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2012/09/26

ザ大衆食のサイトに、「わははめし」を掲載。

小学館のWEBサイトで、09年7月から10回にわたって、瀬尾幸子さんの料理とレシピに、おれが文章を添える「わははめし」の連載があった。これは、翌年6月に『みんなの大衆めし』のタイトルで本になって発行されたが、大幅に構成が変わり、おれの文章は全部あらたに書き起こしたため、本には残っていない。

また、WEBサイトの方も『みんなの大衆めし』の発行に合わせて構成を変えたので、ご存知ない方はアクセスがやりにくい状態になったし、連載の最終回のおれのメインの文章は無くなってしまっている。なので、ここにおれが書いた文章を掲載しておきます。最終回については、おれも丁度パソコンを壊したりしたこともあって、元の原稿も見つからない、いやはや。

1回ごとにテーマを設け、4品の料理を作って撮影する作業は、毎回朝から1日がかりだったけど、楽しかった。おれは瀬尾さんに時々教わりながらやってみるが、たいがいは酒を飲み試食しメモをするというぐあいに進んだ。また料理に文章を添える仕事は、以前からやってみたいと思っていたから、よい機会が得られてありがたかった。それだけに、この文章には愛着もある。

……ってことで、掲載したのであります。…クリック地獄

ザ大衆食のサイトのリニューアルは、遅遅着着とすすんでいまする。

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2012/09/23

「食のこころ こころの食」連載2回目。

ザ大衆食のサイトに掲載しました。

編集部からのお題は、「必然か おせっかいか 食育基本法」だった。

おれは「政策が生んだゆがみを「心の問題」にすりかえるな」と、書き出しは以下のようなアンバイ。

「 食育基本法は2005年の国会で自民、公明、共産などの賛成多数で可決した。民主、社民は反対にまわったが、郵政改革法案をめぐる政治情勢からだろう。継続審議になった04年の春は、全会一致で国会を通過する見通しだった。
 そのころ、私は、たまたま機会があって『一冊の本』(朝日新聞社)04年3月号で、「『食育』ナンダロアヤシゲ」という、法案反対の孤独な主張をしている。そこで言いたかったのは、この2点だ。」

こちらのページからご覧ください。…クリック地獄

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2012/09/22

【ご案内】いよいよ来週末30日(日)、「帰ってきたエンテツの泥酔論」特別編

ツイッターの野暮酒場 ‏@tano_yabosakabaから、ご案内をまとめると。

【ご案内】いよいよ来週末30日(日)、「帰ってきたエンテツの泥酔論」特別編、「60代最後に放つ最強野暮の企画と戦略」! まもなく69歳、いやはやますます絶好調の師匠が飲み語ります。内容不明、当日のお楽しみ! 泥酔しながらみんなでゲラゲラお祝いしましょう!17時開店、18時スタート。参加費500円(資料代&御祝儀)。

以上です。
なお、野暮酒場は、健全この上ない酒場ですが、普通の営業の酒場とは違います。
問い合わせはtano_yabosakaba@yahoo.co.jp

なお、「泥酔論」は、かつてのスローコメディファクトリー(スロコメ)@下北沢で始まったもので、キホンはコメディです。おれのコメディの師匠は、かつて下北沢でスロコメを経営し、いま経堂でさばのゆを経営する、モンティパイソンの大家にしてコメディライター&プロデューサーの須田泰成さんです。この方→クリック地獄

勝手に不肖の弟子をしているもので、まったく上達しない。そこがまたコメディ。ま、よろしく。

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2012/09/21

アール・デコ展から<1920年代>へ。

00418日の火曜日は台風の影響もあって荒れ模様だった。新橋のパナソニック汐留ミュージアムで23日まで開催の「アール・デコ光のエレガンス」を観に行った。「ルネ・ラリック、ドームを中心に」という展示だ。アール・デコと聞いただけでゲップが出そう、なんて思ったが、行けばそれなりに気になる面白い発見があるものだ。とくに今回は、器を含め、ダイニングやテーブルまわりのものが多かったこともあって、以前に気になっていたことを思い出した。

