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2013/05/09

どうして「趣味の審判官、味覚の真実の判定者だと」信じ込むのか。

「客観」や「中立」は自然に存在するものではない、一人ひとりが、これまで生きているうちに、家族や学校や友達や、さまざまな関係のなかで、自分のなかに棲み付いた主観や偏見を見つけ、向かい合うことで、客観や中立に近付くことを続ける以外ない。

ということを、本の原稿を書いていると、あらためて思う。だから、書くための資料より、自分の主観や偏見と向かいあうための資料を、多く読むことが必要になる。

『imago[イマーゴ]』1993年9月号は、「食の心理学」特集だ。そこに管啓次郎さんの「舌はいつだって混成の途上にある」という寄稿がある。

引用が長くなるが、備忘メモの必要もあって、ここに。この文の前に、いわゆる「南北問題」に帰結するような料理をめぐる話しがあって、この文章になる。以下……

「さまざまな料理について語ること」は、それ自体、きわめてローカルな態度だ。いろんな土地、いろんな文化グループの料理をひとところに集め、並列し、必要な金銭と交換にそのどれでも好きなだけ楽しむことができるように準備した北半球の大都市では、実際に入手可能な味の多様性に対応して、料理をめぐることばもまたとめどなく成長し、はなやぐ。東京で、ロスアンジェルスで、人はタイ料理/エチオピア料理/ニカラグア料理を同列に語り、それらのレストランの優劣を論じることができる。混沌とした味覚の熱帯は、北の大都市が独占しているのだ。こうした大都市に住みながら、人は味覚の「世界」を手に入れたと思いはじめる。自分たちをみずから任命した趣味の審判者、味覚の真実の判定者だと信じこんで、そこに誇りと自信となぐさめを見出す。だが、そんな都市の住民であるぼくらもまた、じつは「世界都市」という自分たちのたったひとつの棲息環境、みずから宣言した代表権によってグローバルを表象するローカルな一都市に、透明な鎖でつながれている存在にすぎない。いろんな料理を努力も抵抗もなく味わうことができるということ自体が、あるきわめてローカルな拘束なのだ。このパラドクシカルな限定を忘れて他の土地、他の舌について饒舌に語るとき、ぼくらはまったくうとましいやつらになってしまう。

……以上。

料理の分野に限らず、いまや、このパラドクシカルな限定を忘れて、他の土地や自分が「専門」とする他の何かについて、饒舌に語ることが多くなったように思う。「こうした大都市に住みながら」、人は何かの「世界」を手に入れたと思いはじめる。ときには、チヤホヤされて、その気になりながら、みずから自分を審判者や判定者に仕立てる。自分が、何かの代表であり中心にいると、カンチガイしてしまう。自分は、ほんのわずかなきわめてローカルな拘束のなかにいることを、忘れてしまう。

けっこう見かけるし、自分もアブナイ。だから、その危険をおかす危険を、よくわかっていなくてはならないってことだ。

管さんは、「しかしこれから、そんなうとましさの危険をおかして、ぼくが知る範囲での料理とその周辺のことばの密林に分け入ってゆかなくてはならない」と、分け入るのでありますが。このように、刺激的なことを、おっしゃる。

「料理が語られるのは、ある文化と別の文化との「あいだ」においてのみのことだ」「そしてこれらの「あいだ」で語られる料理をめぐることばは、大体つぎの三つに分類できると思う。報告/教育/空想だ」

それにしても、管さんのおっしゃることは、いつも、示唆や刺激にとんでいる。

以前も引用があるエントリーを検索してみた。
2008/01/22
「アラバマのグリッツ」にカレーライスの歴史を考える。
2008/01/17
再び「旅する舌のつぶやき」。
2008/01/16
旅する舌のつぶやき。

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