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2012/08/26

盛況御礼。久住昌之さんとのトークは、やっぱり楽しかった。

昨日のあいおい古本まつりのトークは、15時半スタートだけど、打ち合わせがあるので1時間前には、会場の相生の里に着く予定だった。その前に、カンジンの古本市も見ておきたかったし、その前に、去年のまつりの帰りに寄った、佃の食堂も行ってみたかった。

月島駅に着いたのが13時20分ごろ。まずは、佃の食堂へ。このあたりは古い街並みをつぶして、マンションがガンガン建っているから、無事に営業しているか心配でもある。

003あった、「うどん食堂」。ここは建物も古いし、店の方も高齢で、ホールをやっている男性は、おれより年上まちがいない、ゆっくりゆっくり身体を動かしている。詳しいことは、いずれザ大衆食のサイトに載せよう。メニューは、うどんそばと丼ものと中華が中心だ。近所のおばさんらしい2人連れと、男のひとりめしが4人ほど。おれは遅めの朝食をとってから家を出たので、あまり腹は空いてない。ビール大瓶とそばを頼む。

14時ごろ出て、相生の里は、すぐ近くだ。清澄通りを渡る信号のそばに、ナントカという肉屋があって、ここのローストビーフやらなんやらが評判らしく、いつも混んでいる。信号待ちしながら見ていたら、メンチカツとコロッケが食べたくなって、一つずつ買う。会場の隣の、評判のレバフライの店は、売り切れ準備中で次は15時からの発売とサインが出ていた、単品勝負でも人気となるとすごいものだ。

004相生の里に着いて、関係者に挨拶。ムトーさんとテラスに出る。空は広く晴れていて、気持がいい。ここでメンチカツとコロッケを食べながら缶ビールを飲むことにする。いま思い出したが、缶ビールはムトーさんが買ってきてくれたと思うが、カネを払うの忘れた。南陀楼さんやら野暮連関係者も来て、あれこれおしゃべり。柳瀬さんとも久しぶりに会った。

と、近づいてきて男性が挨拶する。140Bの中島さんだが、中島さんが大阪から来てくれるなんて、想定外もいいところで、まさかと思う。でも、間違いなく中島さんなのだ。3年か4年ほど前に、大阪の140Bでお会いして、去年の4月ごろ、『大阪人』の原稿でお世話になったまま。いやあ、びっくりして、あわててうろたえてしまった。中島さんは、13時からのトーク、木村俊介さん×佐久間久子さんの「インタビューの心得」にも参加、「一日に、こんなにいいトークが二つも揃って聴けるなんて」と、大阪から日帰りの予定で駆けつけてくれたのだ。トークが始まる前から感激~。

久住さんは、スライドも用意していて、打ち合わせは簡単に終わった。15時半ちょうどぐらいスタート。40名ほどの会場は満員。スソさんもいたのに話す機会がないまま。

南陀楼さんが最初に紹介してくれて、久住さんとおれがマイクを持った瞬間から、怒涛のトークだった。どれぐらい怒涛かというと、飲みながらやろうということで、用意していただいた缶ビール、ロング缶2本とレギュラー缶2本に手をつける間がないのである。

さすがに久住さんはなれているし、二人とも話しのタネはいくらでもある、短い時間が惜しくどんどん話す。とにかく、久住さんが19歳か20歳、おれが35歳ぐらいのとき出会った、そのまま今日まで会う機会はなかった。若かりしころのことから始まって、怒涛、爆笑、怒涛、爆笑。そんななかにも、「漫画家久住さん」の、参考になる話があって、度々なるほどなあと思うのだった。

17時終了予定のちょうどぐらいに、トツゼン、トークはやめて、「孤独のグルメ」のテーマ曲の演奏となった。久住さんは、このあと北千住のほうでライブがあるためギターを持参していたのだ。相棒のクラリネットの方も、途中から来ていて、熱演。拍手喝采で終わった。

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そのあとは、『大衆食堂パラダイス!』と、久住さんと弟の卓也さんの最新作『ひとり家飲み通い呑み』を会場で販売していたこともあって、サイン会となった。こんなにたくさんのサインを一度にしたのは初めて。

終わって、待っていてもらった人たちと飲み会へ。参加は10名、エロ森田夫妻に、谷川さん、木村さん、中島さんもいた。野暮連のいつもの顔ぶれ。月島の裏通りを行き、「もんじゃ」の看板のない居酒屋を探して入る。ここが、いい飲み屋だった。ビールで乾杯のあと、キンミヤ900ミリリットルをボトルで、何本空けたのか?そのあと、主催者のわめぞ一味が飲んでいる居酒屋へ乱入。ってことで、とにかく、飲みました。

