« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011/06/30

祝、四月と十月文庫『えびな書店店主の記』蝦名則著、港の人から刊行。

2011_018b以前に何度か書いた。牧野伊三夫編集長の美術系同人誌「四月と十月」の文庫本が発行になった。一冊目は「四月と十月」に、「美術の本」を連載している、東京都小金井市の古書店、えびな書店の店主・蝦名則(えびな のり)さんの著書だ。

蝦名さんについては、「四月と十月」から引用しよう。……1950年青森県生まれ。美術・工芸雑誌の編集者を経て、1982年古書店開店。1987年古書目録「書架」創刊。

その「書架」に書かれていた編集後記が、本書には多く収録されている。主に、絵と音楽と本と旅といった感じの、記録的なエッセイが中心だ。それに、思い出の人々。

絵も音楽も古書も、門外漢のおれには、よくわからない話が多いのだが、わからないなりに読めちゃう。文章が飾ることなく素直なのだ。そして、パリやベルリンでの食べ物の話を読むと、蝦名さんて、けっこう味にうるさそうと思ったり。そうやって、すらすら読めた。

2011_019aなんといっても、装幀・装画それにデザインが絶妙。うーん、この絶妙さ、どう表現したらよいか。とにかく、装幀・装画は牧野伊三夫さん、デザインは青木隼人さん。

近頃の、文芸的なおしゃれな本というのは、モノとしての本のデザインに凝りすぎというか。造本が一人歩きしているように感じることがある。華美ではないし、むしろ逆なのだが、工芸品的あるいは装飾品的な方向に走りすぎという印象を持っていた。

簡素だけど高級感があるというか、「暮らし感」に欠ける。そして、おれのような下世話者は、近寄りがたい、「文芸」というものが醸し出す、アレ。生活からかけ離れた、「キリッ」とした、気取りを感じるのだった。生活クサイところを排除するのが、アートであるかのような。

2011_021aしかし、この、四月と十月文庫である。まず、文庫というが、普通の文庫より、タテヨコとも少し大きい。これが、手に持った時に、絶妙なのだ。ま、手に持ってみてよ。その質感が、なんともいえん。そして、本文のデザインの、なんていうのか、まわりの余白の間のとりかたも絶妙。

手にしているだけで、ほんのりあったかい気分になってくる。これは、あきらかに、牧野マジック。これぞ、生活の中のブックデザインだ。

おれは、手にして、パラパラやっているうちに、なぜだか、なんだか、八重洲の「ふくべ」を思い出した。ふくべの空間と、白いとっくりを、思い出したのだな。

そのまま、牧野さんに、ふくべを思い出したと、メールした。

最後になったけど、編集は、成合明子さん。

出版を記念してトークがあります。
2011/05/25
四月と十月文庫1『えびな書店店主の記』出版記念トークイベント。

ブログ「港の人日記」
http://d.hatena.ne.jp/miasiro/

えびな書店
http://www.ebinashoten.jp/

最後に「ふくべ」です。高級・低級、上品・下品を超越した、生活のニオイを排除せずに抱き込んだ「品」というものが、ありますな。この男にしても・・・。
R0018783a

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/29

「浅草天丼」ダイナミズム論。

日頃から整理は悪いし、書いたものに執着も未練もないし、自分が、何にどんなことを書いてきたかなど、どんどん忘れてしまう。たまたま見つかったので、ここに載せておく。載せて、載せたことも忘れてしまうかも知れないが。

これは、2004年8月発行の『散歩の達人』ムック「THE下町情緒」に書いたもの。いまなら、もう少しうまく書けると思うが、なーんてことはないかな。とにかく、そのまま、載せる。以下、最初のリード文から全文。タイトルは、「「浅草天丼」ダイナミズム論。」だ。


浅草歩けば天丼が気になる。天丼を名物に掲げる店が大小問わずやたら目に付く。
「天丼食べよう、天丼」と叫びながら行き交うグループがいる。
天丼のために一時間も行列する人がいる……。