で、『アール・デコの時代』(海野弘著、中公文庫)や『食卓の歴史』(スティブン・メネル著、北代美和子訳、中央公論)などのアチコチを読み返してみたりした。そのメモを以下に。

海野さんによれば、「アール・デコの時代」は、「第一次世界大戦の終わった一九一八年から、一九三二年ぐらいまでを入れていいのではないかと思う。一九三三年にはヒトラーが政権を握り、ドイツではジャズが禁止されてしまう」ってことで、この期間がいわゆる<二〇年代>ってわけだ。「私たちが今日、ごくあたりまえに感じている都市生活のスタイルは、二〇年代にあらわれたものである」

アール・デコと20年代の特徴は、いろいろあるけど、その前の時代は世界に一つしかないハンドメイド、一品製作を中心としていたが、「手作りと機械生産といった対立をこえて、新しい複製芸術がつくりだされる」「アール・デコは複製文化、デザインの時代のうちに生まれたのであった。それは一部の愛好家の趣味の部屋におさまっていたのではなく、現代社会の、スピーディーで、にぎやかな街を飾っていたのであった」

そこには都市生活者=大衆が出現していた。「アール・デコはそこにあらわれた複製芸術、大衆社会の芸術なのである」。芸術や文化は「民衆のために」ってことで燃えていた。(近頃の芸術や文化は、やたらエリート意識が強い自己顕示や自己主張がヘタに過剰で、「民衆のために」なんて耳にすることはないな)

日本ではアール・デコというと旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)が有名だが、1931~33年の建築。ずいぶん大衆とはかけはなれた存在ではないか。ま、おれが気になるのは、そのことじゃない。

日本の大衆食堂が「大衆食堂」の呼称で生まれるのは、アール・デコの時代と重なる。拙著『大衆食堂パラダイス!』にも書いた。1918~32年までのあいだに、東京に16ヵ所の公営食堂ができる。他の都市にもできるのだが、これが大衆食堂の直接的な原型とおれは見ている。「東京に人びとは集まり、大正末から昭和の初めには、貧乏な都市生活者が膨張する。この時期、「大衆」という言葉が流行語になるほど、大衆現象があった。となれば、「大衆食堂」という名の出現も、この昭和の初期あたりから可能性はあったとみていい」

昭和元年は1925年だ。

同じ頃、イギリスやフランスにおける料理をめぐる気になる状況が『食卓の歴史』にある。つまり『ウーマンズ・ライフ』1895~34年と『ラ・ファム・シェ・ゼル』1899~38年の刊行だ。どちらも"婦人雑誌"という類だと思うが「両者の内容は、おおむねよく似ていて、同種の中流、あるいは、下層中流階級を対象としていた」。これも新しい大衆社会の反映だろう。

おれが何を気にしているかは、この時代に料理や食事にどういう変化があったのかに関係するのだが、うまくまとまらないため長くなるから、今日は、このメモていどでオシマイ。

展示のほうは、ポスターもよかった。いずれも、アール・デコのヴィジョンが、生き生きと表現されていた。写真でしか見たことがなかったノルマンディ号のポスターにはため息。

第一次世界大戦後、ヨーロッパの芸術と文化は疲弊と荒廃の中から、アール・デコというヴィジョンを生んだ。いま日本の芸術や文化は、けっこうにぎやかであるけど、長く続く不況と大震災後の疲弊と荒廃の中で、何か未来へのヴィジョンを提示できているのかなあ。

