酒飲みハンセイキ。
前のエントリーに書いた、おれの飲酒の半世紀と反省記である「酒飲みハンセイキ」の1回目、締め切りの24日に仕上げて送った。
調べて書いている最中からおもしろくて夢中になり、めったに出ない集中力、パンツ一丁でも寒さに気づかないほどの集中力で、風邪を引きそうになり、何年かぶりで風邪薬を飲むハメになった。
前にも書いたように、3回に分けての連載で、1回目は60年代70年代だが、いちおう現在まで流れを見通しながら書いた。これは『食品商業』の半年に1回、盆暮れの酒特集に掲載されるもので、販売のプロが読むものだから、単なる酒飲み回顧話や酒飲み自伝で終わるわけにはいかない。
忙しい商売の合間に読むおもしろおかしい飲酒物語でありながら、いまスーパーなどの酒売り場にある酒が、なぜそこにあるのかを、関連づけることも必要なのだ。
そういう意味では、60年代70年代以前から(実質、戦後の空気も濃厚だった50年代から)、自分と飲酒との関わりを、あれこれの視点や広い視野で眺めてみるいい機会になった。
「晩酌」と「飲む」の文化的な違い。厳然とあった「晩酌」のスタイル、大げさに言えば「晩酌文化」が、いつ頃から「飲む」との境界を失っていったかについて、自分なりに明らかになった。最後のほうは、こんなふうに、まとめた。
「ワインは酒の情報化の先陣を切っていたと思うが、70年代は助走にすぎなかったと言える。「情報化社会」は言われていたが、おれの酒は、まだそれほど情報化されていなかったし、周囲もそんな感じだった」
70年代は「振り返ってみれば、80年代の生産・流通・消費入り乱れての迷走への始まりにすぎなかった」「食事の前の正しい晩酌のスタイルは、少なくともおれにおいては、失われていた」。ってことで、次回に続く、なのだ。
話しは、おれが小学5年ぐらいのとき、山間の集落で秘造のどぶろくを飲んで腰をぬかすところから始まるのだが。飲酒から、戦後、高度成長、高度成長の終焉と迷走を眺めることにもなった。おれは70年代後半から、コンビニ進出を進める酒メーカーや酒問屋や酒販店、ワインやバーボンなどの輸入販売をすすめる食品メーカーや問屋に、マーケティングの仕事で関わってきたのだが、断片的になっていた記憶を思い起こすのにも、いい機会になった。
400字10枚では足りないぐらいで、おもしろい大事なことを、かなり短くまとめざるをえなかったが、力が入りました。書けなかったことは、どうせすぐ忘れるだろうけど。
締め切りまで日にちが無くややテンパリ気味に、この原稿を書いているあいだに、北九州市の『雲のうえ』17号が届いた。特集は「しゃべりぃ、ことば」。おもしろい、後日紹介したい。
ビレッジプレス発行『雲遊天下』から原稿依頼があって、見本誌の直近3冊が送られてきた。109号に、『下町酒場巡礼』の共著者で最近ちくま文庫から『酒場めざして』を刊行の大川渉さんが「記憶のかけら 酒」を書いている。読んでいたら「私の周囲の酒飲み、例えば『下町酒場巡礼』の相棒宮前栄、大衆食堂の詩人遠藤哲夫さん、朝日新聞の寅さん記者小泉信一さんらは皆、一年三百六十五日、毎日飲む。エンテツさんは「毎朝、一、二合の酒を飲むとシャキッとする」と話すほどだ」と書いてあって、おどろいた。宮前さんとはお会いしたことないが、大川さんと小泉さんとは、何度か飲んでいる。彼らのほうがおれよりはるかに若く、大酒飲みだが。
じつは、今日、その朝酒をやりすぎて、昼間は眠くて仕事にならず、締め切り迫っている、この雲遊天下の原稿も手付かず。
あとは寝るだけの夜の酒は、泥酔して寝ちゃえばよいのだが、朝酒や昼酒は飲みすぎてはいかんね。わかっちゃいるけど、とまらない。ってこと。
| 固定リンク | 0