トークも酒も楽しい一日でした。おれは泥酔ヨレヨレ帰宅。

お暑いなかお運びいただいて、どうもありがとうございました。

主催者のみなさんにはお世話になりました。缶ビールまで用意させてしまって。本の販売までしていただいて。

けっきょく、古本を見ている間がなく終わった。

そういえば、中島さんは、どこで抜けて帰られたのだろう。とにかく無事に大阪に帰って、昨夜のうちにツイッターでメッセージをいただいていた。

今日気がついたのだが、昨日の会場、久住さんも含め、坊主頭が4人いた。会場が約40名として1割。そのうち、久住さんはあとのライブに行って、ほかの3人、中島さん、谷川さん、野暮酒場の店主は飲み会に参加したので、10名のうち3人が坊主頭だった。坊主頭の割合の多い日だった。だからってどうということもないのだが。

最後の写真、正面の木村さんの左に坊主頭2人、右隣は頭が写っていないが坊主なのだ。

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2012/08/24

あいおい古本まつりでの久住昌之さんとのトークは明日。予習中?

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あいおい古本まつりは、明日と明後日。久住昌之さんとおれのトークは、明日の午後3時半から。ただいま(午前11時過ぎ)予約残席は2です。若干の増席は可能のようですが、早めにお申し込みください。
http://aioibooklabo.com/event_wagamama.html

昨夜、某女子が「アルコール持込可を確認しました!」とのこと。会場は、隅田川(正確には隅田川に連なる晴海運河だけど)のすぐそばで、川に面し広いテラスがあり、ここで飲むのも気持がいい。って、けっきょく飲む話だけど、ま、楽しくやりましょう。

2012/07/30「【予約受付中】8月25日、久住昌之さんとトーク。」に書いたように、久住さんとは、『ガロ』でデビューまもなくのころ、その当時おれがいた会社で会っていたり、いろいろ楽しみの話がある。そういえば、ちょうど今日、久住さんが原作の『花のズボラ飯』のテレビドラマ化、10月スタート(MBS・TBS系)で、倉科カナさんが主演するニュースが流れた。

『大衆食堂パラダイス!』の販売もあります。

下の写真は、去年3月のあいおい古本まつりの時、会場のテラスから撮影。

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2012/08/23

変わる赤羽。大衆酒場「大久保」の跡。

8月10日は(土)、赤羽で泥酔会だった。「泥酔会」といっても、おれのほかに20代の男会社員1人と女会社員1人と40代の男会社員という、いつも同じ顔ぶれで飲むのを、そう呼ぶことになっただけで、昨年の末から3回目かな?

この日は、40代男会社員のキムラさんの都合もあって、彼の飲み仲間と合流することになった。19時に、東口一番街の、かの有名な「まるます家」より路地一本奥ぐらいの場所にある「魚心千葉(うおしんせんば)」に集合だった。その後は、桜商会。泥酔記憶喪失帰宅となった。

おれは、チョイとぶらぶらしようと思って、かなり早めに赤羽に着いた。まず足を向けた先が、旧岩槻街道と呼ばれたりする都道460号。赤羽駅西口広場から南に向かう道路だ。ここは、前から拡張計画があって、なかなか着工されなかったのだが、近年ガンガン工事が進んでいると聞いていた。今日は、その件。

この工事が進むと、すでに以前に通っていた「大久保」はなくなっているが、つい先日も高野ひろしさんと行った、東十条の信濃光が飲める居酒屋も拡張に引っかかって無くなる可能性があるのだ。

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都道の入口である、西口のイトーヨーカドーの角の様子は前のままのようだったが、数十メートルほどでガラリ変わっていた。まだ同じように建っているミシン屋の先は、道路幅が以前の倍以上に拡張され、かつての個人店が並んだ商店街の面影は、まったく無い。凄い変わり方だ。道路の両側が一体となって形作られていた「商店街」は消え、新しいクルマ用の道路が出来る感じである。戦争もそうだが、人間の破壊力は恐ろしい。

013どんどん歩くと、まだ退去せずにがんばっているらしいクリーニング屋があった。窓という窓を開け払い、扇風機をまわして営業中で、店内には洗濯物がぶらさがっていた。このあたりは、職人の多い町だし、馴染みの客も少なくないのだろう。

そして、その先。赤羽駅からは10分ぐらいか、かつて大衆酒場の大久保があった場所だ。このあたりには、大久保を含め、戦前からの建物が数件ほど固まって残っていた。いま残っているのは、大久保の右隣にあった一軒だけ。どうやらまだ住んでいるようだ。この建物は敷地が三角形というか変形しているので、セットバックしての新築が難しいのかも知れない。

