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2013/04/25

うどん×蕎麦。違いがわかる男。

『dancyu』4月号うどん特集の取材で、以前から気になっていた、うどんと蕎麦の文化の大きな違いについて、ますます気になるばかり。

取材のときも、うどん屋のみなさんは、「うどんは蕎麦と違って、決まりごとなんかないんです、気楽な食べ物なんです」てなことを言った。『dancyu』うどん特集の扉エッセイでも、北尾トロさんが、「蕎麦道、ラーメン道というものはありそうだが、うどんに道は似合わない」「うどんは極めるものではなく、とても日常的な食べ物だ」と書いたりしているのである。

蕎麦は、なんだか神秘的で神々しい、堅苦しい。別の言い方をすれば、もったいぶっている。なんだか、例の伝統的流派の「日本料理」のようでもある。じつに、ペダンチックなリクツと精神によって飾られている。それは、たぶん、「極めるもの」なのであって、生活ではないからなのかも知れない。

ウィキペディアの「蕎麦」には、「歴史は古く、寿司、天ぷらと並ぶ代表的な日本料理である」というぐあいだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6

寿司、天ぷら、日本料理を持ち出して、うどんの姿はなく、うどんより「格が上」なんだぞ、と言っているように見えなくないのだが、そう見てしまってはいけないのだろう。でも、そう見える。ついでだが、伝統的流派の日本料理は、寿司も天ぷらもうどんも蕎麦も、日本料理とは見なしてこなかった。

しかし、不思議なのだ。

そもそも、うどんも蕎麦も同じ日常の食べ物だったはずなのだ。実際、おれがよくいく秩父の山奥の家では、両方とも長いこと「主食」だったし、おれが行くたびに、うどんも蕎麦も、その家の人が打つ。そこには、どんな差もない。かつては、そうだったはずだ。

そういえば、前に、リッチ庶民のエルが、自宅に山形の出前蕎麦打ちに来てもらって、打ち立てを食べるという宴会をやったが、そのときの蕎麦打ちは、ナントカ流を名乗っていて、蕎麦打ちにも流派があるのを初めて知って驚いたのだった。

いつから、うどんと蕎麦に、そんな違いが生まれて、片方は、なんだか神々しいものになってしまったのか。これは、もしかすると、日本料理の二重構造と関係があって、うどんと蕎麦の関係から、その二重構造が、もっと見えてくることがあるんじゃあるまいか。と、考えて、気になっている。

そんなことだから、きのう、「うちは、いつでもお茶が飲めるようになっている。緑茶かほうじ茶。これが、いいんですなあ。一段落して、やれやれという感じで、今日のような肌寒い日は、茶碗を両手ではさんで一呼吸、しかるのちに飲む。まさに、いっぷくの幸せ、という気分。もう何十年も、家ではコーヒーを飲んだことがない」とツイートした流れで、思いついて、このように、つぶやいた。

「お茶やうどんが好きな人、おおらかな人が多い。コーヒーや蕎麦が好きな人、神経質な人が多い。ってわけるのは、無理がありすぎるか。いや、体験的な感じだけど」

お茶とコーヒーは、うどん×蕎麦にとってつけたことで、思いつきの話しのネタだったのだが。思わぬ反応があった。

Aさん「珈琲蕎麦好きですが、神経質かな?って、反応するのは、やはり、神経質ですね」とか。

Bさん「意識してうどんとお茶を摂取したら…変われるかもしれないと思いました」とか。

Cさん「全部好きです♪(笑)」とか。

Dさん「ずぼらかつ神経質な僕は、お茶とうどんと蕎麦が好きです(^^)(←聞かれてない)」とか。

で、おれも返信したのだけど、略。

そしたら、Aさんが、こんどは「珈琲は違いが分からないといけないと、CMの刷り込みが子どもの頃からありますからねえ(笑)」と返信。ネスカフェ・ゴールドブレンドのCMの件だ。

