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2011/07/31

こじんまりと地元主義な味わい深い、町内の夏祭り。

Dscn0195a今夜は、東大宮2丁目の盆踊りと花火大会。朝は雨が降っていたし、その後雨は上がっても、雲行きは怪しかったが、なんとかできた。途中小雨混じりになり、早めに花火をやって、早じまい。

埼玉知事選の日だったから、夕方5時ごろ、投票を済ませて、祭りの会場である堀の内公園へ行ってみた。5分ほどのところ。

このあたりは、農地を宅地にしたところで、古い農家や畑が散在している。それを囲むように、二階建ての家やアパートがあって、駅そばをのぞいてマンションがない。その景色のなかを祭りの太鼓と鉦の音を聞きながら歩いていると、60年代や70年代の郊外の感じだ。ま、あのころより、建物がオシャレであるが。

祭りの音は、少しだが残っている、古い農家や畑が似合う。それに空が広い低い建物の景色が。実際に土の匂いもするが、土埃を感じるような景色だ。

会場は、子供たちで一杯だった。かき氷を食べている子たちが多い。浴衣姿もいる。まだ日が暮れるのに間があった。堀の内公園は、よく知らないが、前は学校だったのではないかと思われる。広くて、周囲に桜の木が並んで植わっている以外は植裁がない。グラウンド、小さな野球場みたいなのだ。

その一方の隅で、太鼓と鉦をやっているグループがあって、その前に盆踊りのやぐらが組まれ提灯がぶらさがっている。自治会のテントがはられ、世話役のみなさんが祭りの法被を着て、かき氷ややきそば、金魚すくいなど。子供たちが群がっていた。盆踊り参加と思われる、揃いの浴衣を着た婆さんたちもいた。このあたりが「農村」だった時代とイマとのつながりが、わずかに残っている。その空気が祭りにある。

いったん晩飯の買い物をして家にもどる。もどる道、浴衣姿の母子が会場に向かうのとすれちがった。

Dscn0201a霧雨のようなものが少し降り出したが、8時ごろ花火の音が始まったので家を出る。途中、ぞろぞろと家族ずれや、駆けていく子供たち。若いカップルもいる。花火は公園の中であげている。大きな花火はあげられないが、小さくても、すぐそこであげ、頭上で開くから、見応えは十分だ。時々、歓声や拍手がある。最後に、ナイアガラ、やや大きめな打ち上げ。

花火は30分ぐらいで終わった。雨まじりなので、これで祭りは終了。ぞろぞろ帰る人たちのなかに混じる。小さな子供がいる若い夫婦が多いのに驚いた。みな楽しげ。地味だけど、大切なことがある。

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2011/07/30

ミーツの特集「鶴橋」と大阪人の梁石日さんの「鶴橋」、9月号の醍醐味。

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きょう、8月1日発売の『ミーツ・リージョナル』9月号が届いた。特集は「鶴橋ワンダーランド」の、まさに、イマ。表紙から最後まで、街の躍動感が誌面からはみ出そうなほど、あふれている。

本誌編集の福山嵩朗さんが書く編集前記から引用しよう。鶴橋は「今や大阪の一大観光地となっている」だけど、「いわゆる商売の匂いプンプンな観光地とは違うことに気づいた」「観光地化できない鶴橋の"地元主義"が大阪らしいのだ」

ま、手に取って、この地元主義の熱気を味わってほしい。

おれは、もう一つ、別の味わいをしている。

Dscn0191aおれも寄稿した、7月16日発売の『大阪人』9月号の特集は、「手練の書き手27人による 新しい大阪紀行「旅する24区」」であり、梁石日(ヤン・ソギル)さんが、生野区ということで鶴橋を書いている。タイトルは、ズバリ「在日コリアンの原点、鶴橋」だ。

1936年大阪市猪飼野生まれの彼は、「日本の敗戦直後の鶴橋駅周辺には広大な闇市がひろがり」と書き出す。「私の母は、道端でリンゴ箱の上に豚の頭の肉とキムチを乗せて、焼酎と自家製のどぶろくを売っていた」。

鶴橋のイマに連なる胎動期とでもいうか。おれもミーツに関わっているひとたちも体験したことのない時代の鶴橋を描いている。さらに、ミーツには、「鶴橋在住作家」として玄月さんが、「観光地化する鶴橋の移りゆく樣を見守ってきた地元民としてエッセイを綴りました」と。

玄月さんは、「43年ずっと鶴橋におる」とのことだが、『大阪人』の「旅する24区」では、生野区の隣の平野区を書いている。タイトルは「ほろ苦い平野区二時間の旅」。なんで、生野区を書いたかは、これを読んでもらえば、わかる。

とにかく、いま、大阪を代表する、このふたつの雑誌を、鶴橋を軸に読むと、すごい大阪のニオイがする。

Dscn0189aそうそう、大阪のニオイといえば、「旅する24区」では、おれも書いているのだ。って、じつは、このことを、言いたいのだ。おれも、大阪のニオイのする「おれの胃袋と大阪と東天下茶屋」を書いている。