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大久保のあったところは、一部は道路に飲み込まれ、平屋が建っていた。もしかしたら、あのおばさん、名前を思い出せない、みんなに「○○ちゃん」と呼ばれていた、お店の主だったおばさんが住んでいるのかも知れない。大久保は、かつて酒屋であり、その店舗をほとんど残したまま、居酒屋に切り替えて営業していたのだ。老舗の酒屋らしい、どっしりした建物だった。

032000年前後は、赤羽に知り合いがいたこともあって、大久保によく通った。あのころの人たちを思い出す。近所の職人たちでにぎわっていた。ここで囲碁を差しながら飲んだり、時には喧嘩もあって、その時は居合わせた客の誰かが外へ連れ出したりしていた。「○○ちゃん」のスイトンがうまくて人気だった。

調べてみると、2004年ごろ、ここが工事で無くなるという話を聞いたが、その後進展の様子はなく、もう拡張はないのだろうという楽観もあった。しかし、こんなことになってしまった。

この調子だと、東十条もヤバイ。東十条のほうは、おれの好きな居酒屋ばかりか、あのあたりでは昔から広く親しまれている富士神社(境内に富士山もある富士講の神社)も、拡張に引っかかるのだ。

大久保の写真は、フィルムカメラで撮っているので2000年頃だろうか。

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2012/08/21

「親切第一 高野金次郎商店」と、トークの残席7。

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少し前になるが、大塚の高野ガラス店の主にして東京ペンギン堂本舗の高野ひろしさんから、郵送で「高野金次郎商店」が届いた。A4裏表ビッシリ、高野さんの文と写真が詰っている、平成二十四年八月号と九月号。たったA41枚なのに、すごい読み応え見ごたえ。いやあ、東京のまちを歩き回るだけでも大変なのに、こうしてまとめて、切手貼って郵便で送る。とても、おれには真似できません。

2012/08/08「大宮の祭りの日のいづみや、そして高野ひろしさんと十条、東十条で飲む。」に書いたように、高野さんとは8月3日に十条で会って飲んだ。そのことも九月号に詳しく書かれている。

やっぱり、紙に印刷して仕上げ配布するというのは、手間もカネもかかるのであり、ツイッターなんぞのように、140字ぐらいで、手軽に知ったかぶりのテキトウなことを書いて小利口ぶっているのと、わけがちがう。第一、印刷物が根拠として残るしね。

高野さんは、「無思想町徘徊誌・高野金次郎商店」を謳うが、腰の据わった考えと実践の持ち主なのだ。また一緒に飲むのが楽しみだなあ。

ま、おれがなんだかんだ書くより、東京ペンギン堂本舗のサイトを見ていただいたほうがよいでしょう。
http://jpg.arrow.jp/

さてそれで、今週末の土曜日に迫った、あいおい古本まつりにおける、久住昌之さんとおれのトークは、残席が7になったようだ。逃さないよう、お早めに申し込みください。
http://aioibooklabo.com/event_wagamama.html

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2012/08/20

カントリーロード、どこへ行く。

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町からバスに乗って向かった先は、秩父の奥、山峡の集落。曲がりくねった道が、峠を越える。わずかな平地の道路沿い、普通の民家に混じって、床屋、豆腐屋、食料品店、民宿に鉱泉宿など。

030103_wakui1そこにはかつて小さな酒蔵があった。覚えているさ、知る人ぞ知る「慶長」という酒を造っていた。江戸期から続く和久井酒造が廃業したのは、2008年のこと。屋敷は、そのまま残っている。手入れもされているようだ。バスの中から写真に撮った。ついでに、まだ酒を造っていたころの写真も載せておこう。たぶん2003年ごろだ。ああ、あのころはまだうまい酒を造っていた。

014すぐに人家は絶え、バスは急なカーブの坂道を登る。高度を増す左側の車窓には、放水中のダム。巨大な立小便。合角ダムが完成したのは、いつだったか。10数年以内のことだ。ああ、そうだ、おれが初めて来たころは、まだダムは無かった。それから、ダムの底に沈む家が退去して、工事が始まり完成した。ダムの水は都会生活の役に立つ計画らしいが、都会では水は足りているという話もある。

一車線だった県道の拡張工事も始まった。工事は、まだ続いている。広い立派な道路が出来ていく。どんどん人が減っていく。ダムから上は、「平地」といえる所はわずかだ。山峡の谷川沿いに、10数ほどの集落が点々とある。1つの集落につき10戸から20戸か。かつては林業が盛んだった。道路の拡張工事は続いているが、子供たちが通う小学校も中学校も無くなった。

