう。

ま、でも、こういう文章は、単独でもよいかも知れないが、やはりほかの食堂やめしの記事と共にあってこそ得られる味わいが大いにあるから、それは、買って読んだ方のお得ってわけですね。そこが、ま、アナログな雑誌の特徴だと思います。

これは『ミーツ・リージョナル』2008年10月号(9月1日発売)、「ザ・めし」特集巻頭エッセイ。本誌は、ひと月ぐらいで品切れになる売れ行きだった。たしかに、よくできていた。もう古本屋で見つけるしか、本誌はご覧いただけないわけで、この文章をここで見られるあなたは、それだけでもラッキー、って、それじゃ自画自賛の押し売りがすぎるか。

こちらに関連エントリー
2008/09/01
防災のキホンは「めし」。『ミーツ・リージョナル』10月号「ザ・めし特集」9月1日発売。

取材の模様も
2008/08/07
充実の大阪取材。

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2011/05/22

おれとビッグ・エーのまったくもって妙な関係。

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5月15日発売のスーパー業界誌の『食品商業』6月号に、ひさしぶりにエッセーを寄稿した。以前に、同誌に一年近くエッセーを連載したときの担当編集さんが、おれがビッグ・エーのヘビーユーザーだというのを覚えていて、「ビッグ・エー ハードディスカウントの時代」に、カタイ記事だけじゃなんだから、何か書いて欲しいと依頼があったのだ。

ボックス・ストアあるいはハードディスカウンターといわれる業態は、とにかくトコトン安値を追求する。ほんと、ハードなディスカウントなのだ。ビッグ・エーは関東だけで、関西には名前すぐ思い出せない、違うストアがチェーン展開している。

であるから、大衆食堂バンザーイなことを言ったり書いたりしているおれが、ビッグ・エーのヘビーユーザーだなんていうと、「えええっ、大衆食堂といったらスローフードじゃないですか、ロハスでしょ、地産地消や手づくり、よい素材にこだわるんじゃないですか、それが、あんな安さ追求のスーパーのヘビーユーザーだなんて、許せん」といった、教条的な声が聞こえてきそうなのだが。

あ~、じつはですね、大衆食堂とビッグ・エーには共通点があるんですよ。それは、どちらも、じつに簡素なストア・オペレーションをしていること。気取りや飾り気がない。言い方を変えれば、「即物的」ってことですよ。今回も、この原稿を書きながら、おれって即物的な空間が好きなんだなあと、思いました。

即物的な空間なのに、なぜかあたたかい。自由である。いや、それは、即物的な空間だから、あたたかく、自由なのだ。これと、真逆をいく、デパートの空間と接客を、比べてみればよい。そう、あの厚化粧な空間と接客。おれは、たぶん育ちが悪いこともあるだろうが、デパートの空間と接客には、ヘドが出るのだ。あんなんで気持よくなって財布のヒモをゆるめるひとは、どーかしているとさえ思うことがある。

バブルのころには、よいものうまいものにはいくらでもカネを出す、なんてバカバカしいことを、生産者も流通業者も消費者も言っていたのだが、まだ、そういうブヨブヨした脳みそが残っているようでもある。しかーし、大衆食堂もビッグ・エーも、そんなことは信じない。まわりがゴテゴテ気取ろうが着飾ろうが、わが道をゆくで通してきた。潔いのだ。

ま、能書きは、これぐらいにして、堂々2ページ書きました。冒頭の書き出しを長めに紹介すると、こんなアンバイ。

 いまウチには、ビッグ・エーで買った、ビッグ・エーブランドの醤油と使いかけの小松菜が、冷蔵庫にある。テーブルの上には、バナナの最後の一本がのっている。2日ほど前には、伊予柑もあった。
 11日に発生した大地震で、時間帯と売り場によっては、棚がガラガラのときもあるのだが、数日前、津波の被害が大きかった宮城・気仙沼の〆鯖を見つけたので、ただちに買った。それをブログで紹介したら、ツイッター仲間が同じものを買っていることがわかった。ほかにもビッグ・エーユーザーとつながった。いずれも男で、住んでいる地域はばらばらだが、ツイッターで「ロハスの敵、庶民の味方、ビッグ・エー」などと冗談をとばして、盛り上がった。

そうなのだ、ツイッターで、「ロハスの敵、庶民の味方、ビッグ・エー」なーんて盛り上がっていた。
気仙沼の〆鯖のことは、すでに当ブログで書いている。
2011/03/19
「なんとなく、気仙沼・八葉水産のしめさば。」
ついでに、もっと本文を紹介しちゃおう。こんな風に、その即物性を評価している。