まだの人は、読んでね。いや、実際、大阪は、深くて、おもしろい。いや、この、ミーツと大阪人が、おもしろくしているというか。

どちらの雑誌も、東京でも大チェーン書店なら並んでいると思います。

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2011/07/29

季刊に向かって一歩前進、か。『酒とつまみ』14号、どうにもおもしろく発行。

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この忙しくしている間に、『酒とつまみ』14号が7月15日に発行になり、いただいた。ありがとうございます。

前回は、昨年の9月発行だったから、2か月ほど短縮されたことになる。つまり、9年前の創刊のときから標榜している「季刊」へ向かって、少しだけ前進したのだ。おめでとう。また戻るかも知れないが。

今回も、おもしろい。どうにもたまらなくおもしろい。

まずは、記念碑的な、これ。大竹聡さんの『山手線一周ガード下酩酊マラソン』が、今回で達成した。「足掛け4年!完走達成記念特集」なのだ。やれやれ。大竹さんが、43歳の終わりから始めて48歳になったのだそうだ。文中にあるが「40代半ばの4年は、男の人生の実りの季節ではないか」と。そう、山手線一周ガード下酩酊マラソンという、おそらく人類未踏の、大きな実りを打ち立てたのだ。バンザーイ。

ところで、その最後のガード下の飲みは、有楽町なのだが。どこでしょう。買って読みましょうね。

つぎ。「酔客万来」のゲストは、東陽片岡さん。これはもう、この方は、酔わなくたっておもしろいのだから。この方、そう、右サイドバーにある、おれ本『汁かけめし快食學』の表紙となかのイラストを描いてくださった方だ。もとはといえば『ぶっかけめしの悦楽』からのご縁だ。

そりゃもう酒の話がおもしろいのは当然、それだけじゃない。漫画でもお得意の、包茎シジツ、もちろんホテトル、バイクツーリング、おスナック、サラリーマンごっこ・・・東陽ワールド全開。

と紹介していると長くなっちまうな。

「私の履歴酒」のSさんの話が、じつにばかばかしいのだけど、なかなか渋いところもあり、「ある男の一生」といった味わい。やはり、これは、年齢がもたらすものだろう。酒飲み人生で大切なことは、オカマバー、加賀屋、フィリピンパブで学んだ、というのは、なかなか素晴らしいことだよ。ほんとうに、そう思った。そのSさんお得意の、豊満美女写真も炸裂。

さらに特筆すべきは、「つまみバカ普及委員会」の「さきいか書道」。覚えているだろうか、「さきいか相撲」。あれが「大反響」だったとかで、こんどは、さきいかで書道をするのである。割り箸でさきいかをつまみ、イカスミパウダーを溶いた墨をつけ、紙に文字を書く。これを、経堂の「さばのゆ」でやって、参加者の作品の写真も載っている。これが、なかなかのもの。相田ナントカという方の書より、趣きがある。それにしても、よくこんなことを考えついたものだ。イカスミパウダーを墨にするとはねえ。そりゃまあ墨には違いないのだが。

よくこんなことを考えついたということでは、例の「思いつき研究レポート」だ。今回は、第4のビールの飲み残したやつの味くらべ。まずそー。とにかく、読んでよ。

それから、人気の定番「瀬尾幸子のつまみ塾」は、「縄文つまみ」だ。大地震前の企画だが、いまどきよいタイミングな内容。出版社が飛びつきそうな切り口。

さて、それで、おれが「永世ゲスト」の、南陀楼綾繁さんの「古本屋発、居酒屋行き」は、大森。大森、いい飲み屋が多いねえ。この時は、鶯谷にある信濃路の大森店の裏側のへんの、いい雰囲気の路地で飲んだのだ。そのときの様子は、以前にブログに書いた。こちら。
2011/02/05
「酒とつまみ」古本屋発居酒屋行き取材で大森へ。泥酔帰宅。

とにかく、季刊を標榜しつづける『酒とつまみ』、「まだ見ぬ季刊」と表紙にあるが。どーか読者のみなさんの力で、季刊にしてあげてください。

14号の目次や入手については、「酒とつまみ」のブログを。
http://blog.livedoor.jp/saketsuma/archives/51774753.html

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2011/07/28

再校をもどし、『大衆食堂パラダイス!』ちくま文庫、9月10日発売。

きのう、筑摩書房へ行って、再校のもどし作業をした。

11時からということだったが、チョイと余裕をみて、東大宮、9時半ごろの電車に乗った。秋葉原に10時20分ごろだったので、早すぎるから、浅草橋まで行かないで、秋葉原から歩いた。

総武線の高架沿いの道。割と好きだ。ホームレスが3人ほどいた。以前に酒とつまみの連中と酔った、ジャズ立ち飲みなのに名前は「おかめ」のところを通り、当然おかめはまだ閉まっていたが、浅草橋駅東口まで。江戸通りを渡り柳橋地区から、江戸通りと隅田川のあいだの小路を選ぶように歩いた。このあたり、最近、変わってきていておもしろい。その件は、また書くとしよう。

おもしろいからキョロキョロしながら歩いていたら、筑摩があるあたりを通りすぎて、春日通りの厩橋のあたりまで行ってしまった。急いで、江戸通りをもどり、5分ほど遅れて到着。

会議室で、担当編集の長嶋美穂子さんと、作業。今回は、原稿締切りも初校も再校も、時間に追われるようにやっているので、凡ミスがありはしないか気になる。気になるが、先へ進めなくてはならない。凡ミスなど悔いのないようにしたいのだが、そうもいってられない。不安を担ぎながら、先へ進む。これもおれの人生か。