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バスの後ろの窓から振り返ったら、新しい道路のトンネルと並んで、谷川のそばに、つい最近廃道になった昔の手掘りのトンネルが見えた。その向こうには、廃校の中学校舎。そんなに古くない鉄筋コンクリートだ。手掘りのトンネルは新しいトンネルと比べると小さいが、大型のバスもトラックも通っていた。バスには、子供たちがにぎやかだった。ああ、わずか10数年のことさ。

10数年前、「○○の発展のために」と、「○○」は集落の名だが、何かというとそんな声が聞かれた。いまじゃそんなことを口にする大人はいない。大人は、たいがい70代80代だ。ただジッと、来し方を振り返り、あるいは自分のイノチを見つめ、未来は語らず。

山峡の集落がイチバン「景気」がよかったのは、江戸か明治か。馬だって、立派な財産だった。昭和、戦死者の墓が増えた。それでも、いつだって生活は楽じゃなかったが、子供がいて、未来を語ることができた。山地は耕され実り、林は手入れされ育っていた。「○○の発展のために」と胸を張っていえた。ついこのあいだまでは。谷川で、もぐって魚をつかまえる中学生もいたが、どこへ行ったのだろう。

この道は、どこへ続くのだろう。何かの終わりか、何かの始まりか。

(やや、感傷的に)

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2012/08/19

地元で3軒はしご泥酔記憶喪失帰宅。

昨日のこと。16時に、大宮いづみや本店で、ミホコさんとタツオさんと待ち合わせて、飲んだ。3人で飲もうという話になっのは、もう半年以上前だったと思うが、お2人とも忙しく、ミホコさんはしょっちゅう長崎方面へ行っていたし、タツオさんは韓国である。ようやっと実現したのだ。おれもミホコさんも、タツオさんとは初対面。

ようするに、よく飲んだ。話も、アレコレはずんだ。仕事柄「食」という共通の絡みがあるうえ、しかし、それがまたよいのだが、それぞれがまったく違う分野の現場を抱えている、さらにミホコさんとタツオさんは同じ歳ということもわかって、話題にはこと欠かなかった。

いづみやでは、ビールを中心に飲んだ。18時過ぎ、東大宮のコタツに移動。ホッピーを中心に飲んだ。かなり酔っていたが、やはりポン酒を飲もうと、ちゃぶだいへ。ミホコさんは以前に一度一緒にちゃぶだいで飲んだことがある。彼女は、会社は渋谷に近い目黒区だが、自宅がある川崎から東大宮まで、この1年に2度も飲みに来ている、貴重な方だ。

ちゃぶだいへ行ったのは何時か覚えていない。とにかく、ポン酒を飲んで、遠くから来ているお2人を、あまり遅くなりすぎないうちに帰らせるべく、東大宮駅まで送り、おれはまたちゃぶだいにもどって飲んだ。タイショーやら常連さんたちがいて、おれは卵かけめしを食べたのは覚えているが、あとは記憶がとんでいる。

今日は、かなり厳しい二日酔いが残った。来月早々に若い飲み友達の結婚式に出席するため、礼服を出してみたら、ウエストがキチキチで余裕がないので、お直しに出した。体重は増えていないが、筋肉がたるんで、上半身の肉が下がって腹の周りにたまる老人体型になったのだな。

タツオさんに、チョン・ウンスクさんの著書『韓国の人情食堂』(双葉文庫)と『マッコルリの旅』(東洋経済新報社)、『スッカラ』9月号をいただいた。そのうち3人で韓国へ行くことになるか?

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2012/08/17

キンチョールな山峡のお盆。

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まいどの、お盆。14日に出かけて、昨日の夜帰ってきた。行った先は、何度も当ブログに登場している、同じ埼玉県の秩父地方、標高約600メートルの谷底の集落。

7月に、ここの80歳の主が手術入院したので、町の病院までは何度か往復しているが、当家までは正月以来。主は、今月の7日に退院して、まだコルセットを付け杖をついて歩いて、体重は47キロから43キロに減ったそうだが、クルマは運転しているしビールは飲むし、ま、順調のようだった。

涼しいところで、もちろんエアコンはない。食って飲んでは昼寝三昧。寝ていると、蝿や蚊はいないが、虻が多い、ほかに蜂やもろもろの虫が身体の周りを飛び交う。なので、昼寝にはキンチョールが手放せない。田舎な夏はキンチョールってわけです。

昨夜帰ってきて、下界の暑さに、まいっている。今日は、これまで。

そうそう、25日の久住昌之さんとのトークは、来週末に迫った。予約の残席は10ぐらいらしいので、早めにお申し込みください。
http://aioibooklabo.com/event_wagamama.html

