大宮の祭りの日のいづみや、そして高野ひろしさんと十条、東十条で飲む。
昨日は、経堂へ行って、芝生のち太田尻家で腰を落ち着け、帰りにちょこっとさばのゆに寄って須田泰成さんと会った。てなことをしたのだが、その件は、近日中に書くとして、今日は、8月3日に高野ひろしさんと飲んだ話。
その前に、7月31日に大宮へ行って買い物をしたあと、いづみや本店で飲んだのだった。時間は忘れたが夕方のことで、大宮は宵祭り、いづみやの前のロータリーは神輿の休憩所になっていた。いづみやの細長いテーブルの入口に近いところに座ったら、中からガラスのドアごしに神輿や行き交う人たちが見えたり、祭囃子が聞こえたり。そのうち、神輿担ぎのおねえさんがトイレを使うので入ってきたり。いづみやの店内にも街の祭りの空気が流れていた。
おれの隣には、おれよりチョイ若めの小太りで日焼けと酒焼けが重なったような感じのおやじと、その娘と孫の小学校高学年ぐらいの男子がいた。おやじはビールのあと濁り酒をやり、娘と孫はチャーハンを食べていた。おやじはほかの客と、ここにはもう何十年も通っているというような話をしていたが、そのうち孫に向かって、「おじいちゃんはこれだけ飲んでも千円ちょっとなんだよ」などと言っていた。そして、娘と孫がチャーハンを食べ終わると「さあ祭りを見にいこう」と、出て行った。おれは小学生のころ、祭りの夜に親に連れられ、大衆食堂に入ってアイスクリームか何かを食べたことを思い出していた。
帰り。第二支店の入口のそばに、いづみやの「若」が立って祭りを見ていた。いづみやは最近少しずつリニューアルしていて、本店のトイレはドアなども付け替え以前よりきれいになったし、第二支店は目に付きにくい入口の位置を変え、交差点寄りの目立つ場所に開口部を大きくとり全面ガラス戸で外から見えやすくなった。若と立ち話をすると、社長は元気だが「店長」が亡くなったとのこと。きょねんの地震のあと、本店で店長に会ったときは、もう仕事になりそうにないぐらい弱っていたし、そのあといつの間にか姿が見えなくなっていたから、やはりかと思った。彼はおれと同じトシぐらいだが、かなりアルコールにもやられていたのは、見ただけでわかるほどになっていた。そんなになっても、店長として遇していたいづみやも大したものだと思った。パンチパーマが似あう、いい店長だった。その店長が亡くなって、いまや若が、全面的に店長をつとめているらしい。
若は、第二支店の入口は、少し明るすぎるというかきれいにしすぎたからもう少し変えたいというようなことを言った。とにかく、ばあさん従業員を抱えたまま続ける若が、頼もしく見えた。別れぎわ、「祭りの本番は明日ですよ」と若が言った。街にも誇りを持っている感じがした。大宮の駅前一等地で、地場のいづみやが堂々の姿は、心強い。
さてそれで、高野ひろしさんとは、先週の3日(金)に十条駅で待ち合わせた。10年以上のお付き合いで、たびたび飲もうとエールを交換しながら実現しなかったのだが、ついに一緒に飲むことができた。いやあ、楽しかった。
高野さんは、『本の雑誌』2000年1月号の「新刊めったくたガイド」で、拙著『ぶっかけめしの悦楽』に言及してくださり、それが、おれが高野さんを知ったきっかけなのだが。その文章は、ザ大衆食のサイト「ゲッ「ぶっかけめしの悦楽」」http://homepage2.nifty.com/entetsu/gebukkake.htmにも掲載している。以下。