表紙などに使わせもらえることになった、齋藤圭吾さんの写真の紙焼を初めて見た。すばらしい。これは、齋藤さんが写真を、おれが取材と文を担当した、北九州市の『雲のうえ』5号食堂特集のときのものだ。この写真が表紙に使えるなんて、うれしいねえ。その本文も、本書に収録した。『雲のうえ』5号は在庫切れになったが、本書で本文だけと、齋藤さんの写真の、ほんの一部だけは、ご覧いただける。これだけでも、本書は価値がありますよ。

作業は2時間半ぐらいで終わり、長嶋さんとめし食って(おれだけビールも飲み)お茶して、4時ごろには帰ってきた。

これで、あと3校は出るけど、再校の赤字が直っているかどうかのチェックぐらいで、ゆっくり見る時間はないようだ。そして、9月10日の発売なのです。三百数十ページの「大作」です。

1月末頃からか? 地震があろうが、なにがあろうが、とにかく「9月に出す!」ということで、ガムシャラにやってきた。さすがに、タフなおれも、あの地震や、計画停電の被害もあったし、まだ収束の目途も立っていない東電原発災害などもあって、とにかく疲れることが多く、再校の段階では、テンションは高く維持されてはいたが、やや集中力の継続が難しい状態だった。もう、ヨレヨレでした。

トシですなあ。この本が出る9月には、68歳になるのだから。こんな本の作り方は、もうできないな。文章の細部、もっとブラシアップしたいところがあるが、老人の諦観をもって、これでよしとしよう。キリがないからね。これでいいのだ。そういうものだ。

ところで、『大衆食堂パラダイス!』これから、少しずつ、もったいをつけながら、小出しに紹介していくが。

これは、1995年発刊の『大衆食堂の研究』その後という感じで、ま、いってみれば、集大成。おれの大衆食堂物語ってことなんですよ。

どうか、よろしくね。

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2011/07/19

おれとビッグ・エーのまったくもって妙な関係。全文。

スーパー業界誌の『食品商業』6月号に寄稿のタイトルがこれ「おれとビッグ・エーのまったくもって妙な関係」。サブには「オトコ67歳・酒飲みのにとってのHDS」とある。

「HDS」とは、ハードディスカントストア」の略だ。「ボックスストア」という呼び方でも知られている、スーパーの一つの業態。

編集部のリード。「キャベツから線香まで。普段の生活に必要な買物が小さな店ですんでしまう。しかも、ディスカウントストアよりも安い。ハードディスカウントストア(HDS)が元気だ。段ボール箱のまま陳列することから「ボックスストア」とも呼ばれるこの業態。日本での先駆者であるビッグ・エーを中心に研究したい。」

ということで、関東の「ビッグ・エー(BigA)」を中心に、西のHDS成長株「サンディ」を、この特集では扱っている。

で、カタイ記事ばかりじゃツマラナイから、ビッグ・エーのヘビーユーザー歴を持つおれのエッセーをという依頼だった。4月発売の5月号に掲載の予定だったが、大地震のため特集が繰り延べになり、5月発売の6月号になった。