 例えば『まさる』。行列ができる有名店だ。丼の容積をはるかに超える量の天ぷらが豪快に盛りあがり、丼のふたは上にのらないから、飯に差し立てて出てくる。そうだ。浅草天丼は、天ぷらがデカく量がすごいのだ。蕎麦の『尾張屋』もデカイ海老天の天丼が大人気。『天健』もデカイかき揚げ天丼で知られる。
 デカイが、いいのか!
 うん、確かにばかげた巨量は、ワッショイ景気づけになる。非日常的祝祭的盛り場では、有名になる条件のひとつだ。雷門も、あのデカイ提灯がなかったら、ただの門って感じだし。
 そして、浅草といえば伝統。古い暖簾を誇る店が連なる。天ぷらの『三定』は天保8年(1837)創業。天ぷら料亭の『中清』は幕末の屋台に始まる。蕎麦の『尾張屋』は明治3年(1870)創業。などなど。なかでも、観光人力車が「チョー有名な天ぷら屋」と説明する、明治20年(1887)創業の大黒家は、本館の周囲に強烈なゴマ油の匂い。江戸の伝統は天ぷらをゴマ油で揚げる。それに、天丼の命、タレがコイイのだ。“天丼は甘辛くて濃厚なタレが特徴。この独特の味付けは創業以来変わらない味を誇っています”。うむ、堂々の浅草の主張だ。本当にコイイぞ。そういや、『並木薮蕎麦』も、どじょうの『飯田屋』も濃い口が有名だ。
 コイイが、いいのか!
 うん、これが、いいのだな。昔から。なにかの本で読んだ、昭和初期ごろの話だ。工員だったか小僧だったか、浅草へ行って丼を食べるのを楽しみに、普段は飯に醤油かソースをかけて食べて小遣いを貯めたという。そんな彼らが、浅草を愛し、コイイ味を支持してきたに違いない。そもそも浅草は、浅草寺からして肉体労働者大衆の信仰の寺として栄えたのだ。いいじゃないか。額に汗して働く、健康な大衆の味覚が伝統だなんて。
 ところで天丼にのる天ぷらは、江戸末期から明治の頃、屋台を中心に下町庶民の新しい食べ物として普及した。材料として使われたのは、江戸前の魚の他、小麦粉やゴマ油など近在の産物で安価なものだ。これに「野田」や「銚子」で知られる、関東の濃い口醤油を、惜しまずに使うのが自慢だった。デカイは観光用かもしれないが、コイイは下町に根付いていたのだ。
 そして今も、いかにも旨そうにデカイコイイ天丼にかじりつく、お馴染みさんらしい老人をよく見かける。皆キリッと元気がいい。若い関西芸人も「慣れました」とガバガバ食っていたぞ。この100年以上続く伝統の味に挑んで弱音を吐くようなやつは生命力が衰えているんだろうな、きっと。

 にしても、下町庶民の味にしては、浅草天丼はチト高くはないか? いや、天丼が千数百円から二千数百円なんて、ゼッタイ高い、と俺は思った。だがしかし、『まさる』の天丼2800円は「大入り江戸前天丼」の名に嘘はなく、アナゴ、白身魚、海老がドドーンとのっている。『大黒屋』の海老天丼1800円もかなり豪華。『尾張屋』はデカイ海老天が堂々2尾入りで1400円。貧乏性の俺は『てんや』の490円天丼との比較で考えてしまうのだったが、すると、そんなに高いわけではないことがわかった。『てんや浅草店』もあるが、値段、大きさ、味ともカワイク思えてきて、「浅草天丼」とは言えない。結論。高い天丼を、あれだけ大量の客いん食わせ「ボロイ商売」をしていると思った俺は、財布と脳の薄い男に過ぎなかった。小遣い貯めてデカイ気分で臨むとしよう。
 ま、評価は人それぞれだろうが、俺にとって生涯記憶に残る大きさと味だ。それだけでも満足。店から出て「すごかったなー」と頷きあっている人たちがいたが、きっと同じ気分なのだろう。身体に焼きつく“デカイコイイ衝撃”。これこそ、観光地・浅草の醍醐味なのかもしれない。うむ。

Dscn0159a
イラスト=溝口イタルさん

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/28

ゲラも無事にもどして、生ビール。

きのうは、大衆食堂本のゲラのもどし日だった。宅急便で送るには、前日の昼頃までに作業を終えなくてはならないのだが、とくに使用する写真の選択や、紙焼をスキャンしてデータ化するのに、意外に時間をくったし、校正の直しも気になるところがあったし、持参することにして、昨日の昼頃まで作業した。

14時すぎにウチを出た。時間の余裕があるから、御徒町で下車した。出版社は蔵前にあって、いつも浅草橋を利用していたが、チョイと佐竹商店街あたりが、どんなあんばいか、ぶらぶらしてみようというわけだった。

御徒町から昭和通りを渡ったあたりの問屋街も、不景気なりに、安物を求めるひとたちらしい姿が、けっこうあった。佐竹商店街は、10年前ぐらいに比べると、開いている店が増え、寂れた感じは、いくぶん薄れていた。都心部に少ない、アーケードの立派な商店街だが、生活まわりの商店街なので、もっと元気になってほしいねえ。しかし、都心の高齢化の反映か、ジジババ物の店が目だった。

三筋から蔵前のへんでは、蕎麦屋が多いようだと気がついたのだが、どうなんだろう。このあたりは、浅草や人形町あたりとは、またちがう下町の雰囲気がある。

出版社には16時ごろ着いた。担当編集女子にゲラを渡しながら話ができてよかった。やはり直接あって話すのが一番だ。あとの段取りも含め、1時間近く打ち合わせ。

終わって、トウゼン、酒とつまみ社へ。ナベさんのツイッターを見た感じでは、『酒とつまみ』14号の印刷入稿が山場らしいが、どんなぐあいか。行ってみると、サイカメさんもいて、本当に入稿日だった。叱咤激励し、ってことじゃなく、そのへんに散らばっている、めったに見ない雑誌などを見ながら、ソファーでの寝転んでいたら、少しウトウトしてしまった。寝不足だったからね。

