「米と肉」からの差別は、どうなっておるのか。古くて新しい差別の問題。
一昨日の2013/05/11「腹が減る肉体労働で食費の苦労」だが、五十嵐泰正さんが、これにリンクを貼ってツイートしてくださり、いろいろな方にご覧いただいているようだ。
「こういうとこを考えていくことは重要|「肉体労働者が作業着のまま気楽に飲めるところは少なくなっているようだ」「いろいろ文化的なイベントが盛んだが、そこで中心的役割を果たす「中間層」には、作業員姿の参加は最初から眼中にないようにも見える」」
https://twitter.com/yas_igarashi/status/333721182404763649
ほかにも、「最近「ラーメン職人になりたい」のでなく「手っ取り早く【経営者】になりたいからラーメン作ってる店主」が多くなったと感じるが http://goo.gl/xIVJL こんなこと何も考えてないか、店の造りはむしろ拒絶してるとしか思えんよな」というツイートもあり、そういわれてみれば、確かに、作業員姿でラーメンライスを食べてる光景が見られるラーメン屋は、少なくなったなあと思ったりした。
この件は、五十嵐泰正さんの『みんなで決めた「安心」のかたち』にも関係することで、その本を何度か読むと、やはり根っこにある「差別」を考えざるを得なかった。食と差別は、古くて新しい問題なのだ。
たまたま、いま読んでいる資料に、そのことに深く関係する文章があった。これはもう、いまこそ、よく考えなくてはいけないなあと思っている。
『imago[イマーゴ]』1993年9月号は「〈食〉の心理学」特集で、原田信男さんが、「米と肉のロンド」を書いている。「〈食〉をめぐる差別と国家」について述べている。
見出しを並べると、「稲作の始まりと国家の成立」「稲作の推進と肉の排除」「肉=穢れの深化」「食べるものと階級・差別」「肉食解禁の混乱と差別の固定化」「肉食文化と日本の国家領域」「肉はどのように食べられてきたか」「現代の差別と「肉と米」」。といったぐあいで、縄文や弥生あたりからの食と差別を扱っている。読みやすいが、ずいぶん、重い内容だ。
そこで、原田さんは、差別そのものについても考察を深めている。いま考えなくてはいけないのは、「差別は時代によって変化する」ということだろうと思った。いまの「差別」は、どういう状態なのだろうか。
支配階級による米の独占と、そのために肉食へ追われた人たち、水田を上位とする価値観と肉が排除される方向、そして穢れの思想の上に身分制度がのっかり、といった具合に差別は続いてきた。そして、いまでは、イチオウは、穢れの思想も身分制度も否定する「民主主義者」も多いようだ。
だけど、原田さんは、突っ込む。「肉食解禁になっても差別が残るのは、人間が内面的に持っている差別意識、優越感みなたいなものを払拭しきれないためで、よっぽど自立的な社会にならないと、差別はなくならないと思います」
被差別部落民だけじゃなく、被爆民や癩病患者や特殊な病気になった人や、沖縄やアイヌの人たちに対する差別を指摘する。
被爆民や癩病患者や特殊な病気になった人に対する差別の存在は、今回の放射能災害と食品汚染問題をめぐっても、あからさまになった。自分は「差別意識」を持っていないと思っていた人たちが、しかもなおかつ差別してないと言いながら差別する。そういう「無意識」の差別が、あからさまにあったし、いまもある。
そうなのだ「無意識的に規定している」差別が、あるできごとから、表面に浮上してくるのだ。
原田さんは、まだまだ突っ込む。これは重要な指摘だと思った。「いわれなき優越感、どこか絶対多数に所属しているというだけで、区別が差別に繋がっていくような発想が、まだ一般的に存在しています。おそらくそれが自立した一個の人間として、それぞれが他者の存在をきちんと認識できるような意識、感覚が持てるような社会になるまでは、差別は形を変えて残っていくものと思われます。身分に関わる差別は、何百年と続いてきたものですから、これをふっきっていくにはかなりの時間がかかるでしょう」
「我々は食物が眼前に物として存在することを当然のこととしており、その過程を知りません」そこに生まれる「自己中心的な世界をどのように解放していくか、という自覚を持てるかどうかにかかわっているように思われます。つまり、自分と違う他者が存在しているということを、どれだけ現実の問題として認識していいくかが、あるいはしみついているかいないかが、真剣に問われるでしょう」
「なかなか人間という奴は複雑でしょうけれども、自分を見つめ社会を見つめる目というものを各自で持ち、その根源をそれぞれが内省的に見つめられるようになれれば、差別というものはなくなっていくと思われます」
「どこか絶対多数に所属している」ということだが、これは、かつてのマスコミだけが「絶対多数」の支配下とは、SNSなどによって状況が変化していると思う。
趣味や嗜好や価値観の合う仲間やグループの「つながり」を確認し合うような拡大があり、そこに「多数」を確認するだけで、優越感を持ち、さらに「大」「小」に関わらず権威ある紙媒体や中央のメディアに取り上げられたりしたら、その優越感は、確固たるものになってしまう。それから、そのつながりから、自分は正しいことをしているという「優越感」を持つことも、あるようだなあ。
そのあたりから、「自己中心的な世界をどのように解放」するかではなく、自己中心的な世界を拡大する方向へ向かう。これは、キケンなことだと思う。
だいたい、差別なんてのは、「意識」や「文化」が「高い」ほうが、「低い」ほうを規定して区別し差別するものなのだ。その点、「中間層」は、とくに気をつけなければならないし、しっかり「低層労働」を視野に入れておく意識が欠かせないと思う。
ほんと、「真剣に問われる」時代だと思う。差別を批判するのは大事だろうが、それは「自分を見つめ社会を見つめる目というものを各自で持ち、その根源をそれぞれが内省的に見つめられる」ことでないと、批判だけして意識が高いつもりになり、どこかに差別を生むことになりかねない。
「よっぽど自立的な社会にならないと、差別はなくならないと思います」。『みんなで決めた「安心」のかたち』は、その自立的な社会を限定的に実現してきたものだろう。この本は、掘れば掘るほど、いろいろ考えることが多い。それだけ「濃い」内容だってことだ。
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