関連、こちらも、ご覧いただけると、よいかも。
2011/05/22
おれとビッグ・エーのまったくもって妙な関係。

以下、全文を掲載します。小見出しは省略しました。

 いまウチには、ビッグ・エーで買った、ビッグ・エーブランドの醤油と使いかけの小松菜が、冷蔵庫にある。テーブルの上には、バナナの最後の一本がのっている。2日ほど前には、伊予柑もあった。
 11日に発生した大地震で、時間帯と売り場によっては、棚がガラガラのときもあるのだが、数日前、津波の被害が大きかった宮城・気仙沼の〆鯖を見つけたので、ただちに買った。それをブログで紹介したら、ツイッター仲間が同じものを買っていることがわかった。ほかにもビッグ・エーユーザーとつながった。いずれも男で、住んでいる地域はばらばらだが、ツイッターで「ロハスの敵、庶民の味方、ビッグ・エー」などと冗談をとばして、盛り上がった。
 ほかでも話題になると、けっこうオランダ産あじの開きなんぞを食べている人がいる。あれは、見た目は貧相だけど、骨まで火が通りやすくてよいといった、マニアックな話をしたり。お互いビッグ・エーを利用しているだけで、話がはずむ。おもしろく不思議なことだ。これは、なんだろう、ビッグ・エーをあいだにして、ワンランク上だのという生活や上等を気取らずに付き合える親近感というか。それに「安い」ということは、ある種の楽しさでもある。
 おれが住んでいるところは、さいたま市見沼区東大宮。ここに引っ越してきたのは、2008年の秋だった。ビッグ・エーは東大宮駅東口近くにある。ウチは駅をはさんで反対側なので、駅の階段を上がり下りし15分ほどかかる。しかし、そこにビッグ・エーを見つけたときはうれしかった。「おお、おれのビッグ・エーがある」という安堵感があった。
 ビッグ・エーとの出合いは、ここに引っ越す前だ。それは、そこの最寄り駅へ向かうのとは反対方向の、5分とかからないところにあった。ほぼ毎日通った。なぜかというと、おれは「酒飲み妖怪」という異名をとるほど、酒が好きだ。酒が切れると、ただちに買いに行くのである。もちろん安い。酒飲みにとっては、じつに危険な関係だった。そして、家で仕事していることが多いことから、また料理は好きだし半ば仕事と無縁ではないし、食事の仕度はよくやるのであり、おかずや材料を調達するようになった。
 そのころ利用するスーパーは、駅に近い3店を使いわけていた。そこにビッグ・エーが加わったのだが、ずいぶん買い物が楽になった。というのも、ビッグ・エーには、基本的な食品が、種類は多くはないけど、PBを中心に、普通に品質が安定していて安いものが揃っているからだ。
 毎日の食事の仕度で悩ましいのは、メニューに変化をつけながら予算のうちにおさめることだろう。それが、ビッグ・エーで基本的なものを揃え、あと変化をつけるのに必要な、それなりの鮮度や産地やブランドのものなどが欲しいときは、ほかのスーパーで買うというミックスで、ずいぶんやりやすくなった。なんていうのかな、下支えがある安心感とでもいうか。
 しかし、それだけではない。おれは、大雑把でズボラな男なので、一つのアイテムに何種類もあって、やたらPOPも多く、情報が氾濫している中から選ぶのが面倒であり、好きではない。もっと、絞り込んで、ウチの店は、これについてはこれを責任持って販売しますというものだけを、そのまま並べている店があるとうれしい。それとも関係するのだが、人間を圧倒するように商品を積み上げ並べた大きな空間が、どうもおれの感覚になじまない。見ているだけで疲れて、買い物が面倒になり、買わないで出てしまうこともある。
 実際、いまの東大宮のビッグ・エーの前には、やはり24時間営業の、数百坪はあろうかと思われる某ナショナル・チェーンのスーパーがあって、ときどき意を決して入っても、途中ですごすご退散し、ビッグ・エーで買い物して帰ることがある。これは、67歳というトシのせいなのだろうか。あの、制服を着たレジの女性が、ばか丁寧な挨拶を早口でしたり、厨房と出入りするたびに店内に向かってお辞儀をする姿まで、わずらわしく思える。
 そこへいくと、ビッグ・エーは気楽である。店舗の大きさといい、素っ気ない即物的な陳列といい、あまり圧迫感も情報的干渉もない中にほっておかれるのである。すると、気分も大らかに、店内をフラフラできる。急いでいるときは、すぐコンビニ並の早さで、めざす商品を手に入れられる。そして、制服で固められてない、私服にエプロンという店員さんの姿が、そのへんのまちの店まちの人という感じで、個人商店にいるような親しみを覚えるのだ。
 いまでは駅の向こう側までとなると、チョイと毎日とはいかないし、近所には酒を安く売るドラッグストアがあるから、週に2回程度である。それでも助かるし、なにしろ、時々行かないと気になり、ふらふら足が向くのである。こういう店があると、貧乏でも安堵し向上意欲が失せる危険があるなと思ったり、しかし、とくに野菜は賞味にギリギリのものが少なくなく、それをうまく使った料理の工夫は向上するにちがいないと思ったり、いろいろ楽しいのである。 まったくもって妙な関係になったものだが、かといって、ビッグ・エーさえあればよいという生活は、想像したくない。

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2011/07/17

『大阪人』9月号に書きました。ご覧あれ。

きのう発売になった『大阪人』9月号(大阪都市工学情報センター発行)。特集「旅する24区」に、「おれの胃袋の大阪と東天下茶屋」を寄稿しています。

「ある街、ある通り、ある店、ある公園、ある神社などを、物語や登場人物に託して伝えようとする、手練れの書き手たち。情け深い街を舞台にした、ちょっと風変わりな27人の「書き手」と「読者」のキャッチボールとは。大阪24区を誰かに伝えたいという気持ちにさせる「あたらしい大阪紀行」の大特集。」

ということで、「手練れの書き手たち」にまざって、おれがいる。ほんと、ほかのみなさんは、手練ればかり。

こちら「大阪人」のサイトに、書き手とタイトルの紹介があります。この顔ぶれとタイトルだけでも、手にしてみたくなるのではないだろうか。これで定価780円は、おトク。関西地域以外でも、大チェーン書店にはあります。
http://osakajin.osakacity.or.jp/newissue/index.html

おれは、1965年ごろ1年近く、大阪に住んだことがあり、その時の下宿が、阿倍野区の東天下茶屋(ひがしてんがちゃや)だったのだ。それは、1962年の春、高校を卒業し上京していらい、あれこれ貧乏どん底転々のち、初めて正社員として雇われて仕事に就いた時のこと。

いってみれば、おれの「社会人」1年生のスタートの地なのだ。ここで過ごした1年近くのことは、けっこうおれの肉体と精神になっていると、時々おもうことがある。そんなわけで、原稿依頼をいただいたときに、どこの区について書くか、迷わず阿倍野区にした。

東京の本社にもどるため東天下茶屋を退去してからは、そこを訪ねたことはなかったのだけど、2008年8月に短時間だったが訪ねる機会があった。

40数年前とイマを重ね合わせながら書いた。安月給、足で稼ぐ厳しいノルマのある営業マン生活にとって、「食べる」ことは、まさに「生きる」ことだった。そこに、大阪の街場の食堂があった。働くこと食べること生きることが、おれの身体に染み付いたのは、この時期この街といってよいだろう。かくて、「おれの胃袋の大阪と東天下茶屋」なのだ。