なんと、大竹さんもあらわれた。これって、すごい偶然。酒つま3人トリオが揃ったのは、おれが1月26日に、本の原稿に取りかかる前の構成の打ち合わせを出版社でやり、やはり帰りに酒つまに寄って、一緒に西口やきとんへ行ったとき以来なのだそうだ。こんなむさくるしい男たちと、偶然そろったところで、うれしいわけじゃないが。

みなさんは入稿のため酒を飲むどころじゃない。おれは鶯谷の信濃路で一人酒を飲むべく辞す。秋葉原で乗り換え。下りのエスカレーターに乗った。途中までくると、反対の上りに乗っているカワイイ女子が、まだ下のほうから、しきりに手をふる。おれじゃなく、誰かほかのひとにふっているのだろうとボンヤリ見ていると、すれちがうころに気がついた、佐々木嬢ではないか。この広いひとの多い都心で、なんという偶然。

彼女は、上までいって、下りに乗り換えてもどる。早速、飲む話はまとまる。彼女は、20分ぐらいしか寝てないそうで、テキトウに飲んだ。ゲラをもどした祝杯に、酒つまのむさくるしい男たちと飲むよりは、大いにシアワセな偶然だったな。生ビールがうまかった。

とにかく、これで、よほどのマチガイがないかぎり、9月発行のスケジュールで爆進する。原稿用紙にして約400枚ぐらいか、よく書いた。ゲラの直しも短い日数で難行苦行だった。次の難行苦行は再校だ。しかし、これまでの難行苦行に比べたら、体力的にはグッと楽になる。

この間に、牧野伊三夫さんから、四月と十月文庫初刊行の『えびな書店店主の記』(蝦名則著、港の人)。ハーベスト社の小林達也さんから『中越地震被災地研究からの提言 未来の被災地のために』(辻竜平著)を、いただいている。どうもありがとうございました。後日、紹介します。

本の原稿に取りかかったのは、1月26日に構成を確認してからだった。それまでのことは、2011/06/02「次の大衆食堂本。本文脱稿、9月刊行のスケジュール。」に。

そのあとは、2011/06/18「梅雨本番、本のゲラが出て、引きこもり、」

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/23

おれの胃袋の校正、いよいよ大詰め。来月発売の『大阪人』よろしく。

Dscn0141a本の校正が進行中、ほかの雑誌などの校正や、短い原稿を書いたり。日々、汗をたらし、生ビールを飲み。泥酔とも付き合いながら、少しずつ片付いていっているようだ。たぶん。

きのう、来月16日発売予定の『大阪人』9月号の校正をもどした。これは、特集「旅する24区」に寄稿の、「おれの胃袋の大阪と東天下茶屋」というもの。

『大阪人』は隔月刊、いま発売中の7月号から、編集体制が変わり誌面もリニューアル。かつて、京阪神エルマガジン社の「ミーツ・リージョナル」などで腕をふるった、ミーツの元編集長・江弘毅さんや中島淳さんらが率いる、手練の編集集団「140B」が担当している。

表紙などアートディレクションは、長友啓典さん。連載陣に、内田樹さんや町田康さん。7月号には、中沢新一さんや岡田武史さんといった顔ぶれも登場し、なんだか、ステージが高そう。

なのに、トツゼン江さんから電話があって、おれのようなフリーライターが書くことになった。電話で気軽に引き受けて、送られてきた企画書など見たら、「旅する24区」は、区ごとに書き手が異なるのだけど、みんな「手練の書き手」ばかり、錚々たる顔ぶれなのだ。おれはビビって小便ちびりそうになりました。

江さんや中島さんとも、一度一時間ばかり話したことがあるぐらいで、仕事をするのは初めてだし、手練としては実績を積んでいる方々なので、ほんま、恐る恐る原稿を仕上げて送った。

書き手が書きたい区、区全体のことでなくワンポイントでもいい、一軒の店のことでもよいというので、おれは、かつて1年近く住んでいた東天下茶屋にした。ここは、阿倍野区になる。「東天下茶屋」の「天下」は、「てんが」と濁って読む、ということは、住んでいたから言えること。

ま、原稿は無事に一発でOKをいただき、イラストレーターの方も、すばらしい方をつけていただき、進んでいるわけです。

校正を見て。うん、いいじゃないか、なーんだ、いいじゃないか、ほんま、ええで。と、強気に、なっている。なんか、7月が楽しみなのだ。

でも、いま校正では、自分のだけ見ているわけで、発行なって、ほかの手練の方々と並んでいるのを読んだら、やはり、けっこう見劣りするのだろうなあ。いつも、おれは文章のベンキョウなんかしたことがない、なんて恥知らずを言っているが、やはりちゃんとベンキョウをしておかなくては、と、思うのだが、酒を飲むと忘れる。

Dscn0144aそりゃそうと、本の校正のほうは、大変。とにかく書きすぎて、大幅に削らなくてはならないから、大胆にカットしているだけじゃ追いつかないんで、構成を変えた。すると、文章の流れが変わってしまったから、あっちをいじり、こっちをいじり。しているうちに、一時は終始がつかない状態になるんじゃあんめえかという感じになった。が、今日は朝からふんばって、なんとかうまくまとまりがつきそうな見通し。やれやれ。

