よく歩き、よく呑んだ、泥酔記憶喪失帰宅、古墳部活動の一日。
今日は、夕方まで、昨日の酒が残った。朝早くに出かけ、千葉県富津市の青堀駅に10時7分に着き。周辺で、古墳を4か所見て、歩いたのは6キロていどか。13時半ごろに中華屋に入って、ビールと紹興酒。それから都内に向かってもどり、小岩の野暮酒場で大いに呑み泥酔。それでやめておけばよいのに、酔えばもっと呑みたくなる悪癖。23時ごろ東大宮に着いてから、ちゃぶだいへ。生ビールのあとに呑んだ、鶴齢がうまくてうまくて、おかわり。泥酔記憶喪失帰宅となった。
古墳部活動は、去年の暮れの27日に千葉へ行ったばかりだが、昨日もまた千葉へ行った。今回は、富津市にある、内裏塚古墳群のなかの西谷(にしや)古墳の現地説明会に参加するのだ。内房線の青堀駅に10時7分に着く電車で行く。遠い。朝6時に起き、45分ごろ家を出た。雪をのせた富士山が赤く染まっているのを見ながら駅へ。
前日、サキさんにメールで、ホリデーパスを買うとお得であると教えてもらったので、2300円でそれを購入。なるほど最低でも千数百円は得する。
千葉駅で立ち食いそばの腹ごしらえをしてから内房線に乗った。乗る直前に、スソアキコさんと瀬尾幸子さんと合流。木村衣有子さんとサキさんも同じ電車に乗るはずだが、姿が見えない。スソさんに遅刻のメールが入っていた。10時50分に青堀着であると。
青堀駅に着いた時は、まだ寒かった。だけど、快晴、日差しは暖かくなりそうな気配だった。駅の陸橋から、駅広場の向こうに墳丘のようなものが見えた(画像の左端)。スソさんが「あれ、古墳じゃない、きっと古墳だよ」と言う。なるほど、古墳らしくは見えるが、駅のまん前にあるなんてと半信半疑で改札を出る。現地説明会の案内の看板が出ていた。その向こうに古墳らしいものがある。スソさんが走る。「やっぱり古墳だよ」と言う。さすが、古墳部長。
説明板を見ると上野塚古墳。ホタテ貝型で45メートルあるが、石室があるはずの墳丘の中心部を残して、大部分は駅前広場や駐車場に削り取られて無残な姿。地形を見ると、ここから海岸のほうへは下りの坂道で、昔は海だったところが埋め立てられたとわかる。つまり、古墳ができたころは、海に近い砂丘の上で、目立ったにちがいない。
西谷古墳へ行くため、陸橋を渡り駅の反対側へ。するとすぐ「古墳の里 ふれあい館」なる建物があった。新しい、そのあたりだけ、古墳は壊すが無駄に金をかけてキレイにしたような、よくある土建先行の「まちづくり」。もっとも、土建先行であるがゆえに、西谷古墳も、県道建設のために発掘調査が行われた。そうでもないと、調査はされず、いつのまにか消滅しちゃうということもある。ここは、調査が終われば、消滅し県道となる。
内裏塚古墳群は、この地域に47の古墳があるとされている。その半分近くが消滅している。名称である内裏塚古墳は、南関東で最大規模、144メートルの前方後円墳だ。西谷古墳は円墳で28メートル。その墳丘の頂上の向こうに、内裏塚古墳の木立が見える。
現地説明会といっても寂しいものだろうと思って行ったが、とんでもない。地元の老若男女がつぎにつぎに来るのだ。ちょいとした祭り会場のよう。あるていど人数がまとまると、学芸員の方が案内し、説明してくれる。
7世紀つまり600年ごろのもので、古墳時代後期だから、豪華な感じはない。岩石の乏しかった土地であるからだろう、横穴式の石室は、近くの海岸の崖から切り出した砂岩が使われていて、石の表に海岸の砂岩独特の穴ぼこがある。こういうのは初めて見た。石に、四角に形を整える加工を加えた形跡が、あまりない。天井石も、削って形を整えると、岩が小さくなってしまうからか、切り出したままのような形をしていて、いかにも海岸から運びましたという、そのままの感じだった(下の画像)。
それに、石室からは、いまのところ13体もの人骨が見つかっており、ぎゅうぎゅう詰め込んでいるのだ。学芸員さんに聞いたら、おそらく最初は木棺を使ったかも知れないが、あとからは布にくるんだだけで埋葬したのではないかということだった。古墳の建造も含め、だんだん埋葬が簡略になった様子がわかる。
副葬品の須恵器が、プレハブの作業小屋のようなところに展示されていた。この頃になると、その形や薄さなど、ほとんど今に近い。「このあたりから、もう現代だね」と冗談を言いながら見たが、実際そんなに遠い時代の感じがしない。平瓶などは、まさに酒を注ぐのによさそうで、欲しくなる。だけど、縄文土器を見るときのように、熱くはなれない。現代、あるいは現代的、というのは、タイクツなのだ。