アール・デコ展のあとは、パナのAさんと合流し、新橋で楽しく飲んで泥酔とまではいかないが、けっこう酩酊しての帰宅だった。

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2012/09/19

「食のこころ こころの食」

ザ大衆食のサイトに、月刊誌『食品商業』06年1月号から10月号に連載した、「食のこころ こころ食」の本文全文の掲載を始めました。編集部が述べているように「食べ物に携わるってどういうことなんだろう」ということで、「フードビジネスの根幹にかかわるエッセイの連載」です。仕事で食に関係する方だけでなく、誰もが日々食に関わっているにも関わらず、おいしい話と栄養の話ばかり多く、こういう食の根幹に関わる話はなかなかない現状。だけど、「放射能」問題をめぐる動きをみても、根幹のことが、ますます大事になっている模様。ってことで全10回分をOCRソフトで起こしてボチボチ掲載します。…クリック地獄

ザ大衆食のサイトのリニューアルもボチボチ進んでいます。ボチボチと、はて、どこが変わるのでしょう。

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2012/09/16

六日町行、きのうの続き。万盛庵で酔っ払って帰宅。

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書こうとしたら、記憶の中で大阪屋での話と万盛庵での話が混ざってしまって分けられない。とにかく、100歳の大阪屋のかあちゃんをショートステイ先のホームにお見舞いしたあと、あっこちゃんの運転するクルマで田中町にある万盛庵へ行った。

六日町の古い商店街がある中心部は、三国街道に沿って発達したのであり、最も上手(南)が上町で「かんまち」と呼んでいた。その隣が江戸期からの旦那衆が多い、長い間役場などがあった仲町、そして北の端が田中町だ。

仲町と田中町の境目あたりから西に曲がる広い通りは、三国街道に比べたら歴史は新しいが、上越線六日町駅の駅前通りで旭町、大阪屋がある。おれが住んでいた伊勢町は、仲町の西の裏側、旭町の南の裏側にあたる。

万盛庵のことは「まんせ」と呼ぶ人が多い。まんせに向かう途中でクボシュンの家の前を通ったので、もしかすると一緒に飲めるかと思い、クルマから降りて家の戸を開けて声をかけてみた。シュンスケはいたが、膝から下が包帯で倍以上の太さになった右足を引きずりながらあらわれた。元気はいいが、とても酒は飲めない。よく見ると顔にも怪我の跡がある。あとであっこちゃんに聞いたら、バイクで転んだらしい。口は達者でも、もうバイクをブイブイふかすトシじゃねえよな。

まんせに着いたのは16時ごろだったと思うが、もちろんこの時間に客はいないが、店は一日中開いているのだ。とうちゃんもかあちゃんのえっちゃんも息子もみんないた。

店内の一隅に、タカノツメのすだれが下がっていた。

暑かった。六日町は盆地で、夏は昔から蒸し暑い。さっそく生ビールをもらう。あっこちゃんは飲めないのでソフトドリンク。大きなテーブルに3人で座って、おしゃべり。えっちゃんは何かのアレルギーだそうで、目はショボショボ鼻はグスグスだったが、そのうちとうちゃんが注いでくれた酒を飲みだす。

来年の10月には70歳になる中学の同期会がある。えっちゃんもあっこちゃんもクボシュンも、その幹事なのだ。先日も、幹事の集まりがあって、やっと場所が決まったらしい。60歳の時も大勢が集まったが、大勢が集まれるのは、これが最後だろうという思いがある。地元に住んで幹事をやる人も大変だ。

同期会は、本来5年に一度で、60歳、65歳つぎは70歳でということだったが、きょねん誰が言い出したか70歳までガマンできない死ぬかも知れないってことで、急遽10月に開催された。おれも参加したが、急だったにもかかわらず60人ぐらい集まった。その時の幹事に、キイチがいた。

去年の同期会の幹事と来年の同期会の幹事の引継ぎが、今年になってからあった。キイチも出席していた。その数日後、キイチは夜中に酒に酔って飲み屋から帰る途中、用水のように岸をコンクリートで固められた小川に落ちて、朝になって凍死体で発見された。おれもその知らせを電話で聞いたときには驚いたが、幹事の人たちは数日前に会合を持ったばかりだった。といったことで、キイチの話になる。