おれは、なんに対しても、あまり未練や執着をもたないもので、苦労して考えたすえのプランや構成でも、パッと捨てちゃうのだが、一緒に相談して決めてきた編集さんは、おれが勝手に変えてしまった構成を見て、びっくりするだろうか。でも、まあ、いい方に変わった、ハズ、だからな。と、手前味噌の判断をして、先に進む。

あと問題は、これに使う写真だ。以前使っていたパソコンでバックアップをとっておいた、外付けハードディスクの中にあるのだが、そのパソコンが壊れて、いま借りて使っているパソコンは、OSが違うため、復元できない。

残り、日曜日まで。なんとかしなくては。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/22

深沢七郎。

つぎの本の校正の合間に、深沢七郎『百姓志願』(1968年、毎日新聞)を読んだ。深沢が埼玉に移住し農業を始めた頃のものだ。「もうかる農家」をめざして、農業に機械と化学肥料や殺虫剤の導入が始まって10年ぐらい。深沢と近所の農家の会話から、この間の農業と農家の変貌が生々しい。

明治から続いている地元の有力者の農家の男性が言う。「農家なんかなくしちゃって、機械をどんどん外国へ持っていって、安い米を買えば一番いいと思うんですよ」。かつてソニーの井深が言った、つまり財界の主張そのままが、農家の言葉になっている。原発行政が、これと同軸であるのはいうまでもない。

おれが深沢を好きなのは、文芸や情緒におぼれたり陶酔しない自分を持っていたからではないかと思う。ペダンチシズムとも無縁である。ひょうひょうとしながら、鋭く対象をみる。

最近読んだ、小沢信男さんの『本の立ち話』(西田書店)の「片手斬り挿話」は、小沢さんが『深沢七郎集』第4巻月報に寄せたものだが、深沢の特徴をよくとらえていると思う。

つまり、「深沢七郎は貧しく狭い一地方の気質にとことん偏って、いきなり世界的普遍に届いてみせた」。

「貧しく狭い一地方」とは、もちろん、深沢のふるさと山梨県石和のことだが、小沢さんは「深沢七郎に、いわゆる愛郷心は、たぶんなかった」とも書く。「足跡は九州から北海道へまたがり、晩年に心臓が悪くならなかったら、スペインにもハンガリーにも渡って、そこでのうのう甲州弁まるだしで暮らしただろう」。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/18

梅雨本番、本のゲラが出て、引きこもり、

梅雨のド真ん中という感じの、シトシトジメジメの毎日。先月末に締切りで渡した本の原稿のゲラが、今日届いた。

なんと、359頁で、大幅オーバー。前回の『汁かけめし快食學』が368頁で、それ以内、できたら300頁ぐらいにおさめたいと思っていたのに。

いま使っている、パソコンだと、フリーソフトのOpenOfficeのワードを使用。MSのワードに比べると、縦組みで見ることはできないし、字送りや行間など大雑把な設定しかできないから、やりにくいこともある。

とにかく、まだ、写真や追加原稿があるので、かなりカットが必要。ま、メタボバブル気味なボディをスリムすると、それなりによい文章になるから、それもまたよいかな。

なんにしても、約1週間というもの、こもりっきりで、これを片付けなくてはならない。ここが、いちばん苦しいところ。あと一息。ちょうどまあ、梅雨も本番という感じで、引きこもりには、いいかも。

そりゃそうと。きのうは、坪野和子さんが、仕事で東大宮に来ていると、ツイッターで連絡が入り、ひさしぶりに会って飲んだ。坪野さんの仕事が済んだ、17時半ごろだったか、東大宮駅で待ち合わせ、ただちに西口駅前の鉄砲屋。坪野さん、あいかわらずタフに多文化的というか国際文化交流的というかで活躍の様子、23時近くまで、大いに話、大いに飲む。ポイントは「境界線上の日本語」というあたりかな。楽しく有意義だった。おれは、ほぼ泥酔状態だった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/16

新橋リーマンの灯は頼もしかった。

Dscn0139a_2きのうは、17時から、新橋で、痔の手術の話を聞きながら飲む会だった。1月6日の新年会に参加した、グローバルインターナショナルマーケティング調査会社の、名前は立派で仕事も立派であるのが、どうにもこうにもバカをやるのが好きな連中と飲むのは、地震の後の4月1日に続いて、今年になってこれで3回目。おれのほかに、その関係者7名、うち4人は外国人。

1軒目は、鳥料理屋。痔の話、略。いや、痔の話は、たちまち、性転換手術の話に。というのも、ロシア語圏の、主に高度整形医療分野を得意とする女子がいるからで。4月の飲み会のときにも、その話は少し聞いていたのだが、とにかく性転換手術を含め、その分野の世界最高水準は、ロシア語圏の、どこだったかにある。ようするに、肉体のあっちの肉を切って、こっちに持ってきて、どうとかのカタチにしちゃう、高度医療なるものが、どのように行われ、なぜ彼の地でその技術が発達したか。チンポだって、大きくできちゃうし、ボッキも可能になると、おれがうらやむ話を、彼女はマジメにするのである。

