人間はどうやって社会的に食べているのか。
わめぞが主催してきた鬼子母神通り「みちくさ市」は、来年から大幅にリニューアルされるそうだ。
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2月3日(日)には、そのリニューアル記念イベントとして、『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがし た柏の一年』(亜紀書房)の著者である五十嵐泰正さんのトークが予定されている。詳細は、これからだが、この日のために、ぜひ予定を振り向けておいていただきたい。
まだ決定ではないが、トークは2部構成になるようで、1つは、おれとの「食と農をめぐるユルいトーク」になる。ユルいトークだけど、たぶんめったに聞けない、というか、おれも話す機会がなくて話せなかったことが口からたくさん出てくる予感。
なにしろ、五十嵐さんは、社会学の教員、研究者であるだけじゃなく、柏の 「安全・安心の柏産柏消」円卓会議の活動で、畑の放射能測定をしているうちに、手で触っただけで畑の土の性質がわかるようになっちゃったというし、生産、流通、消費、さらに子育てから料理、ようするに食について幅広く経験し語れる方なのだ。おれも、それなりに経験してきているから、どんなトークイベントになるか、いまから楽しみ。
食べ物や食べることの話というと、栄養や健康でなければ、あの食べ物、あの店、この飲食、この味といった知識や情報を、文化の香りのするブンガク的かつ教養的な装いの「うまいもの話」や「ちょっといい話」や「エコな癒しの話」たぐいに仕上げたものが多く、それはまあ、大都会のタイクツな消費生活にとっては、何か意義があるのかも知れないが、あまりにも消費に偏りすぎてきたきらいがある。
ようするに、人間は「社会的に食べている」動物であることが、忘れられやすかった。その偏りが、今回の放射能汚染をめぐって、あらわになり、亀裂と混迷を深めている面もある。生産者と消費者のあいだの溝や不信感は、相変わらず深い。
『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』五十嵐 泰正+ 「安全・安心の柏産柏消」円卓会議 は、そんな状況下で、人間はどうやって社会的に食べているのか、あらわになった亀裂をどう縮めていくか、の書でもあるのだ。
関係ないかも知れないし、あるかも知れない、最近、内田百閒の『長春香』(福武文庫)を読んだ。百閒が身近な人々の死を追想した短編集だけど、飲み食いの話がたくさん顔を出す。その部分だけを取り出せば、『御馳走帖』の場面になる。『御馳走帖』は、たとえば中公文庫版のカバー表4に、「食味の数々を愉快に綴った名随筆」と紹介があるように、そのように読まれがちだ。ま、そう読んでもよいだろう。だけど、単にそれだけじゃないぞ、と思わせる凄味があるのも事実だ。
そのあたりのモヤモヤしたことが、『長春香』の解説を読んで、なんとなく晴れた。高橋英夫が書いているのだが。百閒という作者の人となりを語りながら作品を解説するなかで、こう書く。
「百閒の生来の「死」への恐怖心は、『昇天』が示すように「死」に引き寄せられてゆく「生」のすがたを描くことで、辛うじて堪えられているのである。」
百閒の描く飲食は、その「生」の姿にほかならない。「百閒の動悸、息苦しさ」そのままだ。
もう一つ。高橋英夫は、「百閒文学もかなりの程度まで私小説性を帯びたものだったといえる」としながら、ちょっと違うと言う。
「私小説が倫理的、宗教的だというなら、百閒は実存的と規定するのもいいかもしれない」
ってことで、考えた。
これまで一般の飲食談義に影響を与えてきた文学は、たいがいは日本的な私小説の流れで成功し名を馳せたものであり、「倫理的、宗教的な心境の浄化」をめざした結果、「粋」だのといったていどのことで気分よくしているだけで、その先がない。こういうものは、「人間はどうやって社会的に食べているのか」からはるか遠くにある。
だけど、じつはワガママこのうえなし「「自分一己」に執しつづけた」百閒だが、実存的であるがゆえに、そうはならない。「百閒の中からも、歴史や時代というものを読み分けてゆくことができる」
なかなか面白い。『御馳走帖』などは、実存のもだえ、うめき、興奮のようでもある。そして柏の円卓会議の取り組みも、実存を賭けたものだったといえるだろう。
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