21日の木村衣有子さんとのトーク準備をノロノロ。
21日のスロコメ@下北沢における「泥酔論フィナーレ」が迫ってきた。
対談相手の木村さんの『もの食う本』を、何度目か、読み返している。何度読み返しても、酒ボケもあってか、忘れてしまう。こんなことでは、当日、泥酔しながらじゃ話にならないか。ま、スライドを用意して、それにしたがいながら進めれば、泥酔しても大丈夫か。とか、考えているが、とりあえず、思いつきを、思いついたまま、メモ。
これまで出版された本からプロフィールをまとめると。木村さんは1975年栃木生まれ。18歳から26歳まで京都で暮らす。書店の恵文社一乗店や喫茶ソワレなどでアルバイトしながら、小雑誌を編集・発行。『京都カフェ案内』(2001年、平凡社)を機に東京に転居。俺が頂戴して手元にある本だけでも、『わたしの文房具』(2006年、KKベストセラーズ)、『もうひとつ別の東京』(2007年、祥伝社)、『京都のこころA to Z 』、『大阪のぞき』(2010年、京阪神エルマガジン社)、『味見はるあき』(2010年、自家本)、『あのとき食べた、海老の尻尾』(2011年、大和出版)、『猫の本棚』(2011年、平凡社)といったぐあいで、ほかにもある。
最近の肩書きは「随筆家」。「生活哲学を映したエッセイに定評がある」。
彼女の文章について、「男のような文章」という人がいる。俺も、最初は、一瞬そう思った。だけど、それはオカシイ。そもそも「男のような」「女のような」もオカシイが、近頃は、男でも、こういう文章は、お目にかかれない。思い直して、「豪胆な文章」ってことにした。その文体には、彼女の豪胆な生活哲学が映し出されている。処世術ていどの生活哲学は、よくあるが、彼女のは、ちょいと違う、本質的に哲学なのだ。本書を読んでも、彼女は「まっすぐ」「べたべたしない」が好みとわかるが、それは、その生活哲学と関係あるだろう。もう一つ、じつに分析的だ。
本書は、文章家として文学や文芸の視点から、「これ、というくだりを拾い出してそれについて」述べたものだが、各所に彼女の生活哲学も述べられている。つまり、彼女のアンテナに引っかかる「これ、というくだり」がないものは、食文化的に意義はあっても、取り上げられていない。あくまでも文章表現がモンダイなのだ。
一方、おれは、一応「フリーライター」という肩書だから、文章家の端くれではあるが、たいした読書家でもないし、成り行きでライターになったもので文章について勉強したこともないし、文章のことは詳しくない。トークでは、おれは食文化の視点から、本書について語るツモリだ。
これまでの多くの食の本、とくにエッセイの類は、男のセンチメンタリズム、ペダンチズム、ディレッタンティズムが色濃く反映している。女が書いたものにしても。
木村さんは、これと意識的に対しているわけじゃなかったようだが、その生活哲学は、これと本質的に相容れない、これを許さない。そこが、おれとしては、おもしろいし、以前に、この本が食文化本としては画期的だと書いたワケの一つなのだ。
とにかく、そういうワケで、この本では、男のセンチメンタリズム、ペダンチズム、ディレッタンティズムにまどわされることなく、ほんらい当然であるところの生活の食の姿に迫ることができる。
例えば、武田百合子『富士日記』から、つぎの引用がある。〈九時、山に戻る。灯りという灯りを全部つけた、谷底に浮かんだ盆灯籠のような家に向って、私は庭を駈け下りる。むろあじを焼いて冷たい御飯を食べた。主人は生干しのいかを焼いて、それだけ食べた。食べながら、今日見てきたことや、あったことをしゃべくった。帰って来る家があって嬉しい。その家の中に、話をきいてくれる男がいて嬉しい〉
この引用のあとに、木村さんは「百合子は、自身と夫との関わりの時間を「愛情」だの「思いやり」だのという言葉で安直に語らない、片付けない」と語る。もちろん、ここでは、産地や旬や、焼きたてだの炊きたてだのも、問題にならない。
本書の俎上にのせられた本は、40冊。大酒が好きな木村さんのことなので、飲酒の本もある。『A-Girl』など、おれは知らない漫画だが、女が好きな男に料理を「つくってあげる」ことに関する話や、太田和彦さんの『ひとり飲む、京都』の読み方に、木村さん独特の視線があって、おもしろい。
木村さんの『味見はるあき』について書いたことも関係する。
2011/02/18
「食べ物」と「食べる」のあいだ。
当日のトークは、18時スタートで最初の15分ぐらいは泥酔論の初回からのダイジェストをスライドでやって、木村さんとの話に入る予定。
とりあえず、こんなところで。
あとで、書き足すかもしれない。
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