そういう肉体を切り刻み、縫い合わせるような話をしながら、なにしろ鳥料理屋ですからね、鳥を切り刻んだ、あっちの肉、こっちの肉を、刺身も含め食べまくり飲みまくりしたわけです。

8時少し前、そこを出て、カラオケへ。最初の写真は、その途中。いやあ、新橋リーマンのまち、健在です。

2人脱落し6名。ワイン3本空けて、歌いまくり。そうそう、22歳のカンボジア青年。彼の話も、なかなかおもしろかった。とにかく、カンボジアでは、大学に入るのに金で決まるのだそうで。で、彼は日本に留学中。日本の大学を出て、のちアメリカの大学も出て祖国にもどり、そういう大学の教員になるプランなのだ。ま、カンボジアのおもしろい話は、そのうちに書くとして、彼は2月に日本に来て、その時は、まだカタコトの日本語しか話せなかったらしいのだが、いまでは、もう普通に会話ができちゃうし、カラオケも日本語で、どんどん歌っちゃうのだ。

Dscn0140a_3そうして、女2人男4人、なんだか、飲んで~飲んで~歌って~歌って~、疲れてお開きとなりました。泥酔記憶喪失帰宅で、カメラの記憶を見たら、新橋の駅を撮っていた。日時あわせをしてなかったので、残っているデータは日時がめちゃくちゃ、何時かわからないが、最初の8時ごろの写真と比べると、ずいぶん寂しくなっている。明日がある、明日のために、ほどほどで切り上げる。おれたちも、そうだった、ハズだ。

あ~、今日のタイトルは、地震と東電放射能災害で「日本はおわった」だの「東京は住めなくなった」だのとシタリ顔がのさばって、落ち着かない世間だが、「新橋リーマンの灯は頼もしかった」と感じたことについて書きたかったが、メンドウになったので、これまで。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/14

アンナのカフェと編集されざる者たち。

2011/06/11「とりあえず、飲んでいた。」に画像も載っている、やどやゲストハウスにおけるアンナのカフェは、毎週火曜日に続けてきて、今日そして来週が最後だ。アンナさんは、いったん帰国する。おれは、来週は忙しくて行けないから、先週に行って来た。

アンナさんは、たしか、大地震のあと、とくに東電原発災害の影響で、外国人が離日し、やどやゲストハウスもキャンセルがでるなか、予定どおり来日したはずだったと思う。

アンナのカフェは、500円と酒は持ちよりの「お食事会」なのだが、そういうことをやろうというフランス人のアンナさんにも興味があった。そのうえ、彼女は、滞在中に福島まで行って来た。

アンナさんは、会ってみたら、なるほどね、とても楽しいユニークな魅力的なひとだ。だからか、このカフェは、すごく楽しかった。楽しくて、いろいろ刺激を受けた。それは、いろいろな国の若いひとがいるから、ってのとは、もう一つちがうな、という感じであった。

これまで、いろいろな外国人と飲む機会があって、とくに今年は年頭から、海外専門のマーケティング会社のアホどもと飲んで、明日も痔の手術の図解入り体験談を聞きながら飲む会なんてアホ臭いものがあるのだが、そういうところの外国人にも、なかなかユニークで魅力的なひとはいるが、アンナさんは、チョイとちがうのである。

たとえば、彼女は、どちらかといえば肉付きのよいほうで、指なども太いのだが、その指で、器用に自分で煙草を巻いて吸う。煙草はドイツのなんちゃらという、とてもよい匂いがするやつで、彼女は、それがお気に入り。それを、小さな巻き用紙に、くるくると巻き、吸う。ほかのひとにも、つくってあげる。いちいち、自分の愛着というか、自分の人生の楽しみ方を心得ているようなところがあって、カフェも、そういうことでやっているのか。

また、集まるひとたちも、宿泊中のゲストだけではない。近所の外国人も含めた20歳前後の若いひとたちで、これがまた、いまどきの若いもんにしては、おもしろい。そのおもしろさは、冗談が上手だとか、バカ話がおもしろいといったものではなく。

とにかく、「いま日本のゲストハウスは経営が難しい状態にあるところが多いと思うし、その状態はしばらく続くと思うけど、ここで起きている動きは、なかなかおもしろいものがある」とツイッターにつぶやいて、これはいったいなんだろうと思っていた。

その状況を、うまくまとめて書くのは、難しい、素晴らしく雑多でバラバラである。「自由」という言葉でも不足があり、「アナーキー」という言葉でも不足があり、それでいて、この場所には、なにかある。なにかあるから集まってくるわけで。それは、たぶん、「語り合う」ことから生まれものだろう。それぞれが、いろいろなことを「語り合う」。わずか、これだけの人数だけど、どれだけバラバラな話があったか。その中から、それぞれが何かを感じたり、考えたりする。

それで、おれは、とりあえず「編集されざる者たち」という言葉が浮かんだ。ま、カテゴライズやパターン化が難しい、あるいは「はみ出し者」とか。これから、こういうゴチャゴチャ雑多な動きが、放射能時代の東京では、おもしろくなっていくのかも知れない。放射能時代の東京では、これまで以上に、杓子定規ではない生き方が必要とされる。そして、杓子定規じゃない人間が、集まって来る可能性がある。そう思った。ということで、今日はオシマイ。