高校進学が5割を切っていたころの中卒だし、それぞれのその後は、おれは高校を卒業して町を出て、しかも親も家業に失敗して家を手放して町を出たぐらいだから、あまり付き合いもなく知らないことが多い。えっちゃんが高校を中退していたのも知らなかった。あっこちゃんは、一度町を離れ、またもどったのだということも知らなかった。

それに高校卒業まで町で過ごしていても、町のことは上っ面しか知らない。地元が長い彼女たちは、詳しい。もっとも、彼女たちが知らないで、おれが知っていることもあるのだが。話していると、女子たちの付き合い方や町に対する関心の持ち方と、男子とは違うところもあるようだ。そんなあれこれが気がつくぐらい、あれこれおしゃべりした。たったこれだけでも、書き切れないほどの、それぞれの人生。

50年食堂を続けて身体のぐあいが悪く閉店する夫妻、100歳のかあちゃんに会ったあと、来年は70になる面々の人生語り。みんないくつまで生きるか知らんが、ま、ようするに人生に意味なんかなく、それぞれの「生きる」があるだけだな。時代も意味がない。やっぱ、気取るな力強くめしを食え!だな。と、なんだか大いに充実した気分で酒がすすんだ。

025おれは生ビールを飲んだあと、まいどのように地元の酒、高千代、鶴齢、八海山を順次飲むには時間が早すぎるので、「万盛庵」のラベルの焼酎を注いではウーロン茶で割ったりしながら飲んだ。

養殖ではないアユを久しぶりに食べた。身のしまりが、まったく違う。ほかに、とうちゃんお得意の漬物や、いろいろ。そして、この時期ならではの、もうそろそろ終りの、カグラナンバン肉詰めを食べた。まんせのこれは、肉詰めを煮た汁でソースを作ってかけるところが特徴なのだ。丸ナスの漬物も出たが、チョイと歯の都合が悪くて食べられない。いずれにせよ、カグラナンバンとナスの漬物で、ああ今年の「ふるさと」の夏も終りだなあ。

03420時近くなって、そろそろポン酒を飲んで泥酔してもよいだろうと、高千代、鶴齢、八海山を飲む。歩いて駅まで10分かからないところを、あっこちゃんにクルマで送ってもらって別れたときには、かなり酔いがまわっていた。「ふるさと」にも酔っていた。

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2012/09/15

六日町へ行って、今月閉店の大阪屋食堂と100歳のかあちゃん。

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きのう、六日町へ行って来た。10時過ぎに家を出て六日町に着いたのが12時45分ごろだった。大阪屋のあっこちゃんに電話して、駅で落ち合って、すぐ駅前にある大阪屋へ行った。

「大阪屋のあっこちゃん」という言い方は、小さいときからで、大阪屋食堂の大阪屋は、食堂を始める前から屋号だったのだ。あっこちゃんはおれと同じ齢で、とっくに大阪屋の家を出て独立しているので、「大阪屋のあっこちゃん」というのは昔の呼び方だ。小さいときから「ちゃん」をつけて呼び合っていると、いまさら「さん」とも言いにくい。それに昔は苗字より屋号のほうが通用していた。

おれの家は、「かんろく新宅」と呼ばれていた。つまり父親が本家「かんろくどん」の次男坊で分家したので「かんろく新宅」であり、「かんろく」は確か「寛六」と書いたのではなかったかと思う。いまではおれのうちも本家も没落して無い。

「ナントカどん」という呼び方は、百姓だけだったようだ。ナントカは先代の名前で、たとえば無くなったおれの生家の近所は、みな百姓で「くにきちどん」「とらまつどん」であり、短く「くにきっとん」「とらまっとん」とか呼んでいた。父の場合、分家してしばらくしてからミシン屋を家業としていたので、しだいに「ミシン屋」と呼ばれるようになった。なのでおれは、大阪屋のあっこちゃんたちからは、「ミシン屋のてっちゃん」と呼ばれていたし、いまもそうなのだ。