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2012/08/13

経堂で芝生、太田尻家、さばのゆ。

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7日の火曜日は妻同行で経堂へ行った。

0011日ごろから、近所の畑に重機が入っていたが、整地がすすんでいた。昨日の段階では、ブロックを積んでゴミ収集場所らしいものを作っていたが、建築確認の看板は立っていないから、分譲するのだろうか。同じ並びには、分譲や建売が増えている。

経堂に着いたのは18時過ぎ。まずは目的の芝生へ向かう。芝生はカフェギャラリーで、以前に「ロバロバ」がカフェギャラリーをしていたあとだ。ロバロバさんは、おれの連載も載っている美術系同人誌『四月と十月』も扱っていたが、2010年5月に閉めて、山口の方へ移った。そうやってあちこちを渡り歩いているご夫婦らしい。なんでも住んでみたい一軒屋があったので、引っ越すことにしたと聞いたが、ご主人が植木や植栽の職人さんだそうで、傍から見ると気軽に移って行けるらしい。

芝生では、太田尻家と客というか仲間たちの「するもの シルクスクリーンによるグッズ展」をやっているのだ。太田尻家の智子さんが、よくシルクスクリーン印刷でTシャツなどを作っていて、おれも2着ほど持っているが、彼女の指導のもと、デザインなどを仕事にしているがシルクスクリーンは初めてという人たちが、制作に取り組んだ。

経堂駅から、さばのゆの前を通るついでに、開店前の須田さんに「あとで来るよ」と挨拶。すずらん通りに出て太田尻家の前を通る。ドアのガラス越しに家長が仕込みをしているのが見えた。開店前はてんぱっているから声をかけずに通り過ぎる。

芝生に入るのは初めてだ。ロバロバのあとをそっくり居抜きで借りて使っているようで、細かくは変わっているのかも知れないが、ほとんどそのままに見える。その空間に、Tシャツやバッグや小物など、いろいろなシルクスクリーンものが、たくさん展示されていた。なかなか楽しい。なんていうか、「専門家」のキッチリ計算されつくされたシルクスクリーンにはない、自由な面白さがある。

もちろん売っている。おれは、智子さんの「宇宙人デコー」のTシャツを買った。妻は別のものだったが、これが偶然にも芝生のご主人が制作したものだった。どちらも、なかなかよい。

19時口開け早々の太田尻家に入る。あとはゆるゆる話をしながら、家長の料理を食べ飲むだけ。智子さんも「出勤」し、長いすのクッションのカバーを夏向きに替えた。そこで店内の写真をパチリ。落ち着く店内だ。ここで街の人たちがゆっくり楽しく飲み食いするうちに、交流が深まり、今回のような展示やら、レシピ集などの小出版が生まれている。いいねえ。

そういえば、芝生のご主人も太田尻家に客で来ているうちに、太田尻家の客でもあったロバロバさんの引越しを知り、あとに入ったのだった。太田尻家が開業したころは、銭湯がなくなったり、さびれる一方だった通りは、しだいに持ち直し、いまではいろいろな小さな店が出来て、にぎやかになった。

生ビールで始まり、出羽桜を飲んでいるうちに酔いが深まる。

21時半すぎごろだったか、太田尻家を出て、さばのゆへ。この日はなんのイベントもなく、須田さんが、2人の方と打ち合わせのような何か話をしているのに加わり、生ビールを一杯飲んで、ほどよき酔いと電車の時間。

新宿で、湘南新宿ライナー宇都宮線の最終に乗って、酩酊帰宅。

芝生のサイト
http://shiba-fu.com/index.html

太田尻家のサイト
http://www.ne.jp/asahi/ootajiri/ke/

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2012/08/10

大衆食堂天将@十条の自転車ほか、あれこれメモ。

更新がテキトウになり、いろいろ書きもれていることから、思いつくままにメモ。

先月22日(日)に、わめぞ一味が主催する、雑司が谷鬼子母神商店街のみちくさ市へ行った。塩爺こと塩山芳明さんも出店していて立ち話。彼が、いつ病で倒れたのか、いま調べたら、昨年の7月21日だった。クモ膜下で、その第一報は、多田さんのツイッターで知ったのだが、たいがいの知り合いは「憎まれっ子世にはばかる」を信じようと言っていた。その「信心」が通じたか、手術は無事に成功、8月26日に退院した。約1年たったというわけだ。

その後の仕事への復帰も徐々にだが早く、回復後の塩爺に会ったのは、3月18日やはりみちくさ市だった。毒舌罵詈雑言は健在とはいえ、まだ快調とはいえないな、なんというか舌のすべりが重いという感じがしたが、今回は病気前にもどったとはいえないが快調になっていた。もうトシでもあるし、つまらないことに人間に丸みも出て、以前のような毒舌罵詈雑言は無理なのかも知れない。