この日のことを、アンナさんが、「やどやゲストハウススタッフブログ」に書いている。


http://yadoya-staff.jugem.jp/?eid=54

英文で、話しているときも、そうだが、フランス人の英語は、おれのような中学程度の英語でも、いくらかわかりやすい。いくつか、まちがいもあるけど、愛嬌。それに、言葉など必要ないぐらい、アンナさんが撮った写真には、雰囲気や彼女の関心が出ている。真ん中へんの集合写真だけ、別のひとが撮って、アンナさんが入っている。

おれも「old one 」で写っている。が、じつは早く帰ったかたで、おれより一つ上の、ゲストハウス暮らしという日本人男性もいた。

やどやゲストハウスには、人生の、なにかある。おれにとっては「大衆食堂的」な。まさに、気取らず、力強くめしをくい、力強く生きようとする。バックパッカー宿だけど、バックパッカーじゃないひとも、いらっしゃい。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/13

放射能時代の寛容と包摂を考えたい。

え~、いま、おかしな妖怪が日本にのさばっているような気がします。ある種の精神的不健康というか。他者を中傷し貶めることで、自分が「賢い側」にいるかのような物言いというか。

それは、タバコや酒、障害者や病人、同性愛者や外国人、など、これまでのさまざまな差別や排除と深く関わりがあると思う。

とにかく、いまや、「福島」というだけで、さまざまな差別と排除を受ける、あるいは中傷され傷つけられる、そういう事態が生まれている。

「反原発」「脱原発」なら、どんな中傷をしてもよいかのような、もうその暴言たるや、まさに、これまでの差別や排除のなかに見られたものと同質です。

で、ワタクシは、ですね。以前から「正しい生き方」より「悪党な生き方」を追求したいと思っていまして、それは、ツイッターでもつぶやいているけど、とりあえず、たとえば、こういうことを書いたことがある、ってことで、ここに転載します。お互いに苦しい時代だから、簡単に他者を排除するのではなく、ごちゃごちゃな寛容と包摂を考えたい。

上記の動きについては、これからゆっくり動向を見ながら考えていくとして、まずは、これを。

ほとんど、ジョーダン? ぎゃははははは
ま、おれは、賢い人間じゃないからね。

牧野伊三夫編集長の美術系同人誌「四月と十月」に、おれは「理解フノー」という連載をしているのだが、その昨年7月に発行になった、昨年の4月号からです。

四月と十月 理解フノー④

健康と酒と妄想と。

遠藤哲夫

  「フン、小さな親切大きなおせっかい」と思った一月中旬のニュース。「たばこの次はアルコール」「アルコール規制強化、各国に要求 WHOが指針案採択」。日本の嗜好品文化は、得体の知れない国際機関の干渉によって、ズタズタにされるのか。
 インターネット上では、こんな意見もあった。「煙草の次はアルコールが悪者ですか? WHOは悪者を作って攻撃をするだけが存在理由の団体に成り下がったみたいです」「健康は宗教に成ったみたいですが、一体、何が楽しくて生きているんでしょう?体は健康なのかどうか知りませんが、精神が病んでいっています」。不寛容が拡大し、何かとギスギスした社会に「不健康」を感じる人たちもいる。
 〇六年三月の『談別冊 shikohin world alcohol  酒』(たばこ総合研究センター[TASC]編集発行)に、「浴びるほど呑む人はどこにでもいる……酔いたい、酔うために飲む飲兵衛の存在」を書いた。編集長からの依頼の趣旨は、「不寛容化の度合いがますます強くなってきた現代の日本社会は、飲まずにはいられない人たち(アル中というのではなくて)の排除へ向かいつつある」それについて飲兵衛のアンタはどう思うかとのことだった。
 いまや不寛容と排除のトゲトゲしい激しさは、喫煙や飲酒をこえ、「汚い」もの全般へ拡大している。たばこの煙や吸い殻もちろん、路上生活者や、古い建物まで、「汚い」として排除され、「まち」はキレイでオシャレなアートになる。アートが貢献する、無菌的な「健康で美しいまちづくり」とやら…。いや、その問題は、置いておこう。私の妄想は、WHOは、やはり非常にアヤシイということから始まる。
 たばこを規制すれば覚せい剤がはびこるだろうと言った学者がいた。実際に、覚せい剤への対策は、たばこ排除ほど熱心ではないように見えるし効果は上がっていないようだ。アルコール規制の根拠は「酒は病気・犯罪の元」とのことだが、病気や犯罪の元凶は貧困ではなかったか。新聞によれば、厚生労働省は「WHO指針が決まれば、増税派への一定の追い風になる可能性がある」という。たばこがそうだった。WHOは、マフィアや貧困を生む大資本や増税をたすけ、働き生きる庶民の、ささやかな楽しみを、強制的に奪う存在であるようだ。ならば、どう対策するか。
 日本だけは、禁酒禁煙のない国にしよう。世界中の愛煙家や愛飲家がわんさわんさ押しかけ、日本は潤うことになる。有力な産業も資源もない日本は、世界に誇る「寛容と包摂の先進国」をビジョンにすべきだろう。そのキャッチフレーズは、こうだ。「なぜ飲むの? わかってたまるか、ベラボーめ!」(『酒とつまみ』12号酒飲み川柳、作=泥酔ニーランドマニア)
 だから、アートの力が、ほしい。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/11