読んでもらえると、うれしい。


関連
2008/08/10
大阪、天王寺、阿倍野。

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2011/07/11

公園清掃。

きのうは、朝から地区の公園掃除だった。

8時半集合だった。空きっ腹で行っては身体がもたないから、パンを食べ、麦茶をタップリ飲んで家を出た。雲はほとんどない夏空。すでに暑かった。

時間になっても、おれのほかには、いつもカマなどの道具を運んでくる、責任者の方だけだった。彼が、今日は集まり悪いなあ、という。

おれは、道具箱からカマを一丁持って、木陰を選んでしゃがんで草むしりを始めた。徐々に集まってきた、いつものように子供たちもいる。それでも、これまで参加したなかでは、最も少ないように見えた。そんなに小さくもない公園を、この少ない人数では、いくらも清掃できない。好き放題にのびた草にとりかかっているのは、その面積の1割ぐらいなものだ。

おれが持ったカマは切れなかった。研ぐことはないのだろうから、切れ味は悪くなる。それで、強情に根をはった草を根もとから、力づくで切る。顔も手も汗まみれ。

清掃は30分ぐらいで終わる。集まってみると、大人17名ぐらいに、子供7名ぐらいだった。多いときは若い夫婦もいるのだが、みな40以上で、おれを含め60以上が大半だった。実際、小さい子供のいる若夫婦は、日曜日は何かとあるから、これが自然ともいえる。

10世帯のおれの班からは、おれ一人だった。いつも最少参加の班なのだが。でも、地区の責任者の方は、この地区は40世帯ぐらいだから、こんなものかなと思いますといった。彼は、住宅関係の仕事をしているのだが、3月11日以来、一日も休んでないと充血した目でいった。

草むしりしながらも、一緒に帰りながらも、みな放射能の話をしていた。

とにかく、玄関を入ると、シャワーなど浴びるヒマはない、まっすぐ冷蔵庫へ。缶ビールを取り出し、冷凍庫に冷やしておいたグラスに、立ったまま注ぎ、グイッと飲む。いやあ、うまい、これだよ。そしてテーブルに座って、ゆっくり飲む。

朝から身体を動かし、充実した気分だった。いや、きのうは一日中、心身ともに快調で、暑さもなんのそのだった。もっと草むしりをやりたくなった。

今月末には自治会の盆踊りらしい。来週の日曜日17日は、砂万灯だ。いよいよ、花火と盆踊りの夏の盛りですね。あたしゃ、汗かきかき、再校に取り組んでいます。

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2011/07/09

梅雨があけ、再校ゲラが届く。

Dscn0182a「気象庁は9日午前、九州北部、関東甲信、北陸で梅雨明けしたとみられる、と発表した。昨年に比べ、いずれも8日早い」のだそうだ。

午前中に、先月27日にもどした初校の再校が、宅急便で届いた。

初校では300数十ページあったものを、多すぎるから300ページぐらいに大幅カット。そのため、構成まで、かなり変えた。そして、挿入する写真を選んで、初校もどしと一緒に渡した。

再校ゲラは、本文300ページぐらいと、写真は編集さんがさらに選んで50ページぐらいになって、出てきた。ゲラには、奥付まであって、発行が9月10日となっている。グヘッ。大急ぎだなあ。急いでドジしないようにしなくては。おれは急いでもドジしないような天才じゃなく、凡人だからねえ。

ほぼ今月一杯、引きこもり、これとかくとうするのだ。

とにかく、暑い。腕からしたたる汗がゲラにつかぬよう用心せねば。

明朝は、8時半から公園の掃除がある。これまでも参加しているが、いまは、自治会の班長当番でもあるから、率先参加するのだ。班長の仕事、自治会費の集金は、10日ぐらいかかって、やっと、きのう完了した。たった10軒だが、それぞれ生活が異なるから、留守が多くて、なかなかつかまらない家もあるのだ。たった10軒なのに、さまざまである。

公園掃除は、朝8時半からでも、けっこう気温は上がっていて、9時ごろになると、もう暑くてたまらん状態になる。おまけに、草むしりが大半だから、暑いし立ちくらみはしそうになるし。でも、そのあと帰ってから飲むビールが、うまいんですね。

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2011/07/08

京都、京洛飲食街、焼失。

098aさきほど、ネットのニュースで見た。ここは、2008年9月に訪ねたが、時間が少し早すぎて、どこにも入れなかった。残念。写真だけでも撮っておいたので、掲載する。復興しても、この姿は、もう見られないだろう。真ん中の通路を抜けると、七条通り。

asahi.com 2011年7月8日12時32分
http://www.asahi.com/national/update/0708/OSK201107080058.html

京都駅前の酒場焼ける 愛され半世紀の「京洛飲食街」

 8日午前3時10分ごろ、京都市下京区七条通烏丸西入の木造2階建て店舗兼住宅付近から出火し、隣接の木造2階建て長屋「京洛飲食街」など4棟延べ約400平方メートルが焼けた。