 実際、いまの東大宮のビッグ・エーの前には、やはり24時間営業の、数百坪はあろうかと思われる某ナショナル・チェーンのスーパーがあって、ときどき意を決して入っても、途中ですごすご退散し、ビッグ・エーで買い物して帰ることがある。これは、67歳というトシのせいなのだろうか。あの、制服を着たレジの女性が、ばか丁寧な挨拶を早口でしたり、厨房と出入りするたびに店内に向かってお辞儀をする姿まで、わずらわしく思える。
 そこへいくと、ビッグ・エーは気楽である。店舗の大きさといい、素っ気ない即物的な陳列といい、あまり圧迫感も情報的干渉もない中にほっておかれるのである。すると、気分も大らかに、店内をフラフラできる。急いでいるときは、すぐコンビニ並の早さで、めざす商品を手に入れられる。そして、制服で固められてない、私服にエプロンという店員さんの姿が、そのへんのまちの店まちの人という感じで、個人商店にいるような親しみを覚えるのだ。

・・・以上。いやいや、でもね、最後は、こう終わるのです。

まったくもって妙な関係になったものだが、かといって、ビッグ・エーさえあればよいという生活は、想像したくない。

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2011/05/21

ごく私的な手づくり観光への誘い。

え~、本日は、トツゼンですが、2008年3月発行の、財団法人・北区まちづくり公社から発行の『街よ!元気になれ』シリーズ街の魅力「新北区紀行」~観光のススメ~に寄稿した、「ごく私的な手づくり観光への誘い」を一挙そのまま転載します。

『街よ!元気になれ』は、全員が編集はシロウトのボランティア『街よ!元気になれ」企画編集委員会によるもので、この号では、なぜかおれにアイドバイザーとして参加の依頼があり、何回か企画編集委員会に参加し、楽しく酒を飲むことありましたね。そして、巻頭文ということでお願いされ、以下の文を寄稿しました。

北区まちづくり公社の公式サイトはこちら。
http://www.matikita.com/


 「王子は都内にはめずらしく山あり川あり橋ありの街で、名所旧跡もおおい。けれど、なんといっても面白いのは、……」
 『散歩の達人』1997年12月号の特集「元気な横丁世界」で王子の横丁をルポした私は、こう書き出した。
 「大人のための首都圏散策」をうたう『散歩の達人』は、けっこう知られた雑誌に成長したが、1996年4月号の創刊から2年に満たないころだった。おなじ97年5月号には、つぎのような編集者の文章がある。
 「僕たちがこの雑誌を通じて一番伝えたかったのは、〝東京は『なんでもあり』の街だからこそ面白い〟ということ。……フツーの東京情報誌は〝洒落たもの、気取ったものが東京的である〟というコンセプトの基に作られているようです。でも、世田谷区や渋谷区だけが東京じゃありません。足立区や荒川区だって東京です」
 青臭い啓蒙家のようなセリフだけど、当時の状況がよくあらわれている。池袋ですら、特集が組まれるのは新奇な珍しい時代だった。
 つまり、古都観光地の浅草は別格として、東京・銀座から渋谷・新宿その延長線としての下北沢・吉祥寺を結ぶ範囲あたりが、フツーの東京情報誌の対象だった。「王子や赤羽を記事にしても雑誌は売れない」という話しをよく聞いた。
 その状況は大きく変わったし、変わろうとしている。フツーの東京情報誌が、北区のみなさんにとっては不本意な表現かもしれないけど「もう東京の端とはいわせない」と北区の街を載せるまでになった。

 では近年注目される北区の観光とは、どんなものだろうか。
 北区が目新しい観光の目玉になるようなランドマークを建設したわけではない。観光する人びとが変わり観光が変わったのだ。
 「観光」は、文字のとおりに解釈すれば、「光を観る」ことになる。しかし、これでは不十分のような気がする。
 単なる「光」ではなく「輝き」を観たいのだ。たとえば、太陽の光を受けて輝く風景を美しく思い、イルミネーションやライトアップの光に輝きをみて感動する。あるいは寺社や古い歴史的建造物に神々しい輝きや、博物館や美術館で人間の精神が生み出す文化や芸術の輝きをみて感激する。
 しかし「輝き」は、天空の星一つひとつのように、さまざまだ。明るい輝き、躍動的な輝き、やわらかな輝き、鈍い輝き、枯れた輝き、寂しい輝き、小さな輝き……どう感じるかは、そのひとしだい。しかもひとは、料理を食べるときのように、全身で輝きを感じることができる。
 その、ひとが変わり観光が変わった。近年の特徴的な変化は、『週刊ダイヤモンド』2007年7月28日号の「激変!ニッポンの観光も指摘している。団体旅行から個人旅行への変化、「自分のスタイル」「自分のプラン」による観光だ。
 なんでもある東京を、自分の面白さでみようという動き。「昭和懐古」や「下町大衆酒場」など、いくつかのブームの影響もみられるが、その背景にあるのは、よりオリジナルな輝き、生(なま)の輝きを求める「手づくり感覚」の観光の広がりだ。「街歩き」や「ちい散歩」は、そのものであろう。
 そして、北区は、手づくり感覚の観光が楽しめるところとして、人びとの「手づくりテイスト」や「手づくりマインド」を満たす街として、注目されるようになった。そういうことではないかと思う。
 