とりあえず、飲んでいた。

本の原稿300頁以上渡し、トンネルをぬければ酒だった。4日、土曜日。野暮連、シノ、コン、タノらが東大宮まで来るってんで、16時に駅で待ち合わせ。一軒目、もつ焼きセンター。煮込みともつ焼きいろいろ、生ビールのちホッピーで、もう酔っ払い。6時ちょっと前、昭和酒場コタツへ。ほとんど覚えない。とにかく、前から気になっていた、スパムとチーズの天ぷら食べて、うまかったのだけは覚えている。とにかく、泥酔記憶喪失状態でありながら、9時ごろまでは飲んだのか。つぎは、もうヨレヨレで、行けない。どうやって帰ったかも、わからない。

6日、月曜日。ひょんなことで、ツイッターでつながった石川さんと飲むことになり、やっぱり16時に東大宮駅で待ち合わせ。もつ焼きセンターへ。ところが、人手がなくて、店飲みは休み。石川さん、わざわざ川崎から来たのに。でも、東大宮は、もつ焼き、まだまだあるのだ。駅前にもどり鉄砲屋。ビールからホッピー。そして、ちゃぶだいへ。もちろん、もう酔っている。えーと、最初が花泉のにごり、つぎ鶴齢までは覚えている。

おれたちはテーブル席にいたんだが。入ってカウンターに座った女子が、手をあげて挨拶するから、おれも手をあげて挨拶をかえす。だけど、離れているのと、もう眼のピントがあわなくて、誰だかわからない。

とかやっているうちに、とにかく、その女子も、カウンターにいた4歳少女を連れた若いおかあさんまで、おれたちのテーブルによんで、一緒に飲んでいた。もう、なにがなんやら。なんと、その誰だかわからなかった女子は、常連のKさんだったのに、いかに普段とちがうカジュアルなファッションで眼鏡をかけていたとはいえ、わからないのである。もう泥酔のグラグラ状態。そのうちに、母娘は帰り、石川さんも帰り。最後は、Kさんと少しは飲んでいたか。彼女の仕事と休日だけは、なぜかシッカリ覚えた。Kさんとは、こんど飲みましょう、と、前から何度か言っているのだが、なにしろ連絡方法がないもので、ちゃぶだいで偶然あうしかなく、あえばこんな泥酔状態というオソマツ。

ま、そんなわけで、またもや、どうやって家に帰ったかも、わからない。

翌日、7日、火曜日。この日に行っておかないと、今月一杯で帰国するアンナに会えなくなっちゃうから行くことにしていた。やどやゲストハウスのゲスト、フランス人のアンナが毎週火曜日にやっているカフェの日なのだ。夕方には、身体も調子がよく、出かける。いやあ、そして、アンナも含め、国際色豊か20歳前後が多い若い連中と、食べて飲みました。

Dscn0110aアンナは、フライライスって、ようするにヤキメシじゃんかをつくり。関西人のゲストのKくんが、タコ焼き。やどやの近所のJくん、まだ未成年が、トッポギのなんて料理だろう。そしてまりりんが、味噌スープって味噌汁じゃんか。とかとかといった調子で、どれもうまくできていて、しっかり食べながら飲んだせいか、泥酔することなく、ほどよい酩酊で帰ることができた。アンナは、いったん帰国するが、また年内に来るつもりとか。

とりあえず。今日は、ここまで。画像は、アンナのカフェ。そうそう、石川さんからいただいた、長野のアスパラ、すごくうまかった。

もちろん、この間、飲んでいただけじゃなく、いい仕事もしたのだが。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/04

津南縄文ワインとサンライズプロジェクト。

Dscn0107a須田泰成さんにいただいた十日町みやげの「しょうゆの実」は、すでに紹介した。じつは、もう一つあって、「津南縄文ワイン」。これは本の原稿が終わったら飲もうと、とっておいた。で、無事に飲みました。

津南町産の山葡萄を使い、醸造は南魚沼の浦佐にある越後ワイナリー。ここは清酒八海山を醸す八海醸造の経営。

津南町は、このあいだの平成の大合併でも合併しなかった、新潟県下でわずかに残った町の一つ。東北大地震の陰になって見捨てられそうな感じだが、6強の地震の震源地で被害が出ている長野県栄町と境を接している。

津南の北側は十日町市。十日町からほくほく線で東へ、山を越えると南魚沼市。ほくほく線は、南魚沼市のおれの故郷、六日町駅で上越線に接続。南へ向かえば、越後湯沢で新幹線に接続する。