それはともかく、13時すぎに大阪屋へ行ってみると、大混雑で店内で待っているお客さんもいた。あっこちゃんのお兄さんでご主人の「勇ちゃん」は、顔を合わせるなり、「閉店のことがフェイスブックに載った日から忙しくなって、普段の3倍ぐらい」と、大汗かいていた。「普段からこれぐらい入っていたら、閉店しなくてもよいのだけど」。つまり家族の身体のぐあいが悪くても、誰かを雇って店は続けられるということのようだ。いかにも閉店が悔しく残念そうな印象だった。

020おれとあっこちゃんはチャーシューメンを頼んだ。これが大阪屋の「名物」で、これを目当てに来る人が多かったらしい。おれは、それを知らなかったので、これまでカツ丼とラーメンしか食べたことがなかった。麺の量も多いが、チャーシューが大きくて、1センチ近くありそうな厚さなのだ。濃い目の味で、食べ応え十分。なるほど、人気なのもうなずける。しかし、近頃は食が細くなっているので、食べ切るのが大変だ。

お客さんが一段落したあたりで、カウンターごしにご主人とあれこれ話す。片づけをしながら奥さんも話しに加わる。勇ちゃんはおれより2歳上のだけだが、小さいころの昔の記憶は、2歳ちがいが大きく、いろいろなことを思い出した。あっこちゃんの話と合わせると、いろいろ昔の記憶がもどった。まったく思い出せないこともあった。

とにかく、大阪屋は駅前だけど、昔の駅前通りは、まだ田んぼがあったのだ。おれが高校を卒業して町を出るまで。そのあと、地元選出の田中角栄の「日本列島改造論」もあたりして、大きく変わった。

021おれが『大衆食堂パラダイス!』に書いた、高校生の頃よく大判焼きを食べた大阪屋は、まだ食堂ではなくて、大判焼きを焼いてるそばで食べられるようテーブルを一つとイスを置いたりしたのが「原型」のようだ。それ以前、戦後まもなくは、かあちゃんがポンせんべいを焼いたり、端切れを売ったり、駄菓子屋をやったりだったらしい。勇ちゃんは、東京の甘物屋で修業して帰り、甘物を始めたけど、田舎町のことで、そんなに流行らない。そこで、かあちゃんと、当時人気が出ていたラーメンを教えてもらいに行ってきて、ラーメンを始めた。そのころから「食堂」らしくなった。ということのようだ。

建物は、平成の始めごろ建て替え、店内を広くしたが建物の敷地は変わっていない。おれはカウンターの一番端に座って話していたのだが、勇ちゃんが「そこが大判焼きを焼いていたところ」と指差した。おれのちょうど背中のところで、その角だけ空間になっていて窓があった。かつては、窓越しに、かあちゃんが大判焼きを焼く姿が見えたのだ。一挙に懐かしさがこみあげた。

駅前通りや町のこと、変化の様子、個人店の難しさ、いろいろ話した。忘れていたこと、知らなかったことも多い。勇ちゃんは、チョイと引っ込んで、戦前のものと思われる、上町の手書き地図のコピーを持って来た。「ナントカ屋」「ナントカどん」、忘れていた記憶が、あれこれよみがえった。

022001奥さんが、いまでは珍しくなった、昔の黄色いマクワウリを切って出してくれた。冷蔵庫はなく、井戸水で冷やした時代、夏はこのウリだった。ほんのりした甘味、サクッとした歯ざわり。懐かしい。気がつけば、おれはチャーシュー一切れと麺を少々残したまま話に夢中になっていた。

お店の休憩時間でもあり、100歳の「かあちゃん」に会いに行くことにした。かあちゃんは、この一週間は、店も忙しいことであり、介護老人ホームの泊サービス(ショートステイ)のため、そちらにいるのだ。あっこちゃんはクルマで来ていて、乗せてもらう。

かあちゃんは、転んでから両足のぐあいが悪くなり、車椅子の生活。テーブルに向かって、菓子を食べ茶を飲んでおり、ベッドに寝込んでいるものと思い込んでいたおれは、元気そうでおどろいた。認知のぐあいは、その日の調子によるそうだが、あっこちゃんの顔を見て、最初は「どこんしょだ」と言ったが、すぐわかったようだ。

だけど、おれのことは思い出せない。なにしろ50年のブランクもあることだし。「せっかく来てもらったのに思い出せなくて申し訳ない」と何度も言う。肌はきれいで、言葉もしっかりしている、腕から手も年寄り臭さがなくしっかりしている。大判焼きを焼いていたかあちゃんだ。

そのあとは、万盛庵へ。16時ごろだったか。えっちゃんとあっこちゃんと3人で、20時半まで、ゆっくりおしゃべりしながら、酒を飲む。こんなに六日町のことや、同期生たちのことを話すのは、高校を卒業して町を離れて以来のことではないかと思う。

あっこちゃんがクルマで駅まで送ってくれて、20時50分ごろの上越線に乗って越後湯沢で新幹線に乗り換え帰って来た。万盛庵でのことは、また明日。

最後の写真は、往きに、上越線大沢駅あたりの車窓から撮影。最も高値がつくといわれる魚沼コシヒカリの田んぼが、刈り入れ直前といった様子。

このあたりからの景色が好きだ。中央奥に巻機連山、右の方は谷川連山に連なり、左の方は尾根伝いに下がると金城山から坂戸山に至る。おれが高校を卒業まで、よく足を踏み入れた山々が一望できる。そして、この地域の、つまりおれの成長と深く関わっている、「コスモロジー」について、いつも考えさせられる。

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2012/09/04

故郷六日町の大阪屋食堂が今月で閉店。

『大衆食堂パラダイス!』にも登場する、おれの故郷、南魚沼市六日町の大阪屋食堂が今月で閉店する。一昨日、フェイスブックで知った。

去る7月、2012/07/04「祝・故郷の大阪屋のかあちゃんが100歳!」に、おれが高校のときお世話になった大阪屋のかあちゃんが100歳を迎えたことを書いたばかりでもあり、突然の閉店ニュースにおどろいた。

考えれば、かあちゃんの息子さんである、いまのご主人は、たしかおれより6歳ほど年上のはずであり、そろそろ引退なのかと思いながら、おれと同じ齢のご主人の妹にメールをして確かめた。

すると「もう限界」という返事があった。「高齢化」する個人経営・家族経営が抱える困難が、言葉少なに語られており、その悲痛が伝わった。

ほかにもおれの身近に増えているのだが、介護と介護しながら生活するための営業の負担で、家族の身体が壊れていく。そうなりながらも「限界」までがんばらなくてはならない。介護は美しい物語になるが、生活の現実は残酷だ。

それはともかく半世紀以上つづく地元人気店の閉店だから、田舎町とはいえ、大混雑しているらしい。

とにかく、近いうちに訪ね、100歳のかあちゃんにも会っておこう、と思っている。

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2012/09/02

なにやらあわただしくなるなか、3連夜泥酔バテ。

8月27日の月曜日から、急にあわただしくなった。もう9月になるのだ。おれもそうだが、「9月になったらね」とほっておいたことが、もう9月だ!ということで、急に動き出した。割と余裕のつもりで飲み会の予定なども入れてあったのに、あの企画、この資料、その打合せと、バタバタしだした。しかし身体は夏バテ気味というか、夏ダレ気味で思うように動かない。でも、ムチを入れながら、なんとかこなした一週間だった。

011001_2ざっと書いておくと、30日は、古墳部活動だった。13時に多摩センター駅に集合し、多摩埋蔵文化財センターを見学する予定だった。ところが、おれは、資料作りの作業が午前中一杯かかり、ウチを出たのが、13時ごろ。多摩埋蔵文化財センターに着いたのが14時半すぎ。