 自分の手を動かしてモノづくりを楽しむように、自分の足で歩いて輝くものを見つける。そこで必要なのは、なにかを感じる自分、なにかを見ようとする自分、なにかを好きな自分、なにかを面白がる自分、なにかにこだわる自分、あるいはボーと歩いているだけが好きな自分なのだ。
 そんな自分を圧倒してしまうような大きな建造物や有名ブランドや重々しい歴史などは必需でない。また画一的機械的な、自由が奪われそうな過剰なサービスもいらない。生身の自分が、気軽に等身大で向き合えることなのだ。
 であるから、横丁や路地や商店街や銭湯や看板、地元のひとに愛されてきた飲食店など、手づくりの食べ物や手芸品、ともすると古い表札のような何気ない「小物」まで、これまで観光資源とみなされなかった日常の生活の場が、観光の対象になる。チリひとつ落ちてない路地や、元気よく働く人びとやその会話に輝きを発見し満たされたりする。

 手づくり観光が楽しい北区の特徴や魅力はなんだろうか。私の体験のいくつくかをあげてみたい。
 私はインターネットの自分のブログで、ときどきなぜ北区が好きなのかを書いている。それを要約すると三つになる。第一は、冒頭にあげた書き出しであるが、地形が起伏に富んでいることだ。第二は、平坦な直線的な道路が少なく、横丁や路地が多い。第三に、自営や、そこに暮らす生業の店やひとが多いこと。
 これらは相互に関係し、都心部の企業的な街と比べて一目瞭然だが、街そのものが手づくり感にあふれている。まずは歩いていても退屈しない。不意に意外な風景や、魅力的な個性的なひとに出会い興奮する。
 ある夕刻、私は東十条駅から歩いた。なんのプランもない。手づくりとなると、プランなど必要ないこともあるし、散歩とは本来そういうものらしい。自分のスタイルで歩く。駅を出ると立ち食いそば屋からダシの匂いが、商店街ではリンゴの匂いがただよっていた。王子から街角芸術品といいたい東書文庫の周辺をうろうろし、都電梶原駅のところで明治通りに出て、歩きつかれたので帰ろうと適当にまがったら、尾久駅に着いた。そして階段からホームに出た瞬間、そこに広がる夕暮れ景色に、ため息をついた。
 陽はすでに沈んでいたけどまだ明るい空を背に、田端から王子方面の台地が墨絵のように横たわっていた。そここに灯りがちらついて、そこと私がいるホームとのあいだには広い面積に何本ものレールが横たわり、鉄道マニアがよろこびそうな、いろいろな列車が停まっている。私は、どこか遠くへ来てしまったかと錯覚しそうだった。
 またあるときは王子駅から梶原銀座商店街へ、上中里駅に出て、渋い風格の平塚神社で拝礼、旧古河庭園の先から霜降銀座商店街、染井商店街を経て西ヶ原をとおり、また王子駅にもどった。これらの商店街は看板やひとをみているだけでもあきないのだけど、その日は、西ヶ原で方角を失い細い路地に迷い込んだ。すると柑橘の実がついた枝が張り出して、先が階段になっているところにトツゼン出た。左手を見上げると銭湯の煙突があって、私はどこかにタイムスリップしたような興奮をおぼえた。
 田中康夫が当時としては個性的なデートコースの案内を書いた『東京ステディ・デート案内』。これは「POPEYE」に連載のあと1988年に単行本になったのだが、そこで「王子にある紙の博物館は、その名まえすら知られてないスポットである」と紹介している。紙の博物館は、いまの飛鳥山公園ではなく王子駅の北側にあった。そこを私は1970年代から仕事で数回訪れているのだけど、田中康夫が「小学校の社会科見学を思い出すことであろう。それでいいのだ。この感覚を味わわんがために、この博物館は、今日も存在しているのだ」と書いているのに共感を覚えた。移転し新しくなったけど、そこでは、なぜか童心の輝きを思ってしまう。
 田中康夫は岩淵水門も案内している。「土手の芝生の上に二人、寝転がってみたまえ。時刻が停まってしまったような錯覚に陥ることであろう」「訪れたのが、晴れた午後であったならば、感動は二倍にも三倍にもなろう。私は、締切りのない日の午後、晴れていると、一人、岩淵水門までやって来ては、夕方までの、二、三時間を過ごす」「それだけの価値がある場所である」
 私は当時これを読んで、仕事場が池袋だったこともあって、初めて岩淵水門へ行った。このとおりだし、いまでも、そうだと思う。
 こういう例をあげたらきりがない。総じていえば「渋さ」になるだろうか。古いものが残りながらゆっくりとした変化のなかにある、仰々しくない、小粒で簡素だけどキラリと輝く「渋さ」の存在の数々が、起伏に富んだ地形に配置しているがゆえに、驚きや忘れがたいよろこびや癒しをもたらす。

 手づくり観光で問われるのは「自分」「私」だ。観ることは自分の発見でもある。「私」が、なにをしたいか、どうしたいか、どうありたいか。
 観るほうだけではなく、観られるほうも、おなじだ。誰かに観光名所をつくってもらったり、なにかを頼るのではなく、まずは自らの手でなにができるか、どうありたいかなのだ。それは、本誌の企画編集委員の方もいっていたが、自分の家のまえの道路を掃除するようなことからはじまる。また全国一律の内容のテレビ番組ばかり見ているのではなく、すこしは自分の街の歴史なり文化について興味を持つことだろう。
 そのことで手づくり観光をあいだに、観るほうと観られるほうのふれあいが深まり、また再び会ってみたい関係が生まれる。こうした人びとが街にあふれる。これこそ、貴重な無形の観光資源なのだ。私は、そう思う。
 私は、埼玉県の浦和区に住んでいるのだけど、北区には、そのような観光で知り合った、また会いたくなる魅力的なひとが何人かいて、こうして書いていると、発作的に行きたくなって困る。
 ようするに手づくり観光は、「ひと」それも他人ではない自分が決めてなのだ。(文=フリーライター 遠藤哲夫)

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2011/05/20

いよいよ第4コーナー、ラストスパートか?

日にちが、疾風怒涛のように過ぎ、15日の日曜日に更新したあと、放置状態で、もう金曜日。

月曜日の夜は、地元の若き乙女二人がウチに来て、やさぐれパーティーをやった。おれが出演の、このうえなくくだらないdvd「全日本オヤジ選手権」を見たいというので、チエさんがプロジェクターまで持参。これで、壁に大写し。いやあ、迫力で、くだらなさもひとしお。とりわけ、なんですね、AV女優さんが、やっぱりパソコンのモニターなんぞで見るより、はるかによろしいわけで。

で、おれはやさぐれ料理をつくって、やさぐれそうめんサラダにやさぐれおでんにやさぐれお好み焼きですが、なかなかよいやさぐれ度で楽しめた。0時すぎまで、あれこれオシャベリしたです。

翌17日は、現在原稿書きまくり中の本の担当編集さんと打ち合わせ。16時に王子のカフェ。すでに少し前に出来上がっていた分は、前もって渡して見てもらっていたので、アドバイスなどいただき、大助り。それで、さらに、やる気むんむんのテンションがハイ。とにかく、今月末までに仕上げる。

出来上がっている分は、150ページ分ぐらいだそうで、じつは、この本、ぜんぶで何ページになるかわからんので、だから、何分の1ぐらい仕上がったのかの見当はつかない。

こんども文庫本で、『汁かけめし快食學』の本文は360ページぐらいだったのだが、読むのが自分でも面倒だからそんな原稿量にはしたくないし、こんどは写真もたくさんあるので、原稿量は少なくなると思うが、となると、なにしろ、めったに本を出さないのだから、イザとなると、あれも書いておきたい、これも書いておきたいと、気ばかり膨らんで困ったものだ。

とにかく、31日まで書いて、時間切れのところでやめちゃおう。といかないのが、また困ったものだ。

などとやっておりますのです。

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2011/05/15

東大宮、山田農園のさやえんどう。

Dscn0094a近所の農園のさやえんどうを買って食べた。

ウチから東大宮駅へ行く途中に東北原公園がある。その隣、といっても、三方向の隣だから、ほぼ囲むように農地がある。桜の季節の前から菜の花が咲く。山田農園と呼ぶらしい。

その一か所の畑で、毎年いまごろから、収穫したものを売っている。畑の道路際に、台を置いて、とれたての野菜を並べ、女のひとが座っている。

以前に一度、じゃがいもを買ったことがあった。また何か買いたいと思っていたが、いつもその前を通るとは限らないし、いつも売っているとは限らない。

きのう、スーパーで買物した帰り、たまたまそこを通ったら、売っていた。しかも、売っている女のひとは、じゃがいもを買った時のおばさんではなく、高校生ぐらいの感じなのである。畑仕事用だろう、着古した服装が、いちだんと素朴で純情な感じで、オヤジの心をくすぐる。

ってことじゃない。いや、そうか。とにかく、台の上には、プラスチックの小さなザルに盛り分けて、さやえんどうが売っていた。見れば、さやえんどうとわかる。だけど、オヤジは、女子高生と口をきいてみたくて、「あっ、これ、さやえんどうだよね」なーんて言っちゃうのだった。すると当然「そうです」という返事ですよね。

ひと盛り100円の値札が出ていた。オヤジは緊張しながら、指差して「ください」。すると、女子高生は、立ち上がろうとして、なぜか転んだのである。おや、もしや、おれが、そんなに素敵なオヤジなので、あわてたのか。

彼女は転んで素早く起き上がると、後ろの方へ走る。どうやら、入れる袋を取りに行ったらしいと察したおれは、「袋は入りません、これに入れて」と、手にしていたスーパーの袋を差し出した。

彼女は、戻ってきて、馴れない手つきで入れる。それを見ているおれの心は・・・。おれは、このまま帰るのが惜しい気がして、「これから何がとれるの」ときいた。彼女は、指折り数えながら「じゃがいも、とまと、なす…」というぐあいに、この100円のさやえんどう買うにしても、たっぷり楽しみ、妄想し、帰ってきた。

そして夜、晩飯のしたくのとき、袋を開けると、さやえんどうの香りが、これは夏の香ですね。ふわ~~っと、漂うのだった。おおっ、やはりとれたてはちがう。うまそう。

さやえんどうのスジを取りながら考えた。子どものころは、そのスジ取りの手伝いをさせられるのがイヤだったものだが、いまでは、けっこう楽しんでやっている。しかし、それにしても、あの高校生と思い込んでいた女のひとは、ほんとうに高校生なのか。もしかすると、日よけのつばの広い帽子でわからなかったが、もっと年上の嫁さんかもしれない、という疑惑がわいた。

さやえんどうは、半分は、みそ汁、半分は、炒め物にした。新鮮なさやえんどうの味覚は、どう考えても、さわやかな初夏の、女子高生だった。

テーブルの反対側の同居のツマに、何気なく「あのさ、このさやえんどう、あの畑で売っていたんだよ、高校生が売っていた」と言うと。ツマは「このあいだも高校生が売っていたよ」と言った。やっぱり女子高生なのだ。おれは、顔に出さないようにニンマリ。勢いよく、さやえんどうを食べた。

ほんと、オヤジってのは、しょうがないですな。でも、こういう畑が近くにあるのは、うれしい。

写真のさやえんどうは、洗う前だから、よごれがついたまま。下の公園の写真は、4月に撮影したもので、奥の向こうに菜の花が見える。その畑で、売っている。右側も山田農園。左側にも、見えないが菜の花が咲く、山田農園の畑がある。

Dscn9944a

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2011/05/12

facebookで「雲のうえ」ファンクラブがスタートしました。よろしく、よろしく。

2011/02/01
人気の「雲のうえ」だが、もっと応援したい。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2011/02/post-32ba.html
で紹介した、ファンクラブのサイトですが、なかなかコメントを反映しづらいなど、あーだこーだあって、facebookで再スタートになりました。
ご迷惑かけてすみません。
どうか懲りずにおつきあいください。

こちらがURLです。
http://www.facebook.com/kumonoue.fan
とりあえず、「いいね!」ボタンをポチッだけでも、よろしくお願いします。
なるべくなら、facebookに登録のうえ、投稿やコメントをいただけるとうれしいです(これでファンクラブ参加ってことですね)。
ここではお互いの交流もできるし、「雲のうえ」をネタに何か遊ぶ相談もできます。いくらいい雑誌でも、見て読んで終わりだけじゃ、もったいないですからね、いろいろやりましょう。
そして、発行回数が減ってしまった「雲のうえ」を、もとのように増やすよう、エールを送りたいですね。
ゆるゆるデレデレ、雲のうえにエールを送りながら、楽しくやりたいものです。
みなさまのブログやツイッターなどでもご紹介いただけると幸いです。

なお、前のファンクラブのサイトにあった、呼びかけ人などを、転載しときます。でも、あまり気にすることないです、カタク考えないでください。気軽に。

発起人(以下五十音順)
石田千/作家
遠藤哲夫/「大衆食の会」代表・ライター
大熊健郎/「 CLASKA」ディレクター
大竹聡/「酒とつまみ」創刊編集長・ライター
瀬尾幸子/料理研究家
築城則子/「遊生染織工房」主宰・染織家
南陀楼綾繁/「不忍ブックストリート」代表・ライター
山際千津枝/料理研究家

「雲のうえ」は、変わりゆく北九州市という街の現在を伝える雑誌です。
2006年10月に創刊し、現在まで、大衆の酒場である「角打ち」、市民の台所「市場」、市の経済を支える屋台骨である「工場」、地元に愛され続ける「銘店」など、毎号ひとつのテーマを取り上げ、街のすがたをレポートしてきました。
今までに13号を発刊、来年1月には第14号が発行予定です。

編集委員は、小倉出身の画家の牧野伊三夫、アートディレクターの有山達也、編集のつるやももこの3名。毎号、新たな執筆者と写真家を迎え、本づくりがなされています。

創刊から4年。来年には5年目を迎え、着実にこの本のファンが増えてきています。
市内・県内はもとより、東京の各所からも、“雲”が大好き、本から伝わる街の雰囲気に興味津々、北九州市へ行ってみたい……などの声が聞かれます。なかでも多いのは、発行号数が年4回から2回に減ってつまらない、さびしい、もっと読みたい、年4回の発行に戻してほしいという声です。