それはともかく、この縄文ワイン。山葡萄を絞ったまんまという感じで、故郷の南魚沼で暮らしていた頃、って高校までだけど、よく山葡萄を採って食べたことを思い出した。

山葡萄は、なっている場所を見つけるのが難しい。それに排気ガスなどに弱く、田舎でも車が増えていた1950年代後半には、町周辺の山からは少なくなり、ますます見つけるのがメンドウになった。それでも、山岳部の毎日の部活なんぞで、周囲を駆けまわっている最中に、なんかありそうな気配のする沢を見つけては、沢にもぐりこんで、そのツルを探し当てたりした。ワイルドでしたなあ。

そんなていどでは、葡萄酒はつくれないが、たくさんとって絞ったひとから一升瓶でわけてもらい、それと焼酎を割って冷暗所で寝かせる。うまい葡萄酒になった。ワインとは違うが。

山葡萄の実は、小さい。直径数ミリ平均だろう。丸ごと口に含む。噛んで、汁を味わったら、皮と実を吐き出す。味が濃く、とくに酸味と渋味が強い。その特徴が、この「縄文ワイン」にも、シッカリあった。

津南というと古代縄文土器、とりわけ見事な火焔土器が発掘され、これはもう見応えがあります。これで縄文の虜になったひともいるだろう。

津南は、日本でも最大規模といわれる河岸段丘の土地であり、実り豊で、縄文の昔から住みやすいところだったらしい。おれの南魚沼の六日町盆地は、東西の山にはさまれて狭苦しい感じがあるが、津南のある十日町盆地は、東西に山はあっても、明るいのびのびとした丘が広がっている感じである。

さて、それで、いま述べたように、この長野県栄村から津南、十日町の地域は、先日も十日町を震源とする5クラスの地震があったけど、東北大地震に続いて起きた長野県北部地震で、大変な思いをしている。

そこで「サンライズプロジェクト」に取り組んでいるひとたちがいる。
http://ameblo.jp/sunriseproject/
「耕作放棄地解消×被災地支援」については、いろいろ異論があるのは知っているが、まずは、現地の方の声に耳を傾けたい。

ツイッターで、十日町の@echigonotami 桑原善雄さんは、下記のように訴えている。「とにかく人手が必要です」と。
http://twitter.com/echigonotami
「サンライズプロジェクトs.ameblo.jp/sunriseproject/ 東日本大震災、長野県北部地震の両被災地を結び、双方の復興支援や地域が抱える課題に取り組みます!とにかく人手が必要です。週末に1泊2日で気軽にできる活動です。東京からは無料バスも。」

大いに、よろしくね。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/06/02

次の大衆食堂本。本文脱稿、9月刊行のスケジュール。

はあ、やれやれこらさのどっこいさ。5月31日に締切りだった、次の本の原稿、1日遅れたけど、6月1日に、終わった。

この本は、ほんとうは3年ぐらい前に出版される予定で、その前に企画が決まっていたのだけど、おれが目先のカネとアソビに追われ、ほったらかしているうちに月日は流れ。と思って、いま調べたら、その企画書は06年8月だから、3年以上漬けておいたことになる。

きょねん秋頃、やはりやりましょう、やろう、ってことになって、再燃。編集さんと仕切り直し構成の打ち合わせ、一杯飲む。

2010/10/22
王子で打ち合わせ、泥酔記憶喪失帰宅。

それから構成を練って、1月26日に打ち合わせ、ヨシッこれでいこうと構成を固める。

2011/01/27
食堂本打ち合わせのち酒つまトリオと浅草橋西口やきとん、泥酔帰宅。

んでまあ、原稿にかかった。
いろいろありましたなあ。まず、泥酔の勢いでパソコンが使えなくなり、そして、なんといっても大地震と東電原発事件。

いろいろあったけど、5月17日に、それまでに仕上がった原稿を見てもらい、アドバイスをいただき。そしてひたすら書きつづけ。最後は、書きすぎて300ページを軽く越えてしまい、予定数をオーバー、ストップとなった。

はあ、やっぱり疲れました。トシですからね。疲れたので、きょうは、こんなところで。

まだまだ、これからで、9月刊行のスケジュールが出て。初校が出るのがたぶん14日か15日。編集さんが控えゲラにいろいろ書き込んでおれに届くのが、その週末。「9月刊行までの間、休める瞬間、ここだけです」と。

数年間ほったらかしたのだから仕方ないが、今年の夏は、ただでさえ人災的に暑くなりそうなのに、さらに暑くなりそう。ま、熱くやりましょう。

当面する最大の問題は、壊したパソコンのデータのバックアップはあるのだが、Winのパソコンだったもので、いま借りて使っているパソコンはリナックスで、バックアップが復元できないこと。

Winでは取り出せることは、やってみて確認してあるのだが、Winパソコンを貸してくれるはずだったやつが、先日壊して、リンゴちゃんに乗り換えてしまった。不人情なやつ。今回は、写真をたくさん使う構成なのだが、その画像の大部分は、バックアップデータのなかにある。

こうして、いろいろありながら、すすむぞわれらの大衆食堂本。

いろいろといえば、いろいろメールなどいただきながら、返事を差し上げてないのがほとんどで、すみません。これから少しずつ。

また、ありがたくもご依頼をいただいている原稿などの仕事は、予定どおりいたしますので、どうかよろしくお願い申す。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »