« 故郷六日町の大阪屋食堂が今月で閉店。 | トップページ | 六日町行、きのうの続き。万盛庵で酔っ払って帰宅。 »

2012/09/15

六日町へ行って、今月閉店の大阪屋食堂と100歳のかあちゃん。

018

きのう、六日町へ行って来た。10時過ぎに家を出て六日町に着いたのが12時45分ごろだった。大阪屋のあっこちゃんに電話して、駅で落ち合って、すぐ駅前にある大阪屋へ行った。

「大阪屋のあっこちゃん」という言い方は、小さいときからで、大阪屋食堂の大阪屋は、食堂を始める前から屋号だったのだ。あっこちゃんはおれと同じ齢で、とっくに大阪屋の家を出て独立しているので、「大阪屋のあっこちゃん」というのは昔の呼び方だ。小さいときから「ちゃん」をつけて呼び合っていると、いまさら「さん」とも言いにくい。それに昔は苗字より屋号のほうが通用していた。

おれの家は、「かんろく新宅」と呼ばれていた。つまり父親が本家「かんろくどん」の次男坊で分家したので「かんろく新宅」であり、「かんろく」は確か「寛六」と書いたのではなかったかと思う。いまではおれのうちも本家も没落して無い。

「ナントカどん」という呼び方は、百姓だけだったようだ。ナントカは先代の名前で、たとえば無くなったおれの生家の近所は、みな百姓で「くにきちどん」「とらまつどん」であり、短く「くにきっとん」「とらまっとん」とか呼んでいた。父の場合、分家してしばらくしてからミシン屋を家業としていたので、しだいに「ミシン屋」と呼ばれるようになった。なのでおれは、大阪屋のあっこちゃんたちからは、「ミシン屋のてっちゃん」と呼ばれていたし、いまもそうなのだ。

それはともかく、13時すぎに大阪屋へ行ってみると、大混雑で店内で待っているお客さんもいた。あっこちゃんのお兄さんでご主人の「勇ちゃん」は、顔を合わせるなり、「閉店のことがフェイスブックに載った日から忙しくなって、普段の3倍ぐらい」と、大汗かいていた。「普段からこれぐらい入っていたら、閉店しなくてもよいのだけど」。つまり家族の身体のぐあいが悪くても、誰かを雇って店は続けられるということのようだ。いかにも閉店が悔しく残念そうな印象だった。

020おれとあっこちゃんはチャーシューメンを頼んだ。これが大阪屋の「名物」で、これを目当てに来る人が多かったらしい。おれは、それを知らなかったので、これまでカツ丼とラーメンしか食べたことがなかった。麺の量も多いが、チャーシューが大きくて、1センチ近くありそうな厚さなのだ。濃い目の味で、食べ応え十分。なるほど、人気なのもうなずける。しかし、近頃は食が細くなっているので、食べ切るのが大変だ。

お客さんが一段落したあたりで、カウンターごしにご主人とあれこれ話す。片づけをしながら奥さんも話しに加わる。勇ちゃんはおれより2歳上のだけだが、小さいころの昔の記憶は、2歳ちがいが大きく、いろいろなことを思い出した。あっこちゃんの話と合わせると、いろいろ昔の記憶がもどった。まったく思い出せないこともあった。

とにかく、大阪屋は駅前だけど、昔の駅前通りは、まだ田んぼがあったのだ。おれが高校を卒業して町を出るまで。そのあと、地元選出の田中角栄の「日本列島改造論」もあたりして、大きく変わった。

021おれが『大衆食堂パラダイス!』に書いた、高校生の頃よく大判焼きを食べた大阪屋は、まだ食堂ではなくて、大判焼きを焼いてるそばで食べられるようテーブルを一つとイスを置いたりしたのが「原型」のようだ。それ以前、戦後まもなくは、かあちゃんがポンせんべいを焼いたり、端切れを売ったり、駄菓子屋をやったりだったらしい。勇ちゃんは、東京の甘物屋で修業して帰り、甘物を始めたけど、田舎町のことで、そんなに流行らない。そこで、かあちゃんと、当時人気が出ていたラーメンを教えてもらいに行ってきて、ラーメンを始めた。そのころから「食堂」らしくなった。ということのようだ。

建物は、平成の始めごろ建て替え、店内を広くしたが建物の敷地は変わっていない。おれはカウンターの一番端に座って話していたのだが、勇ちゃんが「そこが大判焼きを焼いていたところ」と指差した。おれのちょうど背中のところで、その角だけ空間になっていて窓があった。かつては、窓越しに、かあちゃんが大判焼きを焼く姿が見えたのだ。一挙に懐かしさがこみあげた。

駅前通りや町のこと、変化の様子、個人店の難しさ、いろいろ話した。忘れていたこと、知らなかったことも多い。勇ちゃんは、チョイと引っ込んで、戦前のものと思われる、上町の手書き地図のコピーを持って来た。「ナントカ屋」「ナントカどん」、忘れていた記憶が、あれこれよみがえった。

022001奥さんが、いまでは珍しくなった、昔の黄色いマクワウリを切って出してくれた。冷蔵庫はなく、井戸水で冷やした時代、夏はこのウリだった。ほんのりした甘味、サクッとした歯ざわり。懐かしい。気がつけば、おれはチャーシュー一切れと麺を少々残したまま話に夢中になっていた。

お店の休憩時間でもあり、100歳の「かあちゃん」に会いに行くことにした。かあちゃんは、この一週間は、店も忙しいことであり、介護老人ホームの泊サービス(ショートステイ)のため、そちらにいるのだ。あっこちゃんはクルマで来ていて、乗せてもらう。

かあちゃんは、転んでから両足のぐあいが悪くなり、車椅子の生活。テーブルに向かって、菓子を食べ茶を飲んでおり、ベッドに寝込んでいるものと思い込んでいたおれは、元気そうでおどろいた。認知のぐあいは、その日の調子によるそうだが、あっこちゃんの顔を見て、最初は「どこんしょだ」と言ったが、すぐわかったようだ。

だけど、おれのことは思い出せない。なにしろ50年のブランクもあることだし。「せっかく来てもらったのに思い出せなくて申し訳ない」と何度も言う。肌はきれいで、言葉もしっかりしている、腕から手も年寄り臭さがなくしっかりしている。大判焼きを焼いていたかあちゃんだ。

そのあとは、万盛庵へ。16時ごろだったか。えっちゃんとあっこちゃんと3人で、20時半まで、ゆっくりおしゃべりしながら、酒を飲む。こんなに六日町のことや、同期生たちのことを話すのは、高校を卒業して町を離れて以来のことではないかと思う。

あっこちゃんがクルマで駅まで送ってくれて、20時50分ごろの上越線に乗って越後湯沢で新幹線に乗り換え帰って来た。万盛庵でのことは、また明日。

最後の写真は、往きに、上越線大沢駅あたりの車窓から撮影。最も高値がつくといわれる魚沼コシヒカリの田んぼが、刈り入れ直前といった様子。

このあたりからの景色が好きだ。中央奥に巻機連山、右の方は谷川連山に連なり、左の方は尾根伝いに下がると金城山から坂戸山に至る。おれが高校を卒業まで、よく足を踏み入れた山々が一望できる。そして、この地域の、つまりおれの成長と深く関わっている、「コスモロジー」について、いつも考えさせられる。

015

| |

« 故郷六日町の大阪屋食堂が今月で閉店。 | トップページ | 六日町行、きのうの続き。万盛庵で酔っ払って帰宅。 »