で、おれがまた「「違いがわかる男の」なんて、女は、どう思っていたんでしょうね。おれは、どのみち、違いどころか旨さもわからないまま」と返信。

するとしばらくして、 経過をご覧になったらしい別の方から、こういうツイートがあった。

蕎麦珈琲神経質説 楽しく読みました。もひとつ感じるのが、蕎麦 珈琲は「違いのわかる男」振るのに丁度いいんじゃないかと。価格帯とか、腹一杯にならない加減とか、老舗の存在とか、うんちく垂れるにはいろんな意味でちょうどいいのかも。— ♪みどりpiyopiyo♪さん (@midori_piyopiyo) 2013年4月24日

おお、これは、なかなか面白い。で、おれは、こうつぶやいた。

「「違いのわかる男」がウンチクをたれる条件と、それに適合した食べ物。って感じかな。いろいろありそうだ。ラーメンやカレーは、腹一杯になりそうだが、若いうちは、そうでもないか。」

うん。いま考えても、「「違いのわかる男」がウンチクをたれる条件と、それに適合した食べ物」があるような気がする。理論的にはともかく、切り口としては成り立ちそうだ。

それにしても、蕎麦はこれに適合して、うどんが適合しないのは、何故かということは残るのだが。うどんは、「違いがわかる男」のイメージでないかも知れない。凡庸なイメージで、芸術性や、粋や、スマートさや、エッジに欠けるから、とか?

とにかく面白い。そもそも、男の「食通」だの「グルメ」、ま、「粋」なんてのも含まれそうだが、「違いがわかる男」を自慢しあっている、可愛い道楽といえるか。「違いがわかる男」ぶっているのが多いから、CMのキャッチにもなったのだろう。

と、言っていられない状態が、昨夜は別のツイートであったようだ。おれは、ここまでの段階で寝てしまったのだが、今日、ツイッターを見たら、先の♪みどりpiyopiyo♪さんが、このようなツイートを残していた。

「昨日未明~今夜の @takinamiyukari さんの「マウンティング」の話と、さっき @entetsu_yabo さんと交わした「『違いのわかる男』がウンチクをたれる条件と それに適合した食べ物」の話が面白かったので、今夜は 寝ている間に記憶が整理されて新理論が確立しそうです」

@takinamiyukari さんとは、漫画家の瀧波ユカリさんのアカウントで、女のマウンティングをめぐって、なにやらいろいろあったらしいのだ。

マウンティングは女だけじゃなく、男もすなるわけで、それも男のは陰湿で怖いといわれることもあるぐらいだ。なにしろ、権力を持っている場合が多いからね。

とうぜん、そこには、「違いがわかる男」の争いもある。「これについては、おまえよりおれのほうが上だぜ、本物だぜ」とか。「おれは、あの店へ365回通った、どうだ」という類から、そりゃもう、始まるとすごいことになる。ま、考えようによっては、ブログといったものも、なんらかのマウンティングなのかも知れないが。

ネットを見ていると、ときどき、某有名料理評論家と某有名料理評論家が、すごいマウンティングをやらかしていて、いやあ、公衆の面前で、よくやるなあと思ったこともある。

ネットなんか誰が見ているかわからないのに、なぜか自分の仲間やファンに見られているってことだけ意識して錯角しちゃうこともあるようだ。自意識過剰というか。取り巻きにかこまれて、いい気になって、自慢しちゃう感じの人もいるな。有名な作家でも、たいした有名じゃなくても、取り巻きや編集者にチヤホチャされて過ごしていると、裸の王様に近くなって、カンチガイしちゃうこともあるようだから。ニンゲンは、そんなもんで、マウンティングはニンゲンらしい行為ともいえるか。

ま、こうやって書くことは、すべて恥さらしと思っていたほうがよい。

話がそれてしまったが、「「違いがわかる男」がウンチクをたれる条件と、それに適合した食べ物について」は、さらに研究を深めよう。

当ブログ関連
2013/03/14
『dancyu』4月号うどん特集、エンテツ「うどん食堂」本日開店!で、うどんアレコレ考。

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