 現場はJR京都駅から北約200メートルの東本願寺近く。京洛飲食街は50年以上前に開業。細い通路の両側に酒場が並ぶ「ハーモニカ長屋」で、現在は1階12店舗の区画で居酒屋やスナックなど3、4店が営業していた。七条署によると、出火当時、店はすべて閉まっていた。京都市消防局の男性隊員(27)が消火活動中に軽いやけどをした。

 京洛飲食街の店舗も加盟する「京都下京料理飲食業組合」の加山武事務局長(69)は「地元の商売人や会社員がカウンターで肩を寄せ合う酒場。なくなるのは寂しく、なんとか復興してほしい」と話した。

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2011/07/05

品切になったミーツ10年12月号から、「新説・居酒屋は"駄菓子屋"だった」。

毎号いただいている『ミーツ・リージョナル』。7月1日発売の8月号の特集は「阪神間うまい駅前」特集。大阪と神戸を結ぶ3本の鉄道、阪急と阪神とJRからピックアップしてまとめている。それぞれのまちの特徴がクッキリ出ていておもしろい。おれ的には、阪神尼崎、まだ行ったことないし、行ってみたい!だ。

それはともかく、いつも、おれは「バックナンバーのご案内」ってページを見て、品切になった号があるかチェックする。おれが登場する、今年の3月号「天満」特集と2008年10月号「めし」特集は、発売後早々に「品切」マークがついた。今回、今年の5月号「ピッツァ」特集と昨年12月号「居酒屋」特集が品切である。

おおっ、居酒屋特集には、おれも寄稿しているのだ。つまり、おれが登場するミーツは品切の確立が高い。おれって、関西では人気者? なーんてことはないわけで、ミーツの編集力ですがな。でも、自分が登場する号が品切になるのはうれしいのです。

とにかく、もう、この「居酒屋」特集は、普通にはご覧いただけないことになった。品切になるほど売れたミーツに載ったおれの名文が、もうひとの目にふれることがないのは、まことに惜しい。と思うのは、おれだけで、厚かましいのだが、ここに全文掲載することにした。

「居酒屋に人が集まる本当の理由シリーズ」ってことで、おれを含め6名が書いた。おれのタイトルは、「新説・居酒屋は"駄菓子屋"だった」。サブに「YESなアテから考える存在理由」とある。

以下のとおり。見出しは編集さんがつけてくれました。


1)居酒屋は"駄菓子屋"である

 酒屋は大人の「駄菓子屋」である。とくに居酒屋の魅力のコアな部分は、メニューの「駄菓子性」にある。と、おれは考える。
 かつて駄菓子屋は、子どもたちにとっては、まちのオアシス、パラダイスだった。駄菓子屋のおじちゃんやおばちゃんはもちろん、年長の子から幼子まで、年齢をこえる付き合いがあった。そういう場が、酒も飲める大人になると、居酒屋になった。おれは居酒屋へ向かうとき、たった一円の少ない小遣いを手のひらにギュッと握りしめ、駄菓子屋へ駆けた子どものころを思い出すことがある。それに、開店早々の居酒屋ヘノレンをわけて入る、いかにもうれしそうなオヤジの背中を見たりすると、ああ、むかしの駄菓子屋にいた無邪気な子どもの姿と変わらないな、自分もそんなふうなのだろうと思う。
 実際、両者の関係は近い。数年前、北九州市のまちを歩いていたら、駄菓子屋のような食堂があった。狭い入口周辺はガチャポンで埋まり、「お好み焼き・たこ焼き・おでん」のサイン。入ってすぐのカウンターあたりはおでん鍋や駄菓子におもちゃだった。東京は月島の、駄菓子屋の片隅にもあったもんじゃ焼きは、おれも若いころ目撃している。静岡おでんなども、駄菓子屋で売られたりしたと聞く。そこに酒があれば居酒屋ではないか。そうだ、大阪の動物園前駅そばには、おでんや酒を置いて居酒屋化した駄菓子問屋がある。
 さまざまな資料によれば、駄菓子は「上菓子」に対する言葉であり、地域によっては「雑菓子」ともいったらしい。「駄」にして「雑」、これは日本の文字文化に君臨してきたインテリエリートの貴族的精神や大衆蔑視がもたらした表現だろうが、ようするに駄菓子性味覚は、上等にあらたまったものではなく、普通であり、大衆的で気軽で安いものだ。そうですねえ、停まいからして駄菓子屋クサイ居酒屋に初めて入って、壁のメニュi書きに、一個100円以下のおでんが並んでいたら、うれしくてたまりません。