それにしても、最近の日刊漫画屋無駄話http://park22.wakwak.com/~mangaya/nikkann.htmlを見ると、毎週金曜日の官邸前デモに連続参加していたり、渋谷の小沢一郎を支持する集会に行ったりして、血気はあいかわらず盛んのようだ。

立ち話では、やはり大病の内澤旬子姉御と「こうなりゃどっちが先に死ぬか」だと言っていたが、彼はおれより10歳若い、まだ50代なのだ。アンガイ、大病をした塩爺や内澤姉御より、おれのほうが早く死ぬかも(トシの順番でも)、と話していたのだが。とにかく、彼が「愛されて死ぬよりも、憎まれて生きる方がマシ」と言いながら、元気にしていると、憎まれ役を押し付けられるから楽しい。

いま使っているパソコンは、壊れて放っておいたノートを修理に出し、直って1日にもどってきたものだ。この間使っていたのはOSが違うので、データを完全に移せないものもあるが、ホームページビルダーが使えるようになったので、ザ大衆食のサイトのリニューアル作業は、はかどることになるだろう。

3月ぐらいから先月までは、義父の入院手術もあったりして、何かと落ち着かず、ご無沙汰も多かったが、そういえば野暮酒場@小岩でのトークも中止にさせてもらったり、いろいろご迷惑もかけた。今月からは従来のペースにもどって、9月からのおもしろそうなことに向かって、と思っているが、はたして?

そうそう、あいおい古本まつりにおける久住昌之さんとのトークは、予約受付が順調に進み満席になると予約打ち切りになりますから、お早めにお申し込みください。… クリック地獄

写真は、先日高野ひろしさんと十条と東十条を飲み歩いたとき、十条の大衆食堂天将の前にあった天将さんの自転車。昔のガッシリした作りの力強い「業務用」だ。たいがいの飲食店は、こういう自転車で仕入れに行き、後ろの荷台に仕入れたものを括りつけて運んだのだが、いまはどのように使っているのだろう。また、どのへんに仕入れに行っていたのか気になる。いまここから自転車でいける近い市場というと、巣鴨あたりか?

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2012/08/08

大宮の祭りの日のいづみや、そして高野ひろしさんと十条、東十条で飲む。

昨日は、経堂へ行って、芝生のち太田尻家で腰を落ち着け、帰りにちょこっとさばのゆに寄って須田泰成さんと会った。てなことをしたのだが、その件は、近日中に書くとして、今日は、8月3日に高野ひろしさんと飲んだ話。

その前に、7月31日に大宮へ行って買い物をしたあと、いづみや本店で飲んだのだった。時間は忘れたが夕方のことで、大宮は宵祭り、いづみやの前のロータリーは神輿の休憩所になっていた。いづみやの細長いテーブルの入口に近いところに座ったら、中からガラスのドアごしに神輿や行き交う人たちが見えたり、祭囃子が聞こえたり。そのうち、神輿担ぎのおねえさんがトイレを使うので入ってきたり。いづみやの店内にも街の祭りの空気が流れていた。

おれの隣には、おれよりチョイ若めの小太りで日焼けと酒焼けが重なったような感じのおやじと、その娘と孫の小学校高学年ぐらいの男子がいた。おやじはビールのあと濁り酒をやり、娘と孫はチャーハンを食べていた。おやじはほかの客と、ここにはもう何十年も通っているというような話をしていたが、そのうち孫に向かって、「おじいちゃんはこれだけ飲んでも千円ちょっとなんだよ」などと言っていた。そして、娘と孫がチャーハンを食べ終わると「さあ祭りを見にいこう」と、出て行った。おれは小学生のころ、祭りの夜に親に連れられ、大衆食堂に入ってアイスクリームか何かを食べたことを思い出していた。

帰り。第二支店の入口のそばに、いづみやの「若」が立って祭りを見ていた。いづみやは最近少しずつリニューアルしていて、本店のトイレはドアなども付け替え以前よりきれいになったし、第二支店は目に付きにくい入口の位置を変え、交差点寄りの目立つ場所に開口部を大きくとり全面ガラス戸で外から見えやすくなった。若と立ち話をすると、社長は元気だが「店長」が亡くなったとのこと。きょねんの地震のあと、本店で店長に会ったときは、もう仕事になりそうにないぐらい弱っていたし、そのあといつの間にか姿が見えなくなっていたから、やはりかと思った。彼はおれと同じトシぐらいだが、かなりアルコールにもやられていたのは、見ただけでわかるほどになっていた。そんなになっても、店長として遇していたいづみやも大したものだと思った。パンチパーマが似あう、いい店長だった。その店長が亡くなって、いまや若が、全面的に店長をつとめているらしい。