「雲のうえ」を好きな仲間がこんなにたくさんいるのなら……、
というわけで、この度発起人8名でファンクラブを作り、会員募集中です!
“雲”の輪をどんどん広げて、「雲のうえ」と媒体の母体である北九州市を応援しませんか。近日開設のホームページのなかで、コミュニティを広げていきたいと思っています。

会員規約

一、三度のめしより「雲のうえ」が好きだ。だけど、食堂に行ったらめしは大盛りにしたい
二、次回の角打ち特集にはぜひ出演したい
三、9号の祭り男に会ってみたい
四、松本清張が食べたラーメンを食べてみたい
五、大人の社会科見学を読んで工場萌えした
六、「魚部」に入りたい
七、7号を見て俺もそろそろパンチパーマにするかと考えた
八、あの人といっしょに私も旦過市場を歩いてみたい
九、島に上陸してみたい
十、10号のあのアップルパイを独り占めしたい
十一、スナック「雲のうえ」のママになりたい

みなさまのご参加をお待ちしています!
なお、応援の輪を広げるためにあなたの友人・知人もお誘い合わせのうえご参加ください。

「雲のうえ」ファンクラブ発起人一同。

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2011/05/11

やっと8日のブログを書上げ、facebookに挑戦。

え~、どうもすみません。「文章あとで」と書いたまま放ったらかしの前のエントリー、「日本は終了しました」と復活、幻堂出版、神戸から。」を書き上げました。

そして、きょうは、facebookに登録しちゃいました。

ホームページとブログとツイッター、さらにフェースブック。そんなにやれるのか?どれか放置プレイになっちゃうんじゃないか。わっかりません。

ホームページが、いま放ったらかしなのは、パソコンのOSが変わったら、これまで使用していたホームページビルダーを使えなくなったからで、ほかに方法があるらしいのだけど、ベンキョウがめんどうなのでほってあるのです。

とにかくまあ、こんなにやってしまって。いろいろやっている人は、それぞれメディアの特性と用途を理解して、使い分けている人が多いようだけど、おれは、そういうことを考えるのもめんどうなので、テキトウなの。

どうなりますことやら。

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2011/05/08

「日本は終了しました」と復活、幻堂出版、神戸から。

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文章は、あとで。と、書いたまま、もう11日。ほんと、忙しいというか。不安定なご時世で、消耗することが次々と。その中で、今月末が締切りの次の本の原稿を、着々と進め。ま、原稿のほうは、調子にのって、いまや佳境という感じで、いいテンションで進んでいる。そこに突発的に消耗する用が飛び込んでくる。てなあんばいなんざんすよ。

さてそれで、遅くなったが、しばらくのあいだ鳴りひそめていた、幻堂出版のなかのしげるさんから、ひさしぶりの便りが届いた。復活、幻堂。以前は明石だったが、神戸に移って、幻堂〈新〉出版。さっそく、作品をいただいてしまった。

ひとつは、炭子部山貝十さんの、つうかいまんが「バンプおやじ」。炭子部山貝十さんの漫画をみるのもひさしぶりなんだが、すごくおもしろい。こういう言い方をしてよいのかどうか、以前より、ぐーんとうまくなった。冴えている。「つうかい」というけど、さらに「ブラックつうかい」という感じで、おもしろい。笑える。いいですよ。

で、この表紙には、「マガジンNo.1ふろく」とある。ってことは、どうやら、「マガジンNo.1」という本体があって、そのふろくらしい。とにかくふろくをつけてしまう、幻堂流健在。ふろくはまだあって、「マガジンNo.1」シールだ。これを見ると、どうやら、「マガジンNo.1」は炭子部山貝十無責任編集というものらしい。あいかわらずアナーキーにおもしろく遊んでいる。

Dscn0089aまだあるのだ。幻堂謹製「日本は終了しました」缶バッジ。これは、どうやら、どこかのビルの「本日は終了しました」のサインをいじったものらしいが、なんとよいタイミングだろう。なかのさんの手紙には、「同封の「顰蹙缶バッジ」のように日本終了はいよいよ夢ではなくなってきました」と。ブラックに遊んで、おもしろい。

そして、まあ写真の釘煮を見てください。いまが旬で、これをくわなければ、明石人神戸人じゃないという釘煮。これ、材料の魚は、このあいだ茨城あたりじゃ放射能汚染で売れなくなったアレですが、これはタブン兵庫の瀬戸内海で獲れたものでしょう。これも幻堂謹製ですがな。そして、チョイと写真では読みにくいけど、シールの釘煮の下に横で印刷された文字には、「原稿料は「釘煮だ!」と。もう、ギャハハハハハ、ですよ。

この釘煮は、手紙に「年末から編集予定の「何雑ファイル・地の巻/素敵なオッサン」には、是非ともエンテツさんの原稿を熱望いたします」とあって、ようするに原稿料の先払いなのだそうだ。ほんと、ギャハハハハハ、ですよ。こんなおもしろい幻堂出版といえば、やはり「何雑」だから、もちろんよろこんで書かせてもらいますよ。