2)アテにも古今東西がある

 おれがよく注文するのは、ポテトサラダ、アジやイワシのフライ、ハムカツ、モツ煮込み。夏は枝豆や冷奴、冬は湯豆腐の小鍋立ては、いうまでもない。駄菓子性の定番中の定番といえば、関西の串カツに関東の「やきとり」と称するヤキトン。人目を気にせず、大口をあけガブッと串にかじりつく雑駁な食べ方、あんぐあんぐ噛むときの歯ごたえ、それがなんだか楽しいのは、タレを塗って仕上げたイカゲソのような駄菓子をかみしめたときの、味わい楽しさ記憶遺伝子がうごめくためかも知れない。
 玉子焼きでボン酒をやるのも好きだ。関西では「だし巻き」が普通に駄菓子的であるけれど、関東で「だし巻き」というと、上菓子系のようなチョイ気どりがあることが少なくない。よく言われる、かつおだしか昆布だしか以前に、だしに対する日常的な姿勢のちがいが背景にあるのではと思う。関西の人たちは、だしを使いこなすのが普通のようだ。
 関東の駄菓子的玉子焼きは、溶いた玉子をフライパンに流して焼いただけ。これを注文すると、「プレーン?甘口?辛口?」とか「とろとろ?かため?」とか、聞かれたりすることがある。甘口は砂糖、辛口は塩を入れるだけなんだが、安い玉子焼きで、高級なステーキの焼き加減のようなやりとりがあるってのが、楽しかったりする。
 駄菓子性味覚にも東西のちがいがある。東西どころか、おれが住んでいるのは東京の都心から20数キロの埼玉県のまちだが、街場の駄菓子屋的居酒屋においては、味つけの塩梅は、都心とけっこうちがう。簡単にいえば「濃い」。とにかく、そこに共通するのは、じつにありふれた、ときには偏見から「粗悪」といわれたりした素材を、お店の方が上手に料理し、客も上手に楽しむこと。つまり、どんなものでも、おいしく楽しむスピリット。

3)愛おしき「駄」と「雑」の味覚

 「駄」や「雑」を楽しむスピリットにあふれる居酒屋は素晴らしいし、愛おしい。これは、むかしからの庶民文化だと思うが、少ない小遣いをギュッと握りしめる感覚で「また来たよ」と通い、能書きたれずに無邪気に楽しむ精神やワザは、居酒屋ならではだろう。ちょっとした言葉のかけあい、駄洒落や、ときには、駄菓子屋のおばちゃんに叱られたように、居酒屋のおばさんに説教をくらうのも、うれしい味覚のうちですね。

4)アンチ・スペック主義の時代

 グルメなスペック情報や高級なモノに頼ることなく、自ら楽しむ力は、誰にでも備わっているはず。だって、ほんとうは、たいがいビンボーでしょ。安酒を恥じず、貶めず、見栄はらず、ありふれたものでイマを充足する。その素朴な楽しみがあるところ。そして、少しフトコロがあたたかいときの「上」なメニューは、ひときわ味わい深いものになる。
 YES!な駄菓子性メニューを無邪気に楽しむ、YES!な気どらない大人でありたい。

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2011/07/04

異境、辺境、秘境…としての酒場。

きょうは、雑誌『dankaiパンチ』2007年10月号(飛鳥新社)に書いた「異境、辺境、秘境…としての酒場」を載せる。これは「極私的旅行の愉しみ」に寄せたもの。この頃、何度か、『dankaiパンチ』に書くチャンスをいただいた。ま、まいどのことながら、いまなら、もう少しはうまく書けるハズだけど。なんちゃったりして。

『dankaiパンチ』は、赤田祐一編集長に、太田出版の『クイック・ジャパン』編集長だった森山裕之さんを副編集長に迎え、体制を強化したが、廃刊になったのでした。森山さんや、美濃さん、清田さん、どうしてるかな。

では、以下。


 ある日、電車に三〇分ばかり乗って都内の某所へ飲みに行った。ところが気に入っている酒場が二軒とも休みだった。さてどうしようか、また電車に乗るか。おれはその街で「いい大将や女将のいる安い酒場を新規開拓しよう」と思い立った。そのようにテーマを持った瞬間、旅が始まる。
 ガイド情報などの予備知識があるような店には用がない。中はどんなかわからない店の戸を初めて開けるとき、不安と緊張と期待で、胸がときめく。まさに東京に一軒しかない秘境の入りロ。そう見れば、見慣れた街が違って目に映る。街は秘境や辺境だらけだ。
 うーむ、この酒場の佇まいは、アヤシイがなぜかそそられる。入るか、避けたほうがよいか。もしかすると中には未踏の奥地よりコワイ大将や常連客がいて、とんでもないものを威張って食べさせられるかも知れない。何かあったら逃げ出す口実が必要かな。こんなときはこうしよう、ああしよう。考えながら歩いているうちに気分は完全に非日常だ。
 そして酔いがまわった頭で気がついてみれば、酒場の大将や女将と、陽気に過ごしている。初めての人たちと、そこで生きている物語を紡いでいる。たしか、どこか異境の酒場で、こういうことあったよなあと思う。ああいい旅をしたと満足し、フラフラ帰路につく。
 「その気になって、しかるべきお金さえ出せば」「まあだいたい世界中どこにでも行ける」「いちばん大事なのは、このように辺境の消滅した時代にあっても、自分という人間の中にはいまだに辺境を作り出せる場所があるんだと信じることだと思います」と村上春樹さんは述べている(『辺境・近境』新潮文庫)。
 自分でテーマや物語を作り出すのだ。でも近頃、「立ち飲みツアー」「下町人情酒場ツアー」と称して、集団で飲み歩く姿を見かける。自立した大人の姿とは言い難い。せっかくの旅のチャンスが台無しではないか。

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2011/07/02

中休み、中野で絶好調飲み、泥酔記憶喪失帰宅。

本のゲラをもどし、再校が出るまで、少し中休み状態。来週は、それなりに、打ち合わせの予定があるが、今週末はヒマ。それを見透かしたように、一昨日、牧野さんから電話があり、昨日は突発的に牧野さんと飲むことになった。17時、中野駅。