若は、第二支店の入口は、少し明るすぎるというかきれいにしすぎたからもう少し変えたいというようなことを言った。とにかく、ばあさん従業員を抱えたまま続ける若が、頼もしく見えた。別れぎわ、「祭りの本番は明日ですよ」と若が言った。街にも誇りを持っている感じがした。大宮の駅前一等地で、地場のいづみやが堂々の姿は、心強い。

さてそれで、高野ひろしさんとは、先週の3日(金)に十条駅で待ち合わせた。10年以上のお付き合いで、たびたび飲もうとエールを交換しながら実現しなかったのだが、ついに一緒に飲むことができた。いやあ、楽しかった。

高野さんは、『本の雑誌』2000年1月号の「新刊めったくたガイド」で、拙著『ぶっかけめしの悦楽』に言及してくださり、それが、おれが高野さんを知ったきっかけなのだが。その文章は、ザ大衆食のサイト「ゲッ「ぶっかけめしの悦楽」」http://homepage2.nifty.com/entetsu/gebukkake.htmにも掲載している。以下。

遠藤哲夫『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド一五〇〇円)は、その書名からして一目瞭然。読む前から何を言わんとするのか、そしてそれに感覚的に賛成出来そうな自分が見えてくるのだ。卵かけ御飯にしても、味噌汁かけ御飯にしても、汁かけめしってのは品の良い食べ方とは言えない。だからといって汁かけめしを貶められても「別に良いじゃん、美味しければ」と僕は思うけど、著者はそうは思わない。汁かけめしを笑う者は、正しい生活を否定する者に他ならないぞと力説する。この愛すべき汁かけめしの歴史、文学に表れた数々のレシピをちりばめつつ、よくもまあこれだけ言い分があるもんだと感心する、というよりついつい笑ってしまう。カレーライスが、段々日本食に思えてくるもんね。でもでも汁かけめしにかこつけて、姑息なグルメや情報に惑わされた料理へのイメージを打破しようという野望も、見え隠れするのだった。

以上。当時、高野さんは『散歩の達人』にも登場し、おれも時々同誌に書いていた。そんなこともあってだろう、2度ほど、ちょこっと顔を合わせる機会はあったが、ほとんど年賀状の交換ぐらいで過ぎていた。とにかく、ひさしぶりだ。

高野さんは、まだ老けるトシでもないのだが、以前より日焼けし肌つやもよく、たくましい感じだった。ガラス屋さんは肉体労働者でもあるわけだし、また仕事もあってよく歩き回っているからだろう。

大塚のガラス屋の三代目を継ぎながら、じつに多彩な活動をしている。とにかく、よく激しく東京を動きまわり、「ペンギン写真家」として活躍しているほか、落語や芸能関係の執筆も多い。バンドもやっていますね。大塚にこだわったフリーペーパーも発行していますね。

多彩すぎるし、十分なお付き合いをしているわけでもないので、まだ全貌が把握しきれない。いまどきの消費文化と密な関係である「マニア」や「オタク」ともちがい、また粋がるわけでもなく、やっていることが自らのパーソナル・ヒストリーを軸に絡み合っているところに、いかにも大塚という土地に三代続く職人の家の人という感じを受ける。

そのへんは、別の見方をすれば、消費主義に対して距離があり、もっと売れる有名人になっていてもおかしくないのに、知る人ぞ知る存在で続いている理由でもあるのだろう。いってみれば、「マイペース」を大事にする。そんなことを、お互いに感じながら、飲んで話していたような気がする。

初めて飲むので、お互いのパーソナル・ヒストリーの交換のようなぐあいになりながら、話はいろいろだった。大阪もよく歩いていて、おれが住んでいた近くの松虫のあたりも知っていて驚いた。十条は大塚に近いが、高野さんのホームタウンは大塚と巣鴨あたりで山手線、昔の「赤羽線」はちがう土地という感じのようだ。彼の東京の歩き方の話は、いろいろおもしろかったから、これからここで小出しにしよう。

ときどき彼のような、「東京っ子」に遭遇するが、かっこいい、さわやかな、東京の街場の職人さんの風が自然で、何時間一緒にいても心地よい。元来たくさんの余所者を飲み込んできた「東京風」というのは、そういうものなのだろうと思う。こういう飲みのあとは、いかにも、ちがう歴史を持った者が出会って交流し、また新しい歴史がつくられていくという実感が残る。

けっきょく十条で2軒のち東十条まで歩き、信濃光が飲める店へ行った。ここは久しぶりで、数年前に再開発道路拡張で無くなるような話もあったが、まだ続いている。おれは、もちろん信濃光を飲んだ。

