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2012/12/12

鎮魂!小沢昭一、「私の青空」。

 やはり小沢昭一さんの死は、なんだか面白くないのである。落ち着かないまま、ときどき彼の本をめくっている。
 と、『小沢昭一的 流行歌・昭和のこころ』(新潮文庫)の「私の青空 二村定一について……考える」に、このような文章があった。
 「私の青空」は、一般的にはエノケンの歌として知られているだろう。しかし、昭和三年に二村定一が初めてうたっている。と小沢さんは書く。
 そもそも昭和六年でも、「「榎本健一・二村定一一座」と、どちらも座長扱いの二枚看板でございました」  「ところが更に翌年になると、看板から二村定一の名前は消えて「エノケン一座」となります」
 エノケンは「日本列島誰ひとり知らない者はないビッグネームとなりました」
 「かくてエノケン一座から離れた二村定一は戦後の昭和二十三年、わずか四十八歳でお亡くなりになるんでありますな」

 こんなぐあいにアレコレ述べたあとに、この文章がある。
 以下引用……

 そういう二人の差を思いますと、歌好き、ジャズソング好きの私としては黙っていられなくなるんでございましてね。二村定一さんに肩入れしたくなる。えーえー、もちろんエノケンさんはすばらしいですよ。しかし、二村定一さんの歌もすばらしかったんでありまして、「私の青空」は二村定一がエノケンより先に歌いました。

   ♪夕ぐれに あおぎ見る
    かがやく 青空
    日暮れて たどるは
    わが家の 細道

 この歌ね、私の葬式の時にぜひ流してもらいたいんだ。

   ♪せまいながらも 楽しいわが家
    愛の灯影の さすところ
    恋しい 家こそ 私の青空

 せまいながらも楽しいわが家、と二村定一さんが初めてうたったのは昭和三年。つまり、七十年あまり前でございますよ。それからこんにちまで、わが日本国国民のせまいながらも楽しいわが家の事情はどう変わったか。全然変わっていないことを思いますと、「私の青空」は実に先見の明に輝く歌であったと思うんですが、でもどうして葬式に流したいのか。だって「私の青空」は愛唱歌ですし、お棺に入りますと「せまいながらも楽しいわが家」じゃありませんか。あのなか、楽しいと思わなきゃ。

 ……以上。

 小沢さんの葬式については知らないが、小沢さんの鎮魂のために、ここに引用。

 鎮魂なるか。
 小沢さんは、この文章のあとに、こう続けている。

 「さて、二村定一とはいったい何者か。彼が日本で最初に「私の青空―マイ・ブルー・ヘブン」というジャズソングをうたった昭和三、四年ころというのは、まさに戦前でありまして、キナクサクはなって来たものの、しかしまだ軍歌、軍国歌謡時代がやってくる前でありましてね、アメリカのジャズが大流行でありました」
 
 去る11日の日経新聞の春秋には、以下の文章が載っている。
 http://www.nikkei.com/article/DGXDZO49422360R11C12A2MM8000/
 この筆者が、小沢さんに会ったとき聞いた話しのようだ。

 「「戦争ってものは、なっちゃってからでは止められません。なりそうなときでも駄目。なりそうな気配が出そうなときに止めないと」。かつてお話をうかがったさいに、こう力をこめていたのを思い出す」

 昨今の日本の状況は、日経新聞の春秋でさえ、この話しを持ち出すほどなのだが。当時は、「キナクサクはなって来たものの」、気配に気づかなかったのだろうか。それとも、気配に気づいていたが止められなかったという教訓なのか。

 昭和初期の大都会ではモボ、モガ、アメリカのジャズの大流行の一方で、山東出兵、張作霖爆死などが進行していた。

 もっとも、平和の崩壊やファシズムの到来は、自分の好きな趣味などに浸り、世界がキナクサクなろうが、自分の好きなことさえあればよいと浮かれて過ごしているうちに、生活や政治や経済や平和を語る言葉すら失うなかで、心地よくやってくるものだ。これは、日本だけのことではない、パリ陥落など、過去に事例がいくらでもある。

 小沢さん、こんな状況なんですが、ま、「せまいながらも楽しいわが家」の棺おけで、安らかにお眠りください。

 二村定一と天野喜久代の「私の青空」です。
 http://www.youtube.com/watch?v=HyfssJS8aJw

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