ああ、しかし、このクソ忙しいなか、ほんとクソおもしろい幻堂出版なかのしげる復活、元気に遊ぶようすが届いて、気分痛快。まずは原稿終了、そして、日本終了まで突っ走ろう。

ああ、そうそう、もう一つ。「なにこれ?新展開! 文芸新書&グッズ」ってのだ。青井英代短篇小説集2『毛虫の話』。そして例によって、一度でいくつもオイシイふろくは、見覚えのある豆あやさんの絵の缶バッジとステッカー3種! こちらは、まだもったいないくて開封してない。いずれ、退屈したときに開けて楽しもう。

いやあ、ほんと、おもしろいねえ。ありがとう、なかのさん、幻堂出版。

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2011/05/06

古墳トーク@東京カルカルのライブレポートがアップされました。

4月24日、東京カルチャーカルチャーで開催されたトークライブ、『古墳めぐりの旅~はにわの魅力をたっぷり味わおう!』のライブレポートがカルカルのサイトにアップされました。「古墳ブーム間近!古墳と切っても切れない「埴輪(ハニワ)」を存分に語りまくり!」・・・クリック地獄

ご覧ください。おれは、やっぱり、ただ飲んでいるだけの画像だけどね。 群馬の保渡田古墳群と埴輪を中心に、たっぷり語っています。

これから暑くなって蚊が出るまでは、「古墳浴」に絶好ですよ~。

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2011/05/04

小沢信男さん『本の立ち話』は、小沢さんならではの話がてんこ盛り。

Dscn0081a小沢信男さんから、新刊をいただいちゃったのである。もう2週間以上前のことで、それから2回も読んじゃったのである。

前回の『東京骨灰紀行』は、出版社の筑摩書房の編集の方からいただいた。この本も、もう素晴らしく、2009/09/09「小沢信男さんの新著『東京骨灰紀行』筑摩書房から。」に紹介した。

そして、この本は、朝日新聞の「ゼロ年代(2000年ー2009年)の50冊」に選ばれたのだ。もう小沢さんは、おれのようなものが「小沢さん」なんて気安くいっちゃいけないような大先生である。だけど、いっちゃうけどね。

ま、それで今回の『本の立ち話』(西田書店)。

おれは、不精というか礼儀知らずというか、両方だけど、引越しをしても、新住所のお知らせなど特にしてなく、成り行きまかせで、小沢さんにも連絡してなかった。そんなやつにも関わらず、小沢さんは、前の住所に送ってくださり、当然そこには住んでいないから送り返されたものを、おれの住所をほかの人に聞いて、ところがその聞かれた人にもおれは住所を知らせてなかったものでメールでたずねられ、そんなことでいろいろ面倒かけてしまった末に、送り直していただいたのだった。ほんとに、もう大先生に、冷や汗ものです。

で、この『本の立ち話』、タイトルからしてよいけど、腰巻にある惹句もいい。「行く先々に本があって人がいた」。作家を気取らない、だけど、本や文学や人を愛する小沢さんの気持が、しみじみ伝わるような。

まず「あとがき」から紹介したほうがよいでしょう。

「かえりみれば多年ほそぼそと雑文渡世をつづけてこられて、幸運でした。積もり積もってふくらんだファイルから、書評、解説、跋文、読書随想の類をひろいだして一冊にしてみないか。という機運がふいに生じたのも、かなりの僥倖だ。さっそく、いさんで編んだ本書であります」

「題して『本の立ち話』。つまり対話。あるいは路傍で何人かとの、ほんの雑談。ベンチに掛けるか、芝生にすわりこめば長ばなしにもなるでしょうが。ゆめゆめ独り言でも、演説でもない心づもりなので。ですから、いまこの「あとがき」から立ち読みしていらっしゃるあなた。ぜひお買い上げください。あなた。」

というぐあいで、本文の文章の調子も、こんな感じで。こういう小沢さんの文章を「洒脱」とかいう人もいるようだが、そうかなあ。とにかく、けっこう難しい話をしているのだけど、大上段に構えることなく、まさに読者に向かって「演説」をぶつことなく、わかりやすく気楽に読めちゃうのだ。

しかし、ほんと、さわやか快調ともいえる文章に、なかみは、ズッシリしている。2回も読んじゃったけど、まだ読み尽くしてない感じだ。そして、読むと、ここに登場する本や作家の本を、読みたくなってしまうから、困るんだなあ。いま、忙しくて、そんなことしているヒマはないんだけど、ついつい永井荷風さんを引っ張りだしたり、小沢昭一さんや谷川俊太郎さんを引っ張りだしたり。知らない詩人のことをネットで検索したり。

本文の最後は「『東京骨灰紀行』を書いて」だ。たぶんこれは、「ゼロ年代の50冊」に選ばれたあとだろう。きょねんの5月23日に朝日新聞に寄稿した短文。それは次のように終わる。