そこで、なんと、スーさんとバッタリ。スーさんは、高野さんよりさらに若いが、おれを初めてこの店に連れて行ってくれた人なのだ。鶯谷の信濃路を教えてくれたのも彼だ。彼は浅草っ子で、この店の近くに住んでいたこともあるが、いまはまた浅草にもどっているとのこと。相変わらずの飲みっぷり。彼も、高野さんと比べると育ちの悪さか口が悪いところがあるが、人間はさっぱりしていて、かっこいい。二人とも、東京風を吹かせなくても地の東京を感じさせる男なのだ。いまや少なくなった「市井の好漢」というタイプか。

そんなわけで、気分よく酩酊。23時近くまで飲んで、泥酔記憶喪失帰宅となった。先週末は各地に祭りが多く、十条も祭りで、駅前広場には、やぐらが組まれ盆踊り、夜店が出ていた。

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2012/08/06

野暮酒場@小岩と浜田信郎さん。

7月28日(土)は、野暮酒場の営業日だった。「地ウィスキー祭り」ということで、店主が選りすぐった安い地ウィスキーを揃え、至高のハイボールを作って飲ませるというのだ。16時開店だったが、おれは遅れて16時半過ぎに着いた。

看板も暖簾もない入口の戸を開けると、すでににぎやかだった。畳の小上がりの正面に、雑誌の写真で見知った、浜田信郎さん。あの「居酒屋礼賛」のサイトや、『酒場百選』(ちくま文庫)の浜田さんだ。と、その隣にいるのは、このあいだ京阪神エルマガジン社から『東京バス散歩』を出したばかりの白井いち恵さん。なんとまあ、意外な顔ぶれ。ほかに、初めての男子が2人と、もはや野暮酒場の常連といえるワユリさん。彼らは、立石で11時ごろ落ち合って、飲み続けとか。

とにかく、浜田さんと初対面の挨拶。浜田さんとは、だいぶ前に一度メールのやりとりをしたままだった。その後、広島へ転勤になり、夏休みで東京に飲みに来ているところだとか。それにしても、よくぞ野暮酒場にまで。おかげでお会いすることができて、大いにうれしかった。

話しているうちに思い出したが、白井いち恵さんは東京のミーツ別冊の編集に籍を置いていたとき、横浜本で浜田さんと仕事をしているのだった。そしてワユリさんと浜田さんは以前からの飲み友達。そもそも、ワユリさんは、昼間は丸の内のOLさんをやり、夜は中央線沿線でチョイと名の知れた酒場で仕事をしているから、なんだかやけに顔が広い、ということが次第にわかってきた。

地ウィスキーは7種揃っていた。おれが知っている、アリスやワロスはなく、知らないものばかり。どこでどう飲まれているか知らないが、けっこうあるものだ。

店主は、この日に備え、銀座のロックフィッシュへ、ハイボールのノウハウを盗みにいくことまでしたのであるが、そして、確かに出来はよかったが、どうも無難に洗練されていて、これが地ウィスキーの野暮なおもしろさを消している感じもあり、モデルが間違っていた、やはり野暮は野暮の独自の道を追求すべきという反省の結論に至った。

ワユリさんを除く浜田さん御一行は先に帰り、しばらくしてワユリさんも夜のお仕事に行き、入れ替わるようにコンさんや、取次さんがあらわれた。そして、21時ごろだったと思うが、新顔の女性があらわれた。

しかし、こういうわけのわからないはずの酒場に、初めての若い女性が、よくぞ一人で来るものだなあ。彼女は上京して1年ぐらいなのである。てなことは、よく探求すると、野暮酒場のトークライブのテーマになりそうだ。

場は一挙に盛り上がった。いつもなら、地蔵通りの居酒屋へ繰り出す時間だったが、ここに腰を落ち着け、あれこれ女子を中心におしゃべり。でもおれは電車が間に合う時間に出た。7種類のうち5種類までは、飲んだ記憶がある。最後のほうは、よく覚えていない。残った人たちは、最後はやっぱり地蔵通りへ繰り出したらしい。

一昨日の4日は、野暮酒場から10分とかからない江戸川の花火大会で、それにあわせて営業したが、おれは地元の祭りの日だったので行かなかった。

野暮酒場は昨年末のクリスマスイブにグランドオープンで、回を重ねるごとに、じわじわ客が増えている。東京の東端の不便な場所なのに、おもしろいことだ。これから、さらにおもしろいことになるだろう。あせることはない。それにしても、隣の「肉の津南」と、こっちだけは二人三脚状態だな。

画像、一番左は、キンミヤ焼酎の宮崎酒造の地ウィスキー。しかし、このように、どこでも通販で買えるようになると、いったい「地」の「地」ってどういう意味になるのだろうか。てなことも、野暮酒場のトークライブのテーマになりそうだ。

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