一通り見終わったころ、古墳部活動初参加のサキさんと木村さんが到着して、学芸員の説明の輪のなかに入った。二人は、このあいだ多治見へ行って、多治見や土岐や瀬戸を見てきたばかりなので、須恵器などにも興味があったようだ。
つぎに、見えているし、最大規模という、内裏塚古墳へ向かった。見えていても、道はぐるりと、新しい家古い家の住宅街の中を抜ける。
なるほど大きい。墳丘に登る道があって、円墳の上へ。木の間から、埋立地の煙突が見えた。この古墳ができたころは、海からも、あたりのどこからも、よく見えたことだろうと想像がついた。竪穴式石室が2つあって、1つには1体、もう1つには2体が埋葬されていた。5世紀中頃の、かなりの有力者のものだから、埴輪をめぐらし、鉄剣をはじめ副葬品も豪華だったようだ。
墳丘を被っている木の実であるドングリは、やや長形で、瀬尾さんがこの形のものは、さらさなくても食べられると言って拾っていた。さすが、料理研究家。
つぎは、三条塚古墳だ。汚れた水の堀をめぐらした、荒地と化した飯野陣屋跡に隣接してあるのだが、入り口が見つからず、うろうろした。墳丘に登る途中に、天井石らしいものが見えた。やはり四谷古墳と同じ石だ。その下に石室があるらしい。
千葉は温暖だ。道端には、タンポポが咲いていた。真昼であり、歩いているうちに熱くなり、汗ばむほどだった。がまんならず、重ね着の一枚を脱いだ。
三条塚古墳へ行く途中にあった、〈大公〉という中華屋で昼めし、兼、新年会となった。ここの盛りは、普通でも大盛で食べごたえあったが、いろいろとって、最初はビール、のち紹興酒のボトルを空ける。歩いたあとでもあり、よい酔い心地。
たしか15時ごろの電車に乗って千葉へ、千葉で乗り換えて、小岩へ。野暮酒場は店主の野暮タノさんが1人だったが、われわれ5人が押しかけて一気に賑やかに。例によって、隣の〈肉の津南〉の揚げ物を各種買って、宴会となった。本日の店主が厳選の旬の安酒は、あの越後杜氏の山崎忠一さんが腕をふるう、北関酒造の純米酒だ。なんと、純米酒が、安酒か。そうなのだ、この北関酒造は、純米酒も安い。安さに首をひねりたくなり、首をひねりながら、ビールを小びん2本呑んだあと、これを5杯呑んだまで覚えているが、そのあとはわからない。
タノさんの知人があらわれ、コンさんがあらわれ、スソさんと瀬尾さんは先に帰り、泥酔でもう呑めない状態になるまで呑んで、木村さんとサキさんと一緒に野暮酒場を出た。東大宮に着くまで、記憶なし。東大宮の改札を出るときは記憶があり、23時ごろだった。まだ早いと、ちゃぶだいへ向かったのだった。
よく歩き、よく呑み、にぎやかで、楽しさ満載の一日だったが、今日は死んでいた。
関連
2011/12/29
千葉県立中央博物館「古墳に眠る石枕」展に行った。
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コメント
富津岬のほうと飯野のあたりでは発音が違うというのは、おもしろいですね。大昔から、何か違いがあるのかも。
われわれ一行は、当然その違いはわからなかったけど、このへんの人たちは大声出さないね声が小さいね、と話していました。
ハマコーの住まい、見てみたかったなあ。どんな御殿?なのか。古墳時代は、ハマコーのような人間が大きな古墳を造ったのかも。
もう酒はあまり呑みたくないのだけど、ついつい呑んでしまって、困っています。ちょうどよく呑む方法ってないかなあ。
投稿: エンテツ | 2012/02/06 18:57
我が郷土の誇り(?)暴れん坊(元錦政会構成員)代議士のハマコーは青堀駅の近くに住いがあります。
ま、だから、どうしたっつー話ですが。
私が育ったのは、富津岬のほうで、青堀駅周辺から飯野あたりの人と、我々富津岬のほうの人間は微妙に発音が違うのです。
すなわち青堀~飯野周辺の人は東北や茨城のあたりの発音にある鼻濁音混じりの発音をし、富津岬の人間は江戸っ子弁にペを付けた奇妙な話方をします。
東は〈しがし〉と読んでしまう人間が多かったものです。
今の若い人にはこの差異はないかもしれませんが。
それにしてもエンテツさんの飲む力には驚嘆いたします。ウコンの力の力をかりてもエンテツさんの真似はできません。
投稿: 多田 | 2012/02/06 17:16