「いまやグローバルに競う巨大都市化が、たぶん諸処でゆき詰まるだろう二十一世紀の波頭に、泡粒の私がいます。あなたも。」

登場する本や作家の、名前だけでも、ここに紹介したいのだが、いまチョイと書いてられない。とにかく小沢さんは、たぶん『東京骨灰紀行』までは、知るひとぞ知るという感じで、一般的には、それほど有名人ではなかったと思うけど、戦後すぐから長いあいだ「文学運動」に関わってきた、その分野では「重鎮」ともいえる存在で、小沢さんでなければ書けないことが、てんこ盛りなのだ。そして、詩、ルポルタージュ、評論、エッセイ、小説、俳句など幅広い創作活動を続けてきた小沢さんならではの、洞察力や批評力が、そこここにふんだんに盛られている。

小沢信男さんは、関東大震災から数年後の1927年生まれ、まだ下町の雰囲気だったであろう新橋で生まれ銀座の泰明小学校に通い、東京大空襲下を生きた。80歳をすぎて、ますます好調の頭脳と文章。

『本の立ち話』と同時ころ、『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』という本も出ている。そのチラシには、こんなぐあいに書かれている。

「現役最長老級、今年84歳の作家・小沢信男さん。いまも軽快に町をくまなく歩き、旺盛に創作活動を続けておられる・・・」「笑いとカンシャクの人、小沢信男さんの仕事と人生と文学運動の全貌を・・・」

とりわけ「笑いとカンシャクの人」に笑ってしまった。おれも、一度だけ、カンシャクを爆発させたところを目撃したことがあります。

とにかく、愉快で素敵な84歳。

で、ようするに、きょうは、このことを告知したいのですね。

5月6日(金)19時から。千駄木の古書ほうろうさんで、「小沢信男・大村彦次郎トークイベント「本の立ち話」 」があります。こういう機会は、めったにないと思うので、ぜひ。
http://www.yanesen.net/horo/info/detail.php?id=78

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2011/05/01

太田尻家@経堂、開業7周年運動会、泥酔記憶喪失帰宅。

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この大型連休の最中には、毎年恒例、世田谷区経堂の大衆食堂的バー「太田尻家」の開業記念運動会がある。2005年の最初の1周年記念から、たしか欠かさず参加してきたと思うが、きょねんは直前に足首を捻挫したので行けなかった。ことしは、29日にあったので参加した。場所は、いつものように砧緑地。

渋谷へ出て、東急田園都市線の用賀から歩いて十数分。とにかく、まいどのことだが、遠い。なので、ついでに、まずは新宿でブラブラのち一杯、渋谷でブラブラのち一杯とやっていたら、着いたのが17時半近く。日没間際だが、運動会は、いつもこのころから太田尻家的蹴球で盛り上がって終わるのだ。

どのみち、おれは運動はせずに、酒を飲むだけ。すでにほろ酔い加減だったが、福島の喜多方の酒があるというので、いただく。生原酒でうまい、最後の1合半ほどを飲み干す。

運動会終了後は、経堂の太田尻家へ移動して打ち上げ。たいがいの人は自転車だが、徒歩の人も3人ほどいて、バスで千歳船橋に出て小田急で経堂へ。

あとは、もう飲んでおしゃべりです。

太田尻家は、7周年だそうだ。この、経堂の古い商店街のすずらん通りの奥に、太田尻家ができた頃は、まだ銭湯もあったけど、シャッター街になりかかっていた。それが、まったく変わって、何かから脱皮するような、小さな新しい店が次々生まれ、すっかり賑やかになった。その先鞭をつけたのが、太田尻家ともいえそう。

ま、都心の新宿から下北沢、下北沢から経堂へと、地代や家賃の安い外側へ移動する経済が、長く続く不況の影響もあって、ちょうど経堂あたりに条件が重なった時期だったかも知れない。

とにかく、あまり条件のよくない時期に、まったくの素人から始めた単独個人店が、7年続いたのだから、もちろん、そう簡単にアウトになっては困るのだが、たいしたものだ。そうそう、この1年のあいだには、素晴らしいレシピ集も、製作し発行したのだし。けっこう、けっこう。ってことで、とにかくガンガン飲みました。

で、たちまち泥酔状態。何時ごろだったか、仕事があって途中から参加したO嬢が駅まで送ってくれて、改札でバイバイとやったのは覚えている。O嬢と2人で歩く機会は何度かあったのに、いつも泥酔状態で、モッタイナイ。

経堂からあとは記憶喪失帰宅だった。

いま書いたように、きょねんは参加しなかったが、おととしは5月2日だった。その日、忌野清志郎さんが亡くなった。この日の写真も、蹴球をしているところ。
2009/05/03
忌野清志郎が逝った5月2日、大田尻家運動会in砧緑地。

来年の運動会を楽しみに、また一年過ごしましょう。

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