ラーメンと角栄。
昨日のエントリーに関係して、萬盛庵のラーメンとおれが卒業した六日町中学の跡地の写真を掲載する。
画像ではわかりにくいのだが、萬盛庵のラーメンは最近、麺を変えた。それは、食べるとすぐわかる変わりようだった。以前より、太くて、固い感じになった。噛みごたえも腹ごたえもある。これは、近頃の流れなのだろうか。食べているうちに、つけ麺を食べている気分になった。
でも、やはり、萬盛庵のラーメンである。かなり変わった印象がある一方で、どこか、昔の萬盛庵のラーメンというか、昔の大衆食堂のラーメンに通じるものがある。それは、主に、スープによるものだろうか?
おれが萬盛庵のラーメンを初めて食べたのは、高校生の頃だから、1960年前後になる。そのころのラーメンは、萬盛庵のとうちゃんに言わせると、「あんげなもの、いまと比べたら、ぜんぜんちがうこて」というシロモノであったらしい。確かに、あのころのラーメンは、かなりヒドイものだという話は、ほかの食堂でも聞いたことがある。それが、なぜか懐かしい味うまい味として記憶をひきずるのは、ようするに記憶はあてにならないということか、あるいは、作り方の変え方が上手ということか。とにかく、萬盛庵では、大きくは3回ぐらいは、いろいろ変えてきたようだ。
萬盛庵のラーメンの以前の変わりようは知らないのだが、その間に六日町も変わった。おれの出た小学校も中学校も、あるにはあるが、同じ場所にはない。小学校の跡地は、六日町役場になり、いまは南魚沼市役所になっている。中学校の方は、大部分は空き地、というか、イチオウ駐車場になり、片側の半分ぐらいには南魚沼市民会館が建っている。
写真の空き地というか駐車場というかの位置には、体育館があった。この体育館に、戦後初めて30歳代で大臣就任した、地元新潟3区選出の代議士、田中角栄が来て演説をしたのは、おれが中学1年生ぐらいのときだった。おれも近所の同級生たちと行ったが、体育館に入りきれない人だった。
そのころから、この「地域の発展」は、田中角栄と深い関係になったようだ。おれが、この写真を撮っている背後は、冬の積雪期でも通行可能な国道17号だが、おれが高校卒業する1962年の春までは、その道路はなく、一部で工事は進んではいたが、冬は雪に閉ざされた。いまでは、上越新幹線、関越自動車道、国道はもとより、町の狭い通りまで融雪設備が完備し、長年背負ってきた「雪国」というハンディキャップは大きく軽減されたが、そのことや「地域の発展」と田中角栄は、深い関係にある。
そして、ついに、いつごろか、「角さんラーメン」なるものも生まれた。この六日町にも、「角さんラーメン」があったが、いまもあるかどうかは、わからない。ザ大衆食のサイトを始めたころ、そこに載せた「角さんラーメン」は、こちら。…地獄クリック
ともあれ、ラーメンが昔のヒドイものから向上するについては、高度経済成長が大いに関係するだろうし、高度経済成長は、田中角栄と「日本列島改造」と「中央直結」政治と、大いに関係するように思う。と、この景色から考えてみるのも、おもしろい。
なんだか、速水健朗さんの『ラーメンと愛国』な方向になりそうだけど。食文化と政治は、無関係でないことは確かだ。どっちがどっちに従うという関係でもないが。そもそも、この世は、複雑の総和で転がっている。ラーメンの麺とスープの関係も、じつに複雑だ。
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