すでに見学を終えたみなさんは、手持ち無沙汰という格好であった。平日の昼からヒマな人たち、いやいや超多忙でも古墳部活動なら駆けつけるは、スソさん、瀬尾さん、畑井さん、米沢さん、宇田さん、昨年末とほぼ同じメンバー。

少々待っていただいて、ざっと見る。多摩ニュータウン開発時に発掘調査された埋蔵品だが、このあたりの縄文土器は、とくに特徴を残しているわけではない。それだけに普通の生活の普通の土器といえるか。ほかの地域の土器も含めて、縄文時代の食という感じのテーマの企画展をやっていた。土器にさわるもよし、写真を撮るもよしだったので、酒器と思われる土器をパチリ。

012それにしても、発見された遺跡の数だけでも、900ぐらいあるそうだ。その上をドンガラガッチャンやって「ニュータウン」を建設、現代の人間たちが住んでいる。その街が、実際にテーマパークもあるのだが、テーマパーク化された街みたいで、その上、オシャレ~なモールのような一角はパチコン屋だらけなのだ。なんだかなあ、なんだかなあ。

西荻窪へ移動して、買い物をして飲み会。あとから、佐々木さんと堀岡さんが加わる。おれは例によって電車の都合で22時半ごろ出て、24時すぎに泥酔帰宅だった。

31日は前日の酒が残っていたが、午後の打合せの資料作りをやって、あたふた打合せに駆けつける。のち、上野で17時半に某新聞記者さんと待ち合わせ、湯島のシンスケへ。あとから記者さん1人加わり、打合せは簡単にすみ、とにかく飲む。シンスケは久しぶりだったが、あいかわらず酒は両関のみ、これをぬる燗で何本あけたか、覚えてない。とにかく泥酔帰宅。

011さて昨日は9月1日、これはもう数ヶ月前から念を押されていた、泥酔会のりかさんと準一さんの結婚式。白金台の八芳園で11時半開宴。なのだが、飲み疲れがたまっていたせいか、一度目が覚めながら2度寝、はっと気がついたら時間ギリギリ、礼服などを持って急いで家を出る。八芳園に着いて更衣室に駆け込み、着替え、ベルトを忘れてしまったが腹が出たおかげで問題なし。なんとか開宴に間に合った。泥酔会仲間の木村さんのほかに、須田さん夫妻や、テリーさん夫妻。

飲み始めたら調子よくなり、シャンパンに始まり、ビール、白ワイン、赤ワイン、鏡割りのポン酒、すべて飲む。かつ食べる。式は神式であり、料理も和式。りかさんは漁業がらみの仕事、準一さんは農業がらみの仕事とあって、お2人ゆかりの産地や産品を使った料理が最初に出た。デコレーションケーキも、東京タワーをバックに、片手に魚片手に生ビールのりかさん、片手に大根片手に生ビールの準一さんというぐあい。

014楽しい宴会のあとは、着替えてから、八芳園のガーデンチャペルで司祭を務めている友人の牧師を訪ねた。ちょうど、式と式のあいだに、チャペルの中などを案内してもらう。なかなかよい環境。八芳園のことは前から彼に聞いていたけど、いいですよ。これから式を挙げる方は、ぜひどうぞ。この牧師も、すごく人気なのであります。

で、そのあと、蒲田で長崎から出張で来ていた友人たちと一杯やることになっていたが、彼が福岡まわりで帰ることになり、飛行機が早まったので飲み会は中止。助かった。

で、そのあとは、小岩の野暮酒場へ。「吉田涙のおつまみ横丁」というテキトウなテーマであったが、大勢さんがいてびっくり。吉田類さんが町田のほうのカルチャーセンターでやっている俳句仲間とかで、一緒に「袋まわし」なる俳句遊びをやったり、楽しく飲んだ。ああ、もうゴチャゴチャ書くのは面倒だ、ようするに最後は地蔵通りの植村に流れ、泥酔帰宅。今日はヨレヨレ。

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