ただちに立ち呑みの「やきや」へ。向かう途中、牧野さんは、コーフン気味に、四月と十月文庫『えびな書店店主の記』(蝦名則著、港の人)が、東京堂書店の「今週のベストセラー(6月28日調べ)」で2位になったと話す。そりゃあスゴイことだ、ベストテン入りだけでもスゴイのに、2位とは。スゴイ、スゴイと言いながら、やきやでは、おれは生ビールで、牧野さんはホッピーでスタート。2人で飲むのは、たぶん、ひさしぶりで、アレコレソレコレ話す。

四月と十月文庫のデザインの素晴らしさ、アレコレ。それから、地震や津波や原発災害にまつわる、アレコレ。2007年の夏、四月と十月古墳部の旅で訪ねた釜石の呑べえ横丁は、おれが『四月と十月』に連載の「理解フノー」のタイトルが生まれた場所。ここで飲んで酔っ払って、外に出て、「理解フノー」と叫んだことが始まり。海に近い、しかも掘割のような小川の上に建っていた、この横丁は、そっくり今回の津波に飲み込まれ消えたしまった。だけど、牧野さんの話によると、どの店の皆さんも無事だったそうだ。よかったねえ。いま、別の場所で再開しようという話もあるらしい。再開したら、ぜひ行きましょう。

18時すぎ、中野駅にもどり、三梨朋子さん、白石ちえこさん、どちらも初対面と合流。駅から近い裏通りの飲み屋で、アレコレ。三梨さんは、映画「フロート」の監督・脚本など、映像作家としてテレビ番組制作もしている。「フロート」は、話を聞いた感じでは、三梨さんの住まいがある相模湖の風土記の幻想的映像化っていう感じなのかな? 白石ちえこさんは、フォトグラファーで、写真などを見せてもらった。四月と十月の同人になられたのだ。ま、とにかく、グイグイ飲みながら話は、はずむ。鯨食や犬食の話から人肉食にまで及んでいたな。

そのうち、白石さんが元バックパッカーだとわかり、成り行きで、やどやゲストハウスに押しかけることになった。明るいうちから飲んで、日が沈んだとはいえ、まだなんとなく明るい夏の宵の、ほろ酔い気分。というか、牧野さんもおれも、泥酔に近づいていたが、とにかく心地よい酔いの宵。

やどやゲストハウスの事務所というのかフロントというかは、ついこないだと比べると、まりりんが大工仕事で活躍したらしく(彼女は、去年もそうだが、暑い最中になると大工仕事をしているようだ)、かなりよくなったいた。当のまりりんもいて、諸外国女性がパソコンに向かっていたり。とにかく、どやどや乱入し、がやがやと3階まで中を案内。なんだか、美女の外国人が3人ばかりいましたねえ。牧野さんが、テキトウに「ソオリイー」なんて声をかけて。どやどや、がやがや、やりながら、まりりんと近くの店にいたボスにも声をかけ、駒忠で飲むことに。

ってことで、駒忠では6人になった。もうあとは、にぎやか。なんだか、牧野さんが森林限界線をこえてみたいような話を始めて、最後は森林限界線で盛り上がっていたような。とにかく、もうヨレヨレ。23時新宿発の湘南ライナー宇都宮線直通の最終に乗ったのは覚えているが、あとは記憶喪失でした。

今朝は心地よい二日酔いの頭で、谷川岳あたりで森林限界線ごえをやりたいなあと思うのだった。あの稜線で、谷から吹き上げる涼風にあたりたい。とかね。

やきやのあと行った飲み屋は、あまりにもよくて秘密にしておきたいから、店名は書かない。

東京堂書店の「今週のベストセラー(6月28日調べ)
http://tokyodoshoten.co.jp/blog/?cat=4

当ブログ関連
2007/09/06
岩手県釜石 呑べえ横丁

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2011/07/01

大阪のお好み焼「パセミヤ」再開、と、古書ほうろう「四月と十月」と「港の人」フェア。

きのう書き忘れた。谷根千の古書ほうろうで、6/26(日)〜7/31(日)、「四月と十月」と「港の人」フェアがあります。もちろん、四月と十月文庫や、おれの「理解フノー」の連載がある「四月と十月」も入手可能。暑いけど、おでかけあれ。近くに、よい立ち呑みもあるし。
http://www.yanesen.net/horo/info/detail.php?id=89

さてそれで、大阪・庄内にあった、お好み焼「パセミヤ」が移転のため閉店してから、もう一年以上たつのではないかな。いよいよ、再開の運びとなったようだ。めでたし、めでたし。

この間、よっちゃんと姉上は、かねてから得意だったイタリア料理のほうでも、大いに腕をふるっていたらしい。期待がふくらむねえ。

こんどの店は、梅田・大阪駅から近い。はやく行ってみたいものだ。
パセミヤのブログに載った、移転先住所と連絡先。「お好み焼きパセミヤ、下記住所にて7/16(土)夕刻より再開します。」
http://okonomi-pasania.com/?p=24


当ブログ関連。
2008/08/29
大阪・庄内、お好み焼「パセミヤ」。

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