遠藤哲夫『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド一五〇〇円)は、その書名からして一目瞭然。読む前から何を言わんとするのか、そしてそれに感覚的に賛成出来そうな自分が見えてくるのだ。卵かけ御飯にしても、味噌汁かけ御飯にしても、汁かけめしってのは品の良い食べ方とは言えない。だからといって汁かけめしを貶められても「別に良いじゃん、美味しければ」と僕は思うけど、著者はそうは思わない。汁かけめしを笑う者は、正しい生活を否定する者に他ならないぞと力説する。この愛すべき汁かけめしの歴史、文学に表れた数々のレシピをちりばめつつ、よくもまあこれだけ言い分があるもんだと感心する、というよりついつい笑ってしまう。カレーライスが、段々日本食に思えてくるもんね。でもでも汁かけめしにかこつけて、姑息なグルメや情報に惑わされた料理へのイメージを打破しようという野望も、見え隠れするのだった。
以上。当時、高野さんは『散歩の達人』にも登場し、おれも時々同誌に書いていた。そんなこともあってだろう、2度ほど、ちょこっと顔を合わせる機会はあったが、ほとんど年賀状の交換ぐらいで過ぎていた。とにかく、ひさしぶりだ。
高野さんは、まだ老けるトシでもないのだが、以前より日焼けし肌つやもよく、たくましい感じだった。ガラス屋さんは肉体労働者でもあるわけだし、また仕事もあってよく歩き回っているからだろう。
大塚のガラス屋の三代目を継ぎながら、じつに多彩な活動をしている。とにかく、よく激しく東京を動きまわり、「ペンギン写真家」として活躍しているほか、落語や芸能関係の執筆も多い。バンドもやっていますね。大塚にこだわったフリーペーパーも発行していますね。
多彩すぎるし、十分なお付き合いをしているわけでもないので、まだ全貌が把握しきれない。いまどきの消費文化と密な関係である「マニア」や「オタク」ともちがい、また粋がるわけでもなく、やっていることが自らのパーソナル・ヒストリーを軸に絡み合っているところに、いかにも大塚という土地に三代続く職人の家の人という感じを受ける。
そのへんは、別の見方をすれば、消費主義に対して距離があり、もっと売れる有名人になっていてもおかしくないのに、知る人ぞ知る存在で続いている理由でもあるのだろう。いってみれば、「マイペース」を大事にする。そんなことを、お互いに感じながら、飲んで話していたような気がする。
初めて飲むので、お互いのパーソナル・ヒストリーの交換のようなぐあいになりながら、話はいろいろだった。大阪もよく歩いていて、おれが住んでいた近くの松虫のあたりも知っていて驚いた。十条は大塚に近いが、高野さんのホームタウンは大塚と巣鴨あたりで山手線、昔の「赤羽線」はちがう土地という感じのようだ。彼の東京の歩き方の話は、いろいろおもしろかったから、これからここで小出しにしよう。
ときどき彼のような、「東京っ子」に遭遇するが、かっこいい、さわやかな、東京の街場の職人さんの風が自然で、何時間一緒にいても心地よい。元来たくさんの余所者を飲み込んできた「東京風」というのは、そういうものなのだろうと思う。こういう飲みのあとは、いかにも、ちがう歴史を持った者が出会って交流し、また新しい歴史がつくられていくという実感が残る。
けっきょく十条で2軒のち東十条まで歩き、信濃光が飲める店へ行った。ここは久しぶりで、数年前に再開発道路拡張で無くなるような話もあったが、まだ続いている。おれは、もちろん信濃光を飲んだ。
そこで、なんと、スーさんとバッタリ。スーさんは、高野さんよりさらに若いが、おれを初めてこの店に連れて行ってくれた人なのだ。鶯谷の信濃路を教えてくれたのも彼だ。彼は浅草っ子で、この店の近くに住んでいたこともあるが、いまはまた浅草にもどっているとのこと。相変わらずの飲みっぷり。彼も、高野さんと比べると育ちの悪さか口が悪いところがあるが、人間はさっぱりしていて、かっこいい。二人とも、東京風を吹かせなくても地の東京を感じさせる男なのだ。いまや少なくなった「市井の好漢」というタイプか。
そんなわけで、気分よく酩酊。23時近くまで飲んで、泥酔記憶喪失帰宅となった。先週末は各地に祭りが多く、十条も祭りで、駅前広場には、やぐらが組まれ盆踊り、